第11話どうなったかって
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高くて高くて……薄っすら雲がかかって天辺が見えないくらい高かった障壁。嫌なのに、越えたくないのに気が付けば随分高い所まで登っていた。ヤケクソで乗り越えた筈が……振り返ればそこはいつもの平坦な道だった。
とんでも無い所に行き着いてしまうような気がしていたが超えてみると何でもない。
条件や容姿……ついでに性別で好きになる人を選べる人って凄い、尊敬できる。
気が付いたら陥っていた。
どこで落ちたのか、いつからこんな感情を持っていたのか、無意識に選んでしまった相手は、多少…かなり、随分……我ながら趣味が悪いとは思う。
性別の難を超える程水嶋のどこがいいのか、何に惹かれたのか……
平日は乱暴で横暴、休日は床に押し潰された水風船。改めて水嶋をよく見ても女っぽい要素はゼロ。本当に普通の男。
何故あんな極端な行動に走ったのかを考えても残念な事に何も出てこない。
佐倉のように段階すら踏まずに行く所まで行っちゃったのは暴走だったと認めるが、酔いが覚めても、時間が経っても………どうしても間違いだったとは思えない。
好きだと思ってしまったのだから仕方がない。
………そこは納得出来たのに次の壁がこれまた高い。
えーえーわかってました。
わかってたけど思った通りやっぱり手強い。
水嶋が大人しく「愛」を語る相手になるなんて妄想の中ですら成り立たないけどもうちょっと……こう……柔らかくなってくれないか、なんて淡い期待をしていた。
水嶋の頭の中は相変わらず仕事。
あっという間に未払金の回収を終えた水嶋が何も言わずにまた組んでくれた事にはホッとしたが、使用前使用後とで基本的な関係性の変化はほぼなし。
ただ……1つだけ変わってしまった事がある。
週末になればまた酔っぱらって雪崩れ込んでくるかとアパートで待っていたのに来なかった。
その次の週はわざわざ誘ってみたが「死ね」が返事。
仕事以外の話をしようとすると「死ね」
「美味しいですね」にも「死ね」
「夕焼けが綺麗」にも「死ね」
そんな死ね死ねを連発してもし本当に死んだら後悔するくせに。(意外とチキン)
何でわかるかって水嶋はそういう人だって知ってる。知ってるからこそ好きなのに本当に厄介。
毎日がそんな状態なのに油断するとニヤついてしまうのは俺が馬鹿だからでもMだからでも無い。
水嶋の態度は、拒否とか嫌悪とか大っ嫌いとか顔も見たく無いとか……(これ以上並べるとそれこそ死にたくなるからやめておく)それは無いのだ。とにかく簡単に言えば照れているだけだと解釈してる。
我ながら前向きで楽天的だと思うが……やめろとか死ねとか言いつつ、あの時の水嶋は全力で性感に身を委ねてた。
感度がいいって凄い。
漏れ出る声を罵倒で誤魔化し、手に、体に……繋がった秘部から肉を伝い血管を駆け巡る血液が教えてくれた。
いくら予備知識と多少の経験があったとしても男なのだ。本当に嫌しか無いならいくら泥酔していたとしても噛むなり蹴るなりもっと強烈な拒否反応を示す。気持ちがあるとまで言わないが、ある程度の許容が無ければあんな事は絶対に成り立たない。
「おい……何をニヤついてる」
あの夜とは打って変わった水嶋が睨んでる。
仕事の話と「死ね」以外で何か言うのは久しぶりだ。ニヤつきが倍増。
「いや……あの…水嶋さんが好きなだけです」
「死ね」
「もう……冷たいな…」
「……はい!水嶋です」
「え?」
電話かよ。
水嶋は四六時中、歩いている時も携帯を離さない。電話が掛かってくるとワンコールも待たずにブラインドタッチでボタンを押す携帯の達人なのだ。
話が噛み合わないな、と思ったらいつの間にか電話をしてるって事もよくあった。
本当にマイペース……死ぬと言ったその口でよく切り替えが出来るものだと感心する。
「ちょっと……水嶋さん、危ないですよ」
歩く速度が周りと違うのに携帯で話しながらズンズンと早足で歩いて行ってしまう。
ドスドスぶち当たる人混みの防波堤になろうと肩を掴むと「触るな」と口パクで拒否された。
水嶋は何があってもマイペース。
教わる事は椀子蕎麦みたいに次々投入され、頑張って食っても消化しないうちにまた増える。
後をついて行くしか出来ないが今はそれで十分だった。
「ちょっと!待ってください」
見失いそうで駆け寄ろうとすると突然反転して向かってきた。
「え?…わっ!」
怒られるのかと条件反射で身構えるとドアを押すように押しのけられまた行ってしまう。
追いかけて電話が終わるのを待った。話しをするチャンスとも言う。
「水嶋さん?どうしたんですか?」
「どうしたものこうしたものない、キサンタンガムの代わりにグアーガムを納品したらバレた」
「……何ですか?それ」
何とかガム……それはロッ○?味覚○?
