旅支度旅仕舞

 駅の構内で、彼は外を眺めていた。改札前の高所で、ビルや道が見える。代わり映えのしない景色。別に彼が住み、仕事として通う周辺がほかの地域よりつまらない――と言う訳でもない。単純至極にどんな場所でも千日見れば飽きるもの、それだけの話。そう、彼は考えていた。

 だから、物珍しさを求めているわけではない。要は己自身の心情、ただそれだけが全てなのだと。

 現金な――本当に、現金な発想である。

 極端な話、仮に人殺しが目の前に出てきたところで――怖くはあっても。嫌ではあっても。きっと情けなく逃げるだろうけど。このうだつの上がらない心の内にこもるやるせなさだけは、決して消えないのだろうな――彼がそう考えたのも、一度二度ではない。それ自体珍しい思考と言うほどでもないだろう。それはつまり、具体的に思考を晴らす方法が無い、と言う事でもあるが。


 今日も仕事場へと通う中、彼は日課のように視界に入る一人の姿を目で追う。それは老人だった。

 幾度と無く見かけた姿、とは言っても同じ駅を使っている人間同士ならば、誰ともなく見慣れた人間など珍しくはない。彼自身とて、現在進行形で名前も知らぬ誰かに「毎日見かける人」扱いされているのだろう。その老人はどうと言うことのない服装で怪しい挙動なわけでもなかったが、通勤時間と言えなくも無い時間帯で悠々と余裕ありげに――それでいて機敏に電車へと乗っているせいか、どこか彼の印象に残った。仕事と言うより、あたかも旅行にでも行く途中のような軽快さだった。


 しかし、頻度としては多い。毎日ではないが数日に一度は必ず見るのだ。ある日、彼は老人が一体なんの目的で電車に乗っているのか気になった。そう言えばよくあの老人の姿を見るが、一体何をしに乗るのだろう。一度気になると、毎日老人の姿を知らず知らず探し、目で追うクセが付いていた。

 そう、目で追う――それだけだ。追いかけもしなければ話しかけるわけでもない。そこまでアクションを起こすのは明らかに普通ではない。それに、態々聞いたところで満足できる答えが返ってくるとも思えなかった。別段何か愉快な答えを求めているわけではないのだ。ただ、興味を抱ける事象が存在すると言うだけで充分だった。頭に鉛でも詰め込まれたような気分が少しでも晴れればそれで良い。個人にエッセンス以上のものを求めてなどいない。

 今日は見える日だったようだ。件の老人が電車に乗って居なくなるのを見届けると――彼は、職場に行く電車へと乗った。




 彼が勤める場所は弁護士事務所で、あまり仕事は無い。まあ、彼自身はあくまで弁護士ではなくパートタイムで雑用をやっているバイトである。事務仕事などを片付けるが、通っていても依頼があまり無くので暇そうな日が半々と言ったところだ。そんな時は弁護士自ら掃除を軽くやっていたりと、かなり緩い。


「君、確か独身だっけ。気楽だねえ」

 と弁護士の男、飯島自ら雑談を振ってきたりする。たまにそれこそ訴えられるんじゃないかと思わしき危ういことを口走ったりするのだが、弁護士仲間に格安で弁護をせびるからまあ良いだろうと冗談混じりに飯島はよく言っていた。今のところこの曖昧な言動の雇い主が直接訴えられたケースは――彼が認知する限りにおいては、無い。

「でもさあ。趣味とかないの?」

 飯島からのその質問は計三度目であった。自分で聞いてはそれを毎度忘れているようだった。弁護士とはプライベートに近い言動だとここまでぼんやりとした人種なのかとは思うが、一概に決められるほど彼は弁護士全般の言動など知らない。雇い主であるこの男と事務所のことしか知らなかったし、知りたいとも特に思わなかった。


「ええ、特には。将来とか色々考えなきゃいけませんし――あんまり、余裕があるわけでもありませんから」

 一言一句完全に同一と断言できる訳でもないが、彼はそう前に聞かれた時と同じ内容の返答をした。

「あー、そうだったねえ」

 そこまで言われると流石におぼろげに過去のやり取りは覚えていたようで、飯島も適当に相槌を打つ。そんなボヤけたやり取りもまたいつものことで、別段彼の方も不快にも思っていなかった。結局、その日は仕事の依頼も無くただ掃除や整理などの雑務をこなすだけで終わった。




