第16話

12


ホテルの支払いはショッピングセンターの駐車場みたいだった。

カードキーを差し込むと料金が表示される。

12000円をスロットルに食わせた水嶋は、「払わずに逃げれるよな」って笑ってた。


馬鹿め童貞。


ラブホテルだってちゃんとフロントがいる。カメラか壁の隙間から見られてるし、車のナンバーが宿泊台帳の代わりだ。


シュッとしたエース営業の顔になってる(もしくは装ってる)水嶋を心の中でこっそり堕としめてバランスを図っとく。



薄暗い駐車場から車を出すと水嶋が心配した空は眩しいくらいの晴天だった。


目的の会社は郊外にある。


昨日と打って変わり空いた道路は何の問題もなくスイスイと進む。


水嶋が早く出ようと急かしたのは昨日、予定通りに着けなかった事をミスだと思ってるからだ。


車で長い距離を走るのに30分くらいしか振り幅を残してないのがそもそもおかしい。


600キロはあるんだから7〜8時間って計算するのが普通だ。ふt時間まで定規で測るなっての。


予定を聞いても何となく納得してたのは水嶋一人なら出来たかもって思ったから。

思っただけじゃなく水嶋なら何としてでも時間通りに着いたかも。


つまり、もしかして邪魔なのは俺?


うん。徹底的に妨害してるって自覚はある。


それは現在進行形。腹が減ったと喚いて目に付いたファミレスに車を止めた。




「俺の分も適当に選んで注文してくれ」

「何でもいいんですね?」


「……ああ」


生返事をした水嶋はまた電話


ステーキセットとかグラタンとか濃い物をチョイスして困らせてやろうかと思ったがメニューを見ても食べたい物が無い。


何度もメニューを見直してから気が付いた。全然腹が減ってない。


何かが気になって食欲が無いとか俺には絶対ないと思っていたのに何だかお腹がいっぱい。水嶋の言葉が腹に溜まって沈殿してる。



──俺にはそんな価値が無い。


そう聞いたのは二度目だが何を意味するのかはわからない。


恋愛に関してはちょー稚拙で下手くそなくせに難しい事言いやがって……


「何か言ったか?」


独りでに口から漏れていた文句に返事をされてしまった。

メニューを下ろすと水嶋は電話を終えてメモを取り出してる。


「こっちの話です。それよりいい加減教えてくださいよ。「今日は忙しい」って何ですか?俺はヘトヘトで使いもんになりませんよ」

「ヘトヘトなのは俺も同じだ。……主にお前のせいだろ」


そこで赤くなる。

向こうを向いた首と耳が真っ赤に染まってる。


今頃かよ。


もう訳がわからない。


「で?何をするんですか?」


「お前……」

「はい」


「生き物は好きか?」


「は?突然何ですか」


生き物が好きか嫌いか……簡単なようで難しい質問だ。犬が好きかと聞かれたらそれなりに好きだ、猫が好きかと聞かれたら是非飼いたい。

ダイオウグソクムシが好きかと聞かられたらラインナップがおかしいと抗議する。


それがどういう意味かを考える暇は無かった。



「水嶋さん!!こいつ噛みます!!」

「おい!振り払うな!傷を付けたら許さないぞ!有り難く噛まれとけ!」

「有り難くありません!」

「だから何回も言ってるだろう!心の中が態度に出てんだアホ!」

「俺が嫌いみたいです!」

「好き嫌い言うな!俺だって…うわぁ!」


水嶋が手に持っていたバケツを横取りされてペンッと捨てられた。拾いたくてワタワタしているのに黒い巨体はスーツ二人組が慣れていない事を見透かしたようにバケツを跨いでしまい動かない。


心なしか嘲りの表情が浮かんでる。


「牛が相手なんて聞いてません!」

「言ったらお前うだうだうるさいだろ!」

「当たり前です!」


そりゃうるさいよ。

柵の外からなら「かわいい」とか「大きいね」で済むけど中に入ったらうるさくもなる。


いつもなら事前に知らない会社は調べたりするけど、佐倉と喧嘩して酔った上に晩続けてのセックス、必死なんだからそんな暇あるか!


「一言くらい説明するべきでしょう!俺のスーツは新品ですよ?」

「だからいかにも手伝いますって駄目だと言ったろう、見ろ!「みんな」見てるぞ!」

「でも!うわあ!」


引っ張られて振り回されて膝をついた。

何かビリって音がした。


破れた、絶対どこか破れた。


何をしているか説明が欲しいって?