どっちにしても美味しくなさそうだ。
「アホ、勉強しろ。うちの製品だ。水に溶かすともちゅっとする奴だ」
「もちゅ……って何ですか」
「餅らしい食感とかゼリーとか色々……もちゅっとする奴」
「もちゅっと……」
水嶋の話には独特の擬音が多い。
つまり食品に入れる増粘剤の事らしいが普通はモチモチとかトロ味とか表現する。
そして忙しい時や何かに夢中になっている時は独り言が多い。「どうする?先にキサンタン手配するか……どうすんだ…」と身振り手振りの多い「水嶋劇場」を往来でやられると注目を集めて恥ずかしい。すれ違う人がみんな振り返ってる。
これは……逃げだした方がきっと得……このトラブルからは"入るな危険"の立て札が見える。
もう逃げないけどね。
「納品を間違えたって事ですか?」
「キサンタンガムが無かったからグアーに差し替えたと今説明しただろ、因みにキサンタンガムはグアーガムの倍は高い」
「それはわかっててやったって事?詐欺ですか?」
「詐欺って程じゃねえよ、普通ならバレない。妙にデキる製品管理部の誰かがいつもと食感が違うって見破ったらしい、お前は一旦会社に戻れ。俺はこのまま誤魔化しに行く」
「は?嫌です」
水嶋一人で行かせるとどうせロクな事にならない。
「アホ、どうなるかわからん、お前がいたら邪魔だ」
「尚更水嶋さん一人には…」
「帰れ、これは命令だ。お前まで来たら会社ぐるみの印象が強くなる、間違えた、手配ミスだと言い張るには俺一人の方がいい」
「じゃあ俺は水嶋さんの代わりに出来る事をやります、何でも言ってください」
「帰れ」
携帯の操作をしながらもうこっちを見ない水嶋は、止める間もなく道路に飛び出てタクシーに乗ってしまった。
行き先どころかどこの会社なのかもわからない。
水島の事だ、ただ単に利益を優先させたのでは無く何か事情があったのは間違いない。
そしてそのどれも、これも、会社に報告せず自分で背負ってしまう。
「こんな時の為に俺がいるのに……」
水嶋がまずする事は「キのつくガム」、高い方の在庫があるか調べて手配の準備をする。
そんな時頼るのは恐らく「つぶらな瞳」のデカマッチョ。
運送部は遠方じゃ無い限り午後は事務所に戻ってる筈、出てくれと神様にお願いしながら電話をかけてみた。
「はい?誰?」
「関口さん?江越です。今水嶋さんから何か連絡無かったですか?」
「今日の話か?無いけど、何だよ…また何かやらかしたか?」
「いえ、あの最近……多分…今週だと思うんですけど「グ」の付くガムをどっかの会社に納品してませんか?」
「…………グ?」
うん、そうなるよな。
「……グの付く……ガム……製品がもちゅっとする奴……」
商品の名前は全く覚えてない。
生きていく上で全く耳にしない音を並べられても覚えられるわけ無い、いっその事商品の名前は全部品番にしてくれたら20桁でも30桁でもそっちの方が覚えやすい。
「グ」は間違いないが何か強そうな音からのイメージしか残ってないから取り敢えずそれを伝えてみた。
「グ……グオーみたいな……名前」
「グアーガムだな、お前ちょっとは勉強しろ。出てると思うけど俺は知らんな、調べようか?」
「お願いします!」
一旦電話を切れば良かったと後悔するくらい待たされて関口が教えてくれたのは30件あまり。
遠方を除いて、宅配出来るくらいの小口も除いて残ったのは「森長工業」一件。
「突撃する前に何か理由作った方がいいよな…」
水嶋が来るなと言ったのは理由があるからだ。邪魔になっては元も子もない。