 仕事が終わって帰宅時の彼は、近隣住民との挨拶などが面倒に感じるのか、主にエレベーターに誰も乗らないようなタイミングをなるべく狙って帰る。一人暮らしのマンションの一室。誰も、誰も居ないそこに不思議と自由さを感じない。何をやっても許されるが――できることなど何も無い。そんなものだ。もっとも――自分が自由であるなどと、あらゆる環境で彼が感じたことは一度も無いのだが。


 まだ眠いと言う程ではないがベッドに体重を預けると、窓の外に止まっていた小鳥がその気配を察してか逃げていく。

 横目でそれをじろりと見る。

 鳥は自由で羨ましいだとか。そんなことを考える時も無かった。大体――そう思いをはせる人間は、ゴミ捨て場にたかるカラスを見てもそう思えるのだろうか。内心で意味も無く毒づいて、即座に阿呆かと自らその考えを翻す。実際の生態ではなく空を飛ぶ象徴性の問題だろう。これでは比喩表現にやいのやいのと噛みつくバカ丸出しの思考回路じゃないか、と。


 眠気が来るまでただベッドの上で横になって彼は何時間も待つ。テレビは嫌いで、酒は飲めない。タバコも吸わず、ゲームや賭け事に興味はない。皮肉にも何もやる事が思い浮かばないがために、一人侘しい生活ながら彼の健康状態は上々とはいかないまでもそこそこ安定していた。

 今日も今日とて彼は、何時間も何時間もベッドの上に横たわり天井や壁を眺め続ける。自然に眠気が来て、意識が落ちていくまで。

 何時間も――


 やがて、窓から差し込む日の光で彼の意識は覚醒した。朝が来て、シャワーを浴びて、着替えて近場のコンビニで手早く買った飯を腹に詰め込む。そうして最低限の身嗜みを適当に整えると駅へと向かっていく。それらを含めた毎日の動作全てが仕事のようだった。そう、何もかもがルーチンワークだ。ただ一点。何の気なしに老人を目で追う――それだけが、ただ彼自身が自分の意志で面白半分にやっている日課だった。小さな、本当に小さな意味の無い遊び。奇行とすら呼べないほどささやかでどうでもいい確認。


 駅構内を見渡して――今日は見かけないか、と彼が一呼吸おいて職場へ向かう電車へ向かおうとすると。

「あの、すいません」

 後ろから声が聞こえた。強めの声色からすると何度か既に呼びかけていたようで、彼は自分が呼ばれているとは思わずに聞き流していたのだが。いささか強めの声量と声の来る方向から、ああ自分に話しかけているのかと慌てて振り向いた。

 目の前には、いつも此方から一方的に見ていただけであった老人が、こちらを見ながら愛想のいい笑いを向ける光景があった。え、と口を開けて彼は固まる。

「勘違いだったらいけないんですが、来るたびに見られている気がして」

「え、ああ。いや、はい」


 戸惑いながらもゆっくりと彼は、粗雑に肯定の言葉だけをどうにかこうにか返した。すると、立ち話もなんだからと、そこのベンチでと老人が言ってくる。仕切りなおすように彼と老人は落ち着いて話すことになった。

 駅構内で誰かと会話をすると言うこと自体、彼にとっては初めての行為だった。金属製のベンチに座って、誰かとこうやって居るという状態が酷く非現実めいて思えた。実際、そう変わった行動ではないのにも関わらず――だ。


「最初は、よく見かける人が一体どこへ行くんだろうと、それが気になっただけなんです。いえ、特に何をしたいわけでもなくて……」

 弁解じみた――いや、事実弁解の言葉をしどろもどろになって彼は言う。だが老人はあまり気にもせずに。

「年寄りの一人旅が、そんなに珍しいですかね?」

 と、糾弾や訝しがると言うのとも違うニュアンスで、どこかマイペースな質問をしてきた。

「それは――いや、別にそれ自体珍しくはないですけど」

 確かに、これがうら若き乙女ならば傷心旅行などを勘ぐる下種も居るだろうが。老人一人が旅支度をしたところで、それはタダの悠々自適な旅でしかないだろう。

……そう言われると同じ人間、一個人であるのに、目の前の老人を見ると何か変にも思えた。例えば自分なら、ふらふらとどこへ行ってもおかしいと思われないのだろうか。そう考えて、結局自分のことなんて気にもされていないだろうと彼は気付く。