聞かれなくてもする。

論文にする。


「イマカツ工業」は株式会社として営む酪農牧場だった。業務シフトがしっかりと組まれ、休日を約束して人員確保をしている。

その為時間外の訪問を断られた。


何故こんな遠くまでわざわざ水嶋が来たのかと言えば、奥田では飼料に混ぜる味や匂いのしないビタミンやミネラルを開発中でそのテストに協力してもらったらしい。


「何も考えずにただ付いて来るだけだから慌てるんだ、自分が動く意味を考えろよ!それじゃいつまで経っても独り立ちなんて出来ないぞ」

「水嶋さんこそ腰が引けてますよ、何で手伝うとか言っちゃったんですか」

「アホ!朝の忙しい時間にお邪魔して仕事を増やした上に何もせず帰れるか!お前がモタモタして遅れたから……うわぁ!」


ジャブジャブと落ちてきた大量の水流はおしっ○、飛び退いたが水嶋のスーツにかかって片袖が水没。牛はしてやったりと笑ってる。


ニヤニヤしてる牛の隣で他の従業員も笑ってる。


笑うの?

別のタイミングならそりゃ面白いだろうけど笑ってる余裕は無かった。


手伝うと請け負った仕事は下敷きになってる藁を掃除して新しく入れる。その他は餌箱の掃除をするだけだが牛の態度が悪い。根性が悪い。


慣れた従業員に見られている時は大人しくせにスーツの二人組に対しては物凄く意地悪い。

明らかに態度が違うのだ。


これははっきりとしたイジメだ。


牛の顔!


牛はもっと嫋やかで優しいと思っていたが言葉を発しないだけで人と全く変わらないくらい色々考えてる。


だって……悪さをする時は従業員が見てない隙を突く。背中を向けてる一瞬でも狙ってくる。意地悪く片口を上げていると思ったら振り返って無垢の笑みを浮かべる。最悪の性格。


やる事なす事邪魔が無ければ簡単なのにややこしい。


「水嶋さん!目が沁みます!」

「慣れろ!」

「何故?!」


慣れてどうする。

これっきりじゃなければ退職する。


慣れない匂いにせる。

慣れない動きに関節が痛い。


牛と戦い、藁と戦い、牛のストレスを解消しただけ。何の役にも立てないうちに昼休憩だとモーツァルトのメロディが静かに流れた。


ご苦労様と呼ばれて(半笑い)竹箒を置くと水嶋がいない事に気が付いた。



「水嶋さん?」


「ここだ」


牛に塗れた奥から声だけが聞こえた。


「ここって……昼休憩ですよ、逃げていいんですよ、そんな所で何をしているんですか?」


「先に行っとけ、俺もそのうちに追いつく」

「だから何をしてるんです」


水嶋は牛舎の奥で突っ立っているだけなのに動こうとはしない。牛が邪魔でよく見えないから嫌だが一度解放された柵をもう一度超えた。


すかさずジャケットを齧られたが相手をしない。もうちょっとは学んでた。

イジメは騒ぐと面白がられる。


あちこちを引っ張られながらも無視して奥に行くと、罠にかかって困っているかと思えば水嶋はやっぱり立っているだけ。掃除はもう終わっているように見える。


「今日はこれで引きあげるんですよね、なるべく早く出発した方がいいと思うんですけど……何してるんですか?」


「踏まれた」


「………何の話です」

「踏まれんだよ、下を見ろ」


「あ………」


水嶋の足元を見ると牛が長靴を踏んでいた。

鉄板の入った安全靴だから怪我の心配は無いが牛の後ろ足がガッチリと長靴の上に乗ってる。


罠に掛かっているのは正解だったがこれは困る。


「牛を退けたり出来ないんですか?」

「押しても引いても動かない」

「俺が長靴を引っ張りましょうか?」

「アホ、怪我をさせたらどうするんだ、穏やかに説得しろ。話を付けろ。稚拙な営業トークでも田舎の牛なら通じるかもしれん」



「…………だって…………牛ですよ?」


「牛なら何だ、こいつらは明らかに会話を聞いてる。牛語は散々聞いただろう、スキルを増やせ」


無茶を言うな。

そのスキルは何の役に立つ。


実は手伝いに入る前に簡単なレクチャーを受けていた。足を踏まれ、ビックリして引き抜くと体重の重い牛はあっという間に骨折したり挫いたりする。怪我をした足は治療するリスクより屠殺を選ぶ事になるらしい。