それにもし当てが外れて他府県の会社だったら無駄足になる。
水嶋は「タクシーで行ける範囲」だと限定出来るような人じゃ無い。タクシーの方が早ければ沖縄までだってそのままいく。早ければ泳ぐ。
こっそり荷物を運ぶ手配をしてないって事はこのまま突っ切るつもりらしい。そんな時の水嶋は自らの体を差し出してしまう……それこそ色んな意味で…。
全然知らなかった
「何て言おう…」
"サンプルをお持ちしました"って何のサンプルを持っていけばいいのかわからない。
"御用聞き"は水嶋が担当してるのに変。
突然お伺いして"何か手伝います"って詐欺か産業スパイを疑われそう。
色んな案を検討したが何も思いつかないまま電車に揺られ、意外と近かったからすぐに着いてしまった。
森長工業は主にスーパーのレジ前などに並ぶ安価な和菓子を作っている……とネットに出ていた。
今回の注文数も少量だ。一見すると全部弁償しても大した額にはならないように見えるがそれは甘いと水嶋に教わった。もう出来てしまった商品やその他の経費まで賄うとなれば結構な額になる。
「水嶋さんいるかな…」
また外で荷下ろしとかをしてるとか工場に入り込んで手伝ってるとか……何か見えないかと何気ないフリで門の前を通り過ぎてみたが情報無し。
小型のトラックでも切り返しは出来そうも無い狭い敷地には人っ子ひとり見えなかった。
この際入っていきたいが、問題は水嶋が森長工業に来ていると明確な確信がない事だ。
不審者そのものだが、もう一度門を横切ってみると……ビンゴ。
水嶋が髭を生やしたキザな男と二人で歩いてくる。慌てて通り過ぎ、門の影に隠れた。
そっと覗き見ると、怒られたり謝ったりしている様子は無く、二人は親しげに寄り添い和やかに話をしている。
それはそれで良かったが物凄く気になったのは水嶋にくっ付いている相手の男。年は50を過ぎたくらいだろうか。
安い和菓子を作る小さな工場の関係者にしてはベスト付き、ダブルのスーツはそぐわない。撫で付けた髪がテラテラ光り触ると硬そう。
ニコニコ笑っている顔はむしろニヤニヤしているように見えて、何よりも水嶋の腰に回した腕は何なんだ。
どこに行くのか、後を付けるか、飛び出してシラっと合流するか……迷っていると黒塗りのセダンが滑り込んできた。他に誰もいないのだから、その車は二人が乗り込むのは当然だ。
「あ……」
厳重に隠れ過ぎていた。飛び出してみたが二人が滑り込んだ黒塗りセダンはあっという間に見えなくなった。
「何あいつ何あいつ何あいつ」
水嶋の携帯に電話をしてかけても電源は切れている。まさか森長工業に入って「水嶋と「誰だか知らないキザなおっさん」がどこに行ったか知らないですか?」……とは聞けない。
後を追う術が無い。
出来る事は一つ、水嶋の指示通り本社に帰ってイライラと連絡を待つしかなかった。
本当にいつからなのだろうか。
知らぬ間に落ちてきた小さな水滴は輪になってなだらかな水面に広がった。優しい、穏やかな波紋は角を立てるも事なく、静かに心を覆い尽くし常識を凌駕して消えた。
もうすっかり溶けてしまい取り払おうとしても正体が見えない。
その辺の男が全員水嶋を狙っているように感じてしまう。
知らない場所、知らない奴と二人っきりでいる水嶋を思うだけでムラムラと腹の中が混ぜかえる。
世の中に「その手の男」が意外にも潜んでいる事は学んだが、それでもそんなあちこちにはいない(多分)。
的外れな心配だってわかっているがザワザワする心を抑えるのは至難の技だった。