「いや、あまり頻繁に見かけるから。ちょっと、どこに行ってどうするのかわからなくて、印象深くて」

「そうですねえ。普通の旅行ですよ。行って戻って――中継点みたいなもんかね、ここは」

「中継点?」

「ま、さほど効率的ってわけでも無いんですが。家も近くて良く知っている土地なもんでね。一通り余所の土地を見たら、ここに戻って休んだりまた別の土地に旅をしに行ったり――」

 へぇ……と、彼は不思議そうに頷いた。確かに、どこか変わった形の旅だ。何より行動力や体力が無くてはそう上手くはできないだろう。

「成程ね。旅行か――俺も行きたいなあ」

 本当は、あまりそう思った事は無い。外出を好いているわけでもない。なのに、するするとそんな相槌が出てきた。

(ああ――)

 好き嫌いではなく前提からして、旅その物を意識したことがそう無かったのだ、と彼は気付く。


「若いと相応に忙しいんだろうね」

「いや、割と緩いと言うか暇な職場なもんで……」

真実そうであった。

「そうかぁ。ま、私の時代だともうちょっと激しかったかな。まあ、だいぶ前に定年でね。ストレートだと珍しいのかな?」

 転職もせず、ただ定年まで勤め上げるケースが珍しいのかと、老人は言いたいのだろう。

「いや、どうでしょう――ね。職種や会社にも寄るんじゃないですかね」

 何せウチはカツカツに近い弁護士事務所ですから、と彼は言った。へえ、と老人が関心したような声をあげる。

「弁護士さん?」

「いえバイトの雑用です」

 自慢げに言えるわけではないが、別に見栄を張る気も無く気負うでもなく彼は言った。

「へぇ。私の会社だと私と同じパターンでの退職者は居なかったのだけれど」

「そう……なんですか」

「ま、家族が居るしねえ。職業事情やらなんやらで、皆思うところがあるらしくて」

 どこか曖昧な言葉で濁す。積み重なった思い出の中には、あまり言いたくもないような部類の物も多いのかもしれない。


「自分が安定して働けたのはやはり少数派である――と?」

「共働きだったからね。色々がむしゃら……ってほどでもないか。なんだかんだ熱意と言うより生活が一番でやってたらいつの間にかねぇ」

「立派じゃないですか」

 俺なんて何年後に自分がどうしてるかもわかりませんよ、と半ば以上に本気で彼がフォローの声をかける。

「そう? でも、家族に苦労かけなかったかと考えてみると……ね。あまり胸を張れる感じでもないんだよねぇ――」

 そういった部分に関してもあまり人の事をとやかく言える立場ではないためか、彼もやや目を泳がせ、黙って老人の話を促した。

「そりゃ育児は何時の間にかあっちの方にいくらか偏っていたかもしれないけど、私だって家事をやってなかったわけじゃない。でも、どうしても子供なんてのは接する時間が長い方の味方になりやすい。気付いたら私の影はすっかり薄くなってしまってね……そう思うと、なんだ」

 具体的にどことも言えぬ視線。老人はどこでもない場所を遠く見つめて一拍置いた。


「別に私が居ても居なくても同じなんじゃなかろうかとね。だから旅に出ると言って出てきたんだ」

「それは……心配してるんじゃ」

 場合によっては蒸発、となってしまうのではないだろうか。

「いやいや。ちゃんと了承は取ってるから」

 一転して本気か冗談かわからない声色に、思わず彼は意図せずして笑う。さてと――とばかりに肩を鳴らして、老人は頃合とばかりにどっこいしょと腰を上げた。

「行くんですか?」

「ああ、東北あたりには行ったから今度は西に行こうかとね」

「旅の話、聞かせてくださいよ」

「良いとも」

 老人はいつも彼が遠間から見ていた時と全く同じ様子で、どこへともなく電車へと乗っていった。

 彼は、それを見送ると何時も乗っている電車へ自分も向かった。彼の世界はまたルーチンワークへと復帰していく。が――不思議と、彼は昨日のそれよりも退屈さを感じなかった。