噛むとか意地悪をするって注意は無かったのにそこだけは気を付けろと教えてくれた。


他に手が無いならやるしか無い。


「………「も〜…」とかでいいですか?」


「固定概念でいい加減な事言うな、牛は「もー」なんて言ってない」


「確かに……ぶお"お"〜て聞こえます。」


「発音が違うんじゃ無いか?最初に「ん」が入ってると思う。それに今のは文句を言ってるように聞こえるぞ」

「言ってません」

「そう聞こえるって言ってんだ」


文句言ってます。

間違いなく文句言ってます。

大体牛達は間違いなく人の言葉を理解してる。

慣れない牛語を開発するより余程通じると思うがこれは先輩の命令だ。

アンモニアでひりついた喉を慣らして心を込めてみた。


「んぶお"お"〜〜〜………(申し訳ありませんが足を退けていただけないでしょうか)」


「…………」


「…………」



「……お前……恥ずかしく無いのか?」


恥ずかしいです。


「勝手に踏まれててください」

「諦めんな」

「ご自分でどうぞ」

「俺は専門外だ」

「俺だって専門外です!」


この水嶋の足を踏んでいる牛は水嶋が気に入っているらしい。掃除をしている間中後を付け回し、集中的に小突いたり頭を擦り付けたりしていた。


心の中で「佐倉」と呼んでいたのは言うまでも無い。


「おい早くしろよ、体勢が辛い」

「この際力尽くで押し退けた方が早いんじゃ無いですか?」

「出来るならやってるわ!」

「出来なくてもやってください!」


騒げば騒ぐ程「何だ何だ」と他の牛が見に来る。


「佐倉」を押すと他の牛がジャケット引っ張って邪魔する。


新品なのによくも簡単に汚してくれる。もう提訴。


結局は様子を見に来た従業員に助けて貰ったが(ちょっとお尻を押しただけでどきやがった)水嶋は結局20分くらい「佐倉」に足を踏まれたままだった。


笑いを堪える工員に案内されて牛の嘲りと罵倒を聞きながら牛舎をお暇した。


気のせいでも何でもない、「一昨日おととい来やがれ」って聞こえてる。


もう帰ってこないよ。


このまま帰る。


連れてきてもらった休憩所?詰所?は……何か豪華。


イマカツ工業は徹底して社員サービスを図り人員の確保に腐心している。


長靴を洗う浅い水溜まり。(消毒も兼ねている)ガラスの自動ドア。水嶋と二人で綺麗な建物に入るとシャワーを勧められた。何と豪華ジャグジー。


そりゃ二人共見るからにボロボロで……ちくしょう、やっぱり袖の付け根が破れてる。最安値のスーツでも一日で廃棄なんてどうしてくれる、この際だから牛への訴状に損害賠償も加えてやる。


シャワーは断ったが話が盛り上がって帰るタイミングを失った。


なるべく早く帰りたいのに余程面白かったらしい、断るつもりだったのに昼のまかないを勧められてしまった。


メニューは牛丼。


……うん、牛の性格が悪くなるのはわかる。


水嶋は食べたが俺は鼻の奥に溜まったアンモニアにやられて食欲なんてない。丁寧に辞退した。





牧場をお暇出来たのは昼を大きく過ぎて時計の針は2時前を指していた。


「疲れましたね」


「ああ、もし運転に限界が来たら早めに言え、仕方ないからもう一泊するつもりで走っていい、無理はするなよ」


「………はい」


無理をしようと思っても出来多分出来ない。


実は、二日酔いだと思っていた体調不良は時間を追って酷くなっていた。

そう言えば朝から手足の関節が痛かった。突然噎せ上がってくる咳は頻度を増して今は間髪無く襲ってくる。


水嶋に隠すのは至難の技。


悪い時には悪い事が重なるものだ。

高速に乗って暫く走ると渋滞が酷くなり、とうとうピッタリと止まって寸分も動かない。


2時間も車列の中で停車していると明らかに熱が上がっていた。


「……コホ……」


喉が変も変。頭が異様に重い。

車が動かないせいもあるが集中力が切れて眠りそうになる。


ブンっと頭を振ると水嶋が思いっきり眉を捻じ曲げて水をくれた。


多分これは心配してる顔。

……その眉間……もっとわかりやすく慈愛を出してくれ。



「江越、お前具合悪いんだろう」


「………牛のせいですかね」


「牛は関係ない、いつもいつもふざけた奴だな、ちょっと待ってろ」


具合が悪いって言ってもどうにもならない、出来なくてもやらなければならないって今が正にそう。


笑う代わりに咳で返事をすると水嶋は「何があったか聞いてくる」と言って高速道路なのに車を降りた。無線を積んでいる事が多い長距離トラックの方に走って高い座席に登って何か話している。


「ん?何してんだ…あの人」


ドアが開いたと思ったら中に入ってる?