どうせ忙しない電話が掛かってくると思っていた。人の都合もどこにいるのかも聞かずに、あそこに行けとか、どうしろとか、こうしろとか勝手に喋って確認する間も無く勝手に切る。
その筈だったのに携帯が鳴らない。こっちからかけてみても水嶋の携帯は電源が落ちたまま。
休みの日だってこんな事は無い。
「おかけになった電話は……」
このフレーズ……誰が喋ってるんだかぶっ殺してやりたい。
昼も食べてないのにイライラが詰まって腹が減らない。就業時間の終わりジャスト5時に会社を出て、真っ直ぐに水嶋のマンションまで来ていた。
暗証番号は忘れないが佐倉じゃあるまいし勝手に入っているなんて出来ない。
エントランス前の薄い階段に座って空を見上げた。
知らない間に日が長くなってる。どこかに巣があるのか小鳥の大群が暗くなる前にと家路を急いでいた。
もう随分長い事吸っていないタバコを取り出し一本咥えた。
一回……事故みたいな場当たりで寝ただけ。
あれから二週間経つがなーんも無い。
甘い瞬間なんてミリも無く、何の意識もせずに溜めていたらしい想いが突然溢れ出てきた。
戸惑いは未だ消えてないのに……自分でもびっくりする程隣が寂しい。
「"あの"後でも…ここまで陥っているとは思ってなかったなあ」
そう思いたかったのか、佐倉達に煽られて水嶋を性的な目で見てしまっただけだと心のどこかに逃げ道を作っていた。その点に関しては今でも「俺はゲイじゃない」と胸を張れるが……
これはもう違う。
地中に埋もれ隠れていた小さな芽は、誰にも……自分にさえ見えなかったが、一旦外に顔を出すと光を乞うて太陽に向かう。
まだ始まってもいないのに……時間が経つごとに伸びて育って……広げた枝葉はもう見上げる程デカくなっていた。
「おい……」
ガツンと足に衝撃を受けて顔をあげた。
眠っていたらしい、冷たい石の階段に長い間座っていたせいで腰から下が存在してない。
目を開けても暗いのはどうやら日が落ちてもう夜になってる。
「こんな所で寝んな、通報するぞ」
「……水嶋さん?」
名前を呼んだ途端頭がクリアになった。
勢いを付けて立ち上がってみたものの足が痺れて地面についているのかどうかもわからない、よろけて水嶋の肩に捕まった。
「おい……触んなよ、重い」
「足が無い!」
「…………あるだろ」
「ちょっと!今触らないで……く……来た…」
ふわふわになってた足が急な血流にビーンと来てる。そよ風でにも触って欲しく無いのに水嶋は「こっちの台詞だ」と言って思いっきりクソ憎たらしい顔で笑った。ポンと足を蹴られてまたビーン。
「だから触らないでって……くぅ…」
「お前もな、ほら、もうそろそろいいだろ、離せ」
じわじわ引いていく足の痺れ、代わりに立ち上ってくるじわじわした不安。
「離せませんよ、無事なんですか?どこに行ってたんです、パンツ履くより携帯を優先するくせにずっと電源切ったままなんて心配するじゃないですか!」
「何を心配するんだアホ」
「決まってるでしょう!ぼろぼろになって肉体労働してないか、油まみれになってないか…パンツに手を突っ込まれたりしてないか…」
「そんな事あるか、ってかお前が言うな」
「………心配したんです」
「おい?……寄んな…」
肩に掴まったついで……ジリジリと逃げ腰になって行く水嶋を引き寄せた。
頬に触れる髪からは仄かに酒の匂いがする。
「……ちょっと…どさくさに紛れて抱きつくな」
「どうなったか教えてくれるまで離れません」
「話す前にまず離れろ」
「話すまで離さないって