 以来、仕事の前にちょくちょく老人と彼は駅構内のベンチで会話を重ねるのが恒例となった。ただ凡庸な旅行や日常の体験談に過ぎないと言ってしまえばそれまでかもしれないが、直に老人の挙動や私見などを交えて聞くそれは、旅先の光景などが、染み入るように彼を楽しませていた。

 ある日、老人はふと何の気なしに彼へ訊ねた。

「君自身は旅をしようと思わないのか?」

「俺は――まあ、行動のできない男ですから。気力に欠けるって言うんですかね」

 自虐はあれど、事実である。だが、老人は彼の自らを皮肉る言葉にも、穏やかに笑って返す。


「何も強く決心する必要はないよ。絶対に行きたいと熱烈に思わなくても、適当な場所でも行ってみればその内楽しくなってくるもんだ」

「そういうもんですかねえ」

 つまるところ、自分に欠けていたのはそれかもしれない――老人の言葉を受けて、彼はふと思った。

 努力だとか、熱意と言うより。意味なく何かをやってみるような適当さが無いのかと。なら――


「ま、寝る場所の確認や寒暖に関しては事前に気を付けた方がいいけどね」

 そう追記する老人に対して、彼はおずおずと聞いた。

「今からじゃ、遅くないですかね?」

 すると老人はただ黙って自分を指差した。遅すぎるなんてことはないだろう、自分を見てみろ――とでも言いたげな皮肉な笑みを添えて。

 成程……と彼は呟いて、ではどこぞへ出かけてみようかと暫し黙考に入り――

「そうですね。次に会う時までには、どこか行ってみる場所でも考えておきますよ」

 どこか今までよりポジティブさの混じった声音でそう言った。

「そうかい」

 とだけ老人は答えて去っていく。その端的な返答に満足したように彼もまた、仕事へ向かう電車へと静かに歩いて行った。


 次の日。

 彼が意味も無く昨夜決めた、旅に行きたい場所を報告でもしようと意気揚々と駅まで行くと、ベンチに座っていた老人を発見する。だが、おやと違和感のような何かを彼は覚えた。

 別段何が前日と違う光景と言う訳でもないのだが、何かがおかしかった。

 話しかけると、いつもと変わらぬ口調ではあるが彼に対してどこか違和感の付随する言葉で老人は動いていた。どうしたんですか、と彼が思わず柄にもなく心配するような言葉を放つと――

「いや、家族に捕まりかけた」


 参った参ったとばかりの言葉だが、端的な文言に反してそれは彼をより困惑させるものだった。

「捕まりかけたって……」

 どういうことだ、と彼が聞こうと思ったが。老人は彼の問いかけを無視して、何処へともなく歩きだす。先導するように付いてこい、と言わんばかりの動作だった。

「ちょっと疲れてね、一服でもしようか」

 そう言うと、老人は駅構内の喫茶店に入っていった。彼はしばし迷って――困ったように、後を付いていった。


 店に入って何も注文しないわけにも行かず、テーブルの上の注文で来たアイスコーヒーを気まずく眺めながらも、彼は着席している。向かいの席には彼を誘った老人がアイスティーを飲んで一息ついていた。駅構内の喫茶店自体は風景の一部として見慣れた物だが、結局一度も入ったことのない場所だった。しかし入っている今、そこはどこか目新しい光景でもある。別段、風変わりでもなんでもないが、彼が日頃繰り返す行動からのズレが強く感じられたのだ。ほんの僅かな視点の違いが、新鮮にも違和感にも思えた。