膝で這い上ってるのかお尻がフリフリしてる。

こんな時の水嶋はやっぱり頼りになる凄い先輩だけど中までお邪魔する必要があるか?


こんな時まで心配させてくれる。

礼を言うよ。


何だか眩しくてうっかり笑ったら鈍器で頭を殴られた。


「これは……まずいな…」


頭蓋骨をかち割る勢いの酷い頭痛が襲う。止まらない咳を何とかしようと水を飲んでいたがそれも切れてしまった。


本当にまずい。まだ工程の五分の一も進んで無い。携帯の時計を見るともう夕方に差し掛かっていた。


「どうしよう」


ただでも予定が伸びている。足手纏いになりたく無いが抗えない。


熱に潤んだ目は視界に紗がかかる。


ぼーっと車列の風景を目に写しているとペットボトルを二本も抱えた水嶋が車に戻ってきた。



「ほら水だ、飲めよ」


「それどうしたんですか?」


「頼み込んで分けてもらってきた、ほらじゃがりこも貰った」


うん、じゃがりこはいらない。

頭が痛いから笑かすな。


「何があったか聞けましたか?」

「ああ、この先で玉突き事故があったらしい、暫くは全面通行止めが続くみたいだな、運転代わるから席を移動しろ」


「え?水嶋さんは運転できないんじゃ無いんですか?」

「出来ないけど免許はある。まだ渋滞は続くし真っ直ぐなら何とかなるだろう」


「……わかりました」


迷惑を掛けたく無いが水嶋の申し出は助かったと言わざるを得ない。頭がぼうっとして自分でも運転は無理だなと思い始めていた。


重い体を持ち上げて席を代わったけど…「アクセルってどっちだっけ」って……。


神罰。


「最寄りの出口まで動いたら高速を降りて病院を探すぞ、無ければどっかに泊まる。ラブホテルでも何でもいいからお前も見とけ」


「ラブホテルがいいです」


「ラブでも何でも休めるならどこでもいい」


「また…しましょうね」

「アホ」


いつものように「死ね」と言わないのは本当に心配してあるからだ。

水嶋は優しい。水嶋はカッコいい。


綺麗な幼馴染も佐倉の職席も……ついでにあの黒い牛もぶっ飛ばす。


熱のせいか全ての悩みがどうでもよくなってる。

誰かを……人を独占しようなんて根本からおかしかった。


多分これが正解だ。



「でも…俺の方を……向いてください」

「向いてるだろ、どこ見ろって言うんだ」


「意味が違います」


朴念仁の童貞。


シートに深く沈めた体に水嶋のジャケットがファサッと掛かった。


牛のおしっ○がついてるけどね。


この優しい時間をもっと堪能したかったがこの先の事を考えると少し眠った方がいい。


目を閉じると……疲れた体はあっという間に思考を奪い、深い眠りに誘い込んだ。




体が熱かった。

怠くて動きたくないのに眠る事を許してくれない。猛烈な吐き気に襲われて飛び起きた。


「あれ?」


気が付けば風景が変わっている。

渋滞で車が停車しているのは同じだが日が暮れてる。道路の横に無機質な柵は無く地味な田園が広がっていた。


「起きたのか?」


ハンドルにかぶりついた水嶋が前から視線を外さないで大丈夫かと聞いた。


「高速を降りたんですか?」

「ちょっとだけ動いたからな、でも見た通り高速が駄目だから下も混雑してる」

「動いてないなら……ちょっと車を降りてもいいですか?」


「大丈夫だと思うけど…どうした」


答える暇は無かった。

ただでも水嶋に移してしまったかもしれないのに車内で吐いたりしたら間違いなく感染する。

熱の上がり方から見てもインフルエンザに間違いない。


ドアを開けて草むらに飛び込んだ。


朝から殆ど何も食べてないからだと思う。苦い液体しか出てこないが一回じゃ治らない。

涙と鼻水に塗れて伏せていると水嶋の手が背中をさすってる。


「どうしよう……救急車を呼んだ方がいいかもしれないけど……ここまで来れるかな……」


水嶋は人の怪我とか病気に弱い。何でもテキパキこなすのにオロオロして水だとか………何故そうなるのか……"じゃがりこ"を差し出してくる。


「路肩の無いこの道に救急車は無理でしょう、俺は大丈夫です。吐いたら少しですがスッキリしました」


「そうか、じゃあじゃがりこを食え」

「じゃがりこはいりません」