 老人は、そんな彼の心境を知ってか知らずか自身について話しだす。自然と、彼は聞き入っていた。曰く老人の家族が自分を探し回っていたと言う。


「とまあ、それでね。昨日私の家族が私を見つけ出して、家に帰れと散々に叱るわなじるわ――なだめすかしてなんとか追い返したけどねえ」

「それは……その、何か家族に急変でも」

「いや。そうじゃなくて、私が旅に出るってこと自体を聞いてない……とかなんとか。ちゃんと、言ったのになあ」

 旅がしたいとも。休ませてくれとも。全て言ったと。

「だが、ロクに聞いちゃくれなかったわけだ」

 意味深にも思える笑いを老人は見せる。彼の目からすると、それは自嘲にも似て痛々しく見えた。己の言葉が、認識が家族に軽んじられている――そう突きつけられなじられるというのは、一体どういう気分なのだろう。それは、家族などとは疎遠になっておりむしろ自分自身が認識をぼやけさせている側である彼にとって、どこか罪悪感のような物を錯覚すらさせる打ちあけだった。


「その、じゃあ――お帰りに?」

「まあね。君とはあまり深い関わりでもないだろうけど。暫くこうやって言葉を交わすことも無くなるやもしれん。まあ、良い区切りとも言えるし――お、美名だ」

 唐突なその言葉に気付いて後ろを覗き込むように見ると、そこには三十半ばほどだろうか、慌てたように小走りで来る女性がガラス窓の向こうに来ていた。

(娘――か?)

 微妙に彼のすぐ傍に居る老人の面影のようなものが見える。女性は老人の前にまで到達すると、息を整えながらも――


「お母さん! 何をしているの!?」

 と、糾弾するように叫んだ。は? と、彼の時間が思わず止まる。お母さん、と呼ばれた老人は――どうということでもないだろうとばかりに平然と会話を始めた。

「旅行だよ。こっちはたまに話をしている人さ」

「……お父さんから聞いたのよ、居なくなったって! それにそんな若い男と……!」

「おかしいねえ。私は言ったのになあ。ま、疾しいとこは無いから安心しなさいよ。ただの友達だよこの人は」

「そんな……」


 心身共に疲れているのか幾らか涙目のようにすら見える美名が、言葉に詰まったようになる。流石に娘が弱っているのに同情してか、子供をあやすように老人は自らフォローをし始めた。

「アンタねえ。私がさ、そんな艶っぽいことになりそうな女に見える?」

「それは――」

「そういうのが似合いそうなのはむしろアンタでしょうが。あ、家族間でもセクハラかなこれは? まあ先にそんなの言い始めたのは美名だから、あいこか」

 あんまりにも老人がマイペースに喋るものだから、美名は面食らったような奇妙な表情になって――やがて、溜息をついてがっくりとしたように顔を手で押さえた。

 いたたまれなくなった彼は思わずフォローに回る。

「あの、俺も本当にそういうことじゃないですから。ただ、旅の話を聞いてるだけで。正直、お互いそこまでよく知っている間柄でもないんですよ」

 別に嘘ではないのになんだか言い訳じみた台詞になってしまう。だが、当の美名には意図が通じたようで。事態も理解しているのだろうか、落ち着きを取り戻しつつあった。


「……そう、ね。ごめんなさい。急に母さんが居なくなったからって、私――ちょっと取り乱したみたい。初対面の人に失礼な振る舞いまで。私、森崎美名と言います」

 自らの言葉を今になって美名は謝罪し始める。日頃はあそこまで取り乱すような性格ではないだろう、むしろ非常事態で無理をしているだけの内向的にも見える女性だった。影のある整った顔つきがまた、ここに居る自分の存在自体が心労となり続けているようにも思えて――謝られた側である彼が逆に、気まずいようにスイマセンと何度か謝り返してすらいた。

「いえ、良いんです。どうせ、お父さんがろくすっぽ聞いてないことまで把握してたんでしょ。その上で言質を取ったとばかりに居なくなって……もうっ」

 なんのことかな、とすっとぼけたような顔をする母親に、美名は呆れたように――それでいて、母のこういった挙動が常習犯であるかのような態度で眉間を抑えた。


(この人――この、人って)

 あたかも家族に長年縛られ、自分が薄い存在であるかのような思わせぶりなことを言っておいて――実はとんでもなくやりたい放題な生き方をしているんじゃないろうか。彼は呆れながらもどこか、関心にも似た感情すら覚えた。

 悪びれず娘を慰めるように言う母。溜息をつく娘。苦労していると言うべきか、微笑ましいと思うべきか迷う情景だった。

そして。護送される犯人のように連れていかれる女性――美名の母親である森崎氏を見送る形で、彼のどこかズレた日々は区切りと終わりを迎え、また完全な反復作業じみた日々へと回帰していった。元々、何が特別なことは起こったとは言えないが。