そうなのかって心配そうな顔をするな。

この人絶対一人っ子。

じゃ無ければ病気って何?ってタイプ。


後者に一票。


「笑えるって事は治ったのか?」


治るか馬鹿。今が絶好調。

抱きつきたいよ全く。


「そんなに心配しなくても俺は大丈夫ですよ」


「もうちょっとだけ頑張れ。俺が必ず病院まで連れてってやる」


「はい、運転は大丈夫ですか?」

「おお、めっちゃ怖いで」


思わぬ場所での関西弁に笑いが漏れ出た。


ふらついてはいるが車までくらいは歩けるのに肩を担ごうとしてくれる。水嶋はやっぱりいい医者になりそうだった。


シートに納まるとやっぱりジャケット着せてくれる。臭いけど黙って着ておく。


「あの…今何時でどこら辺なんですか?」


「まだ京都のどっかだ、今は2時半……だな」


「え?」


何時の2時?


「夜中の2時ですか?」

「ああ、そうだ、高速を出るまでにあれから5時間くらいかかったからな、それからここでもう3時間くらい足止めを食ってる」


「そんな……」


遅くなるのはいい。

それよりも単純計算で8時間も眠りこけていた事になる。運転に不安のある水嶋を一人にしていたなんて最低だ。


これはあくまで自分のせい。体調不良を感じた時に薬を飲んでおけば幾分はマシだったかもしれない。


風邪をひいたから仕方がない……そんな言い訳は通用しない。自己管理は仕事のうちで、手を洗い、嗽を欠かさない水嶋を見てきたのにこんな大事な時に邪魔をするなんて馬鹿だ。


「すいません、俺……」


「いいから寝てろ、ほら動くぞ」


道の遠くから車のブレーキランプが次々と灯っていく。暫く待つと止まっていた車列がゆっくりと動き出し、横道が見えた所で高速の側道から流れ出た。


「やっと動けるな、クソ田舎だがどっかにあるだろ、ホテルか病院を探すぞ」

「はい、俺が見てますから水嶋さんは運転に集中してください」

「頼む、暗くて見えないから怖い」


「任せてください」


そうは言ったものの、高速を降りた場所は最悪だった。山と畑はあるがコンビニ1つない山の中だ、信号はもう殆どが点滅してる。ポツポツある民家は明かりが消えてひっそりとしていた。


水嶋の運転は思ったほど怖く無い。強いて言えば遅い。鈍い。そして車体が真ん中に寄ってる。

口もきかないで必死な様子に申し訳ないと、大丈夫かなと、面白いが混ざって複雑。


外の景色に見るものはなく、水嶋には会話をする余裕もない。


いいなと思ったのは晴れた空に点滅する満点の星だけだ。


「これがデートならいいんですけどね」


和もうかと思っただけ。



怒りそうな事を言ってみたが………



返事がない。


今、車は数の少ない生きた赤信号で停車してる。

他に車はいないからいいけどもう信号が変わりそうだ。


さすがに疲れたのかと心配になって、倒したシートから体を起こすと水嶋はハンドルに頭を置いて伏せている。


「水嶋さん?」



「水嶋さん、もうすぐ青ですよ?」


疲れてふざけているのだと思っていた。


青に変わった信号にヌルッと動き出した車はゆっくりと前に進んでいる。気のせいか……道の中心を外れて端に寄っていているように見えた。


「あの……」


何かがおかしかった。

水嶋は自分と同じく2晩続けてあんまり寝てない。

その上の肉体労働に疲れているのは間違いないが水嶋はそんな人じゃ無い。

こんな時に集中力を失って居眠りをするような人じゃ無い。


「っっ!!」


突然気が付いた。車が進むのはアクセルを踏んだからじゃない。ブレーキから足が離れて動くクリープ現象だ。


「水嶋さん!!起きて!」


ヌルヌルと進む車は交差点を横切り明らかに道を逸れていく。サイドブレーキは手元には無い。

肩を揺すっても水嶋には反応が無い。


「水嶋さん!水嶋さん!どうしたんですか?!起きて!水嶋さん!!…うわっ!」


片輪がガクンと沈んで視界がぶれた。

まだ進み続けるエンジンは道のない田んぼの方に車体を押し出し車体が傾いていく。


「うわああっ!!」


ガアン!と地面を揺らす衝撃と共に車が跳ねて横倒しになった。ガリガリと車体を引っ掻く音、ギイッと金属が捻れる音がする。そのままひっくり返るのではないかと第2波の射撃に身構えた。

横になった車体は揺れて、揺れて、ゆっくり戻ってチリンチリンと何かが滑り落ちる音が無くなると…


静かになった。



「う……痛……」


サイドのエアバッグだけが膨らんで狭い。


一旦浮き上がった体が車の落下と共に振り回され、窓ガラスに頭を打ち付けたらしい。熱い筋が頬を伝ってる。


横倒しになっているせいでシートベルトが体に食い込んで苦しい、全体重が肩に乗って血液が偏って来た。


横倒しの車は運転席が上になってる。ただでも街頭の少ない田舎道だ、路肩から落ちた車は草に埋まって嘘みたいに真っ暗。やっとの事で腕を伸ばし、車内灯を付けてみるとシートベルトにぶら下がった水嶋の腕が伸びて垂れていた。


「水嶋さん?!大丈夫ですか?!水嶋さん!!」


手を引いても反応がない。ダランと落ちた頭に意思は無く、角度が悪くて顔が見えない。


「水嶋さん!待ってて!今救助を呼びます!聞こえますか?お願い!返事してください!口がきけなければ声だけでいいから!水嶋さん!」


こんな時に……本当にこんな時に役に立ちたいのに、助けたいのに、守りたいのに……体に力が入らない。シードベルトを外すのは諦めて携帯の119を必死で押した。


場所は?

「……さあ?」

何が見えますか?

「何も見えません」

状況は?

「横向き」

そうじゃ無くて怪我の状況を聞いてます。


こんな時に怒られた。


何とも頼りない人生初の119は散々だったが何とか説明をした。


怖い。

水嶋に呼びかけても返事をしない。

物凄く怖かった。


電話が切れた数分間、怖くて気が狂いそうだったが暫くするとサイレンの音が聞こえてきた。


田舎とは言えここはやっぱり日本だ。あっとう間に風景が赤く染まり誰かの呼びかけが………


聞こえたような気がした。





知っている話し声が聞こえてくる。


目を開けてみたが眩しくてよく見えない。

見えるのは白い天井。ベージュのカーテン。


「病院?」


もう夜が明けたのか窓の外は明るい。

細長いラックから伸びた透明な線を辿ると自分の腕に続いていた。



話し声は病室の廊下から聞こえてくる。


「水嶋さんは……」


どうなった?