(家族、か)

 自身はどうだったろう、と彼は度々己の家族を省みるようになった。別段家族との関係は険悪だとか仲違いというわけではなく、実家も精々今の家から数駅程度の距離しか無いため帰ろうと思えばごく普通に帰れるのだが、面倒になって連絡もせず、帰りたいとも特に思わず、だらだらと数年の歳月が流れていた。それを悔いてもいないが、あの美名という女性のように心配しているかもしれないと思うと――いずれ、顔くらいは見せようかと。そう、彼は思い始めていた。


 そして老人が家族の元に連れて行かれた次の日から、彼は老人――森崎の顔を見かけなくなった。構わず職場へと向かう。

「君さ、最近ちょっと柔らかくなった?」

「そうですか?」

「なったなった」

 飯島のどこまで本気かわからない言葉が彼を評するが、別段否定する気にもならず、違うとも思えなかった。

「来週、休み入ってますよね」

「あーうん。なに、出かけるの?」

「はい。旅行にでもいこうかと」

「へー。そう言うの行くタイプに見えなかったから」

「いや、自分でもそう思ってたんですけどね。知人の話を聞いてたらなんとなく行きたくなって……」




 休日が来て彼は準備を終え、いつもは通勤へと用いる自宅付近の最寄駅に、似合わない感じで、どこかはしゃぐように足取り軽く辿り着いた。

 同じ土地にずっと居ても、知らない場所はある。使わない物がある。駅とは、それが最も明確に表れるものやもしれない。いつも通う路線、いつも到達する目的地。当然ながら、日頃常に通う場所、行く施設以外に足を向けることは無い。だからこそ、普段と違う方向へ行くと――何も変わりない筈なのに、高まる物がそこにある。存外、旅とはその一瞬の感覚だけに行う物かもしれない。彼は、いつもと違った面持ちでそう考えながら行き先の路線を探していた。


 と――ちょうど、すれ違うように。改札前で、一時期見慣れた顔がひょっこりと見えた。

「おやまあ」

 彼の存在に気付きのほほんとした顔を向ける、森崎であった。

「はは、随分家族にゃ絞られたよ。いやー心配されたされた。ま、ほとぼりも冷めたし説得もできてこうして旅の続きができてるわけだね」

飄々としたその様は最初に会話を交わした時と、いや偶然彼の目に入った時から変わらない表情や所作だった。

「あの、俺。失礼かもしれませんけど……」

彼は、耐えかねるように自身が相手の性別すら勘違いしていた事を謝ろうとするが。森崎は、別にどうということでもない風に。

「ああうん。若いころから間違われやすい顔立ちってね」

 とアッサリと言ってのけた。


 最初からこっちの節穴加減をわかっていたのか、と彼は目を白黒させて――ふと、抑えきれないように笑った。本当に、自分自身が固定観念の塊なせいか。それに囚われない目の前の人が見ていて酷く愉快に思えた。

「ていうか、大丈夫なんでしょうね。ご家族のこと」

「大丈夫大丈夫、ちゃんと言ってきたからさ」

 今度は本当にね。森崎はそう言って手を振ると、ふらっと改札の向こうへと行ってしまった。

 一瞬、追おうかと思ったが。

 その後を付いていくように追いかける数人の男女――その中には前に会った美名という女性も居た。その集団を見て、ああ、あれが森崎の家族かと彼はどこか納得したかのような笑みを浮かべた。彼女は、ああやってさも自分が枯れた大人しい人間の風に言っておきながら――楽しげに家族を振り回してきたのだろう。いや、それも勝手な決め付けかもしれないか。何せ自分は相当な節穴だからなと、彼は苦笑する。


 さて、それじゃあ俺も旅行を始めるかと、彼がいつもと違う目的の路線に乗ろうとするも――

「あ」

 あの人に、自分がどこの旅行に行ってみたいのか決めた場所を言うのを忘れた。

 彼は呆けたように数秒立ち止まって――まあいいかと、やがて目当ての路線へと歩いて行った。ひょっとしたら、行き先が同じかもしれない。そう、考えながら。

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