のんびりと寝ている事なんか出来ない。

隣のベッドは空いているのに水嶋の姿がないのだ。まだ頭は重いがどうなったかの方が気になって無理矢理体を起こした。



──車は矢田が取りに行ってる、傷はあるが走るのに支障は無いそうだ


──すいませんでした


「あ……」


水嶋だ。


水嶋の声が聞こえた。

水嶋は寝込んでない。

水嶋がちゃんと起きて立ってる。


話している相手の穏やかな声は部長だと思う。

病室のすぐ外、姿は見えないがそこにいる。


無事だった。

怪我をしているかもしれないが話をしている。



息をしているのかさえ確かめられなかった。

呼んでも呼んでも返事がなかった。


怒られているのだろうが無事ならそれでいい。


顔が見たくて点滴を抜いてやろうかと思ったが部長の会話を聞いて手を止めた。




「何故………運転をしたんだね」


「……緊急時で……私の判断ミスです」



「ふん……」


部長はいつものように鼻を鳴らしたがそのまま黙ってしまった。この無言は問いと言うより責めだと思う。


声が厳しい。

暫く続いた無言には簡単に口を出せる隙間がない。


出て行くか、どうしようか迷っていると部長が言葉を継いだ。



「君は……薬が切れているとわかってたんだよね?今回はたまたま停車中だったからこれで済んだけど、もしかしたら大切な部下を殺していたかもしれないよ」


「……はい」


薬って何だ。


確かに水嶋が薬を飲むのを見ていたが持病があるような気配はまるで無い。


知らなかったでは済まない。

知らないなんて堪らない。

点滴を引き千切りふらつく足を入り口まで運んだ。


「あの……」


声を掛けると振り向いた部長と水嶋は揃って口を噤んだ。


「江越?……何をしてんだアホ、寝てなくちゃ駄目だろ」


「俺は大丈夫です」


体なんか今はどうでもいい。


急な話題転換、部長はわざとらしく視線を逸らした。


やっぱり何か重大な事を隠してる。


薬、薬、薬。


知っている限りではあれしかないが水嶋は「ただの予防薬」だと言っていた。


聞きたいけど、問いただしたいけど今はそれよりも大事な事がある、


今回の事は水嶋に責任なんか無い。

詳しくは後で水嶋に聞くとしてもまずそこを部長にわかって欲しかった。


「部長、すいませんでした、悪いのは俺なんです。俺の自己管理が悪かったからこんな事になったんです」


体調の事だけじゃない、水嶋に無理をさせたのは俺。旅行気分で浮かれていたのも俺だ。


「………ふん……君達は江越くんの容態が落ち着いてから新幹線で帰って来なさい、水嶋くん頼んだよ」


「はい」

「部長!聞いてください!本当に…」

「江越くん、今から言う事を覚えておきなさい。例え君一人が悪くても……誰も悪く無くても、何かあれば責任者がざいを負う。今回の場合は水嶋くんだね、今は何も気にせずゆっくり休んで帰ってきなさい」


「でも……」

「江越、やめろ、部長の言う通りだ、俺が悪い」


水嶋がペコリと頭を下げると「ふん」と鼻を鳴らして部長は背中を向けてしまった。


部長の言葉にはぐうの音も出ない。


廊下にあった時計を見ると朝の10時前を指している。つまり部長は相当朝早くに飛んで来てくれたという事。車を取りに行ったと聞いた矢田も事故の知らせを聞いて駆り出されたのだ。


その知らせは多分真夜中だったと思う。


水嶋と並んで二人で頭を下げて見送るしか無かった。



頭を下げるのは営業の仕事そのもの。

暫くそのままでいると先に頭を上げた水嶋がポンと額を撫でた。


「江越、ベッドに戻れ。やっぱりインフルエンザらしいぞ。もうちょっとしたら薬が効いてすぐに良くなる。頭は大丈夫か?」


「頭?」


水嶋に言われて頭を触ると包帯が巻いてある。

事故の時に頭を打った覚えがあるから多分その時に怪我をした。


「痛いか?」


「今は何も感じないけど縫ったんですか?頭蓋骨でも割れたとか?」


「縫ってないし頭蓋骨も無事だ。それでも意識は無いし熱は高いし、CT撮ったりして大変だったんだぞ」


「あの……水嶋さんは……」


聞いていいのかわからない。

わからないからふざけてみた。


「中身が見えたら俺の気持ちもわかってもらえるのに残念です」


「……お前の脳味噌には字でも……書いてそうだな、お前アホだし」

「書いてます。水嶋さんが好きって書いてます、何なら見ますか?………」



口籠って誤魔化したのを悟ったのか、「そうだな」、と困ったように微笑んだ水嶋はもう一度ベッドに戻れと言ってナースコールを押した。



「お前……部長との話が聞こえてたんだな」


水嶋にしては声が弱かった。


手持ち無沙汰なのか点滴の管をネジネジしてる。


「すいません……薬が切れてたって……聞こえて……」


「うん、完全に俺のミス、お前に怪我をさせて本当にすまなかった」


取引先でよく見せる深い礼。


きちっと水嶋が頭を下げているのにナースコールを聞いてやってきた看護師が引き抜いて中身が漏れた点滴を見て文句を言った。


「この時間は外来もあるし忙しいんです、次にこんな事をしたら他所に移ってもらいますからね」


「ごめんなさい」


それだけしか言えない。

さっさと寝ろって背中を押されてゴソゴソベッドに戻ると「好きな場所に刺してんじゃないの?」ってくらい手早く点滴を開通させる。

看護師はその間中文句を言っていた。


「こんなに寝具を濡らして……これじゃどれだけ漏れたかわからないでしょう、江越さんは脱水もあったから量を測ってるに困ります。これじゃ最初からやり直しじゃない」


「…はい」


「保険証はお持ちでは無いんでしょう?全く…コピーでいいから旅行の時は持ち歩けっての」


「はい」


「本来なら入院する程の疾患でも怪我でも無いんです。事情を考慮してるだけなんだから気を付けてください」


「入院させてくれなんて俺は一言も……」

「江越」


「…………はい」




…………奥田の事務みたい。


文句を言うのはいいけど大した事ないって言い方はおかしくないか?

インフルで事故で流血だぞ?


あんた看護師だろ。


死にそうな大怪我も小指を切った傷も患者にしたら痛いのは同じ。


だからちょっと演技してみた。


「痛た……傷が…」

「切れてるんだから当たり前です」


………ですよね。


これは究極の懐柔方法じゃないのか?

世の中の看護師は慈愛の表情を浮かべて優しくて思いやりがあって時には夜を偲びエロい事をしてくれるじゃないのか?(AV参照)

助けてくれてありがとう:仕方がないから付けとく


一応反論はしなかったが銀のトレーを持って出て行った看護師の背中にベロを出した。


「水嶋さん、今から医学部に入り直してあんな看護師撃滅してください」

「口は悪くても仕事をしてくれるからいいじゃ無いか、羨ましいよ、俺も医者になりたかった」


「え…と……それは……」

「うん……そう……これはさっきの話に続く」


軽い冗談のつもりだったのに……水嶋は眉を下げてただ穏やかに笑った。


聞いてもいいのかと躊躇していたが教えてくれるなら聞く。


「話して……くれるんですね」

「うん、江越には知っといてもらった方がいいと思う」


ベッドの端に座った水嶋の顔は諦めを映していた。そんな困った顔は見たくない。


聞くの怖い。

返事をしなかったあの時の水嶋より怖い。


もしここで「フジノヤマイ」とか言われたら即死する。


カラカラに乾いた喉に水分が欲しくてコクンと緊迫を飲み込んだ。


「何か…あるんですか?」


「何かって程じゃない。これは俺が産まれた時から持ってる荷物だ」


「でも薬が切れたらって……薬が切れたらどうなるんですか?もし苦しかったりするなら……俺……」


長時間呑気にグウスカ眠りこけ、起きたら起きたでラブホテルを探してた……俺って最低。


もし一人で苦しいのを我慢して慣れない運転をしていたなら腹を切ってお詫びする。


「痛くも痒くも無いからしょげるなアホ。前兆があるならまだマシなの、あれは中二の夏休みかな、電気コードを引っこ抜いたみたいに何もかもが突然消えたんだ。プツッとね。それで腕を折って検査入院をした」


「倒れたって事ですか?」

「歩道の階段だったからな、考えると怖いだろ?」


水嶋はちょっと惚けたような話し方をしているが、この話は……もしかして友梨のしていた話にも繋がる。友梨は確かに……「中2の夏に翔ちゃんが風邪で入院した」と言っていた。


つまり友梨は何も知らないって事?


「……それは病気なんですか?」

「病気じゃ無い、どちらかといえば先天的な脳の障害かな、薬を飲んでいれば日常に不自由は無いし命に別状もない、悪くなったりしない代わりに一生付き合っていく厄介者でもある」


水嶋は病名を言わないがその障害は聞いた事がある。もしかしたらパイロットやバスの運転手にはなれないかもしれないが生きる上での制限は思ってるより無いと思う。

申請は必要だが車の免許だって取れるしやりかったのなら医者だって出来る筈だ。


「それならどうして医者を諦めたりしたんです」


「大学の講義中に何回か意識を失ってな、使ってた薬が効かなくなってたらしい、その時に「命を預かる自信があるのか」って教授に聞かれた…」


………無いよな。


付け加えた水嶋の言葉は重かった。


法律とか医学界の話じゃない。

水嶋の……水嶋の中にだけある倫理とか心構えの事だ。


「じゃあ昨日は……」


「そんな顔をするな、今の薬は何も問題ないぞ?もう何年も発作を起こしてないから油断してたんだ。出張が長引いただろ?予備の薬を持ってなかった。飲まなかったらすぐに起こるって程でも無いからな……本当にごめん」


「謝らないでください、元は俺が悪いんです」


水嶋が薬のチェックを忘れるような原因を作ったのは俺。自ら禁止していたハンドルを握らせたのも俺。


もう悪いのは俺ばっかり


話したく無かっただろうに……つらい話をさせたのも俺だ。


「そんな顔をするなったら、インフルは薬さえ効いたらすぐに治るだろ、どうせ京都駅まで行くんだからどっか観光して行くか?」

「行く!今すぐ治します。実はもう治ってます。水嶋さんとデート出来るなら…」

「黙れ」


顔を握り潰されて続きが言えなかった。


水嶋は有給休暇を消化しろと会社から勧告を受けている。言ったって聞かないから仕方がないがこんな機会はこの先滅多にあるもんじゃない。


インフルエンザが何だ。

脳の障害が何だ。

水嶋が水嶋であるなら何でもいい。

怒鳴っても殴られても牛に蹴られてもたまにエッチな事をさせてくれて「もっと」とか言ってくれる日が来たら死んでもいいけど死ぬのはやだ。

話が逸れたけど水嶋なら何でもいい。



意地と根性で熱を下げ、夕方には無事退院した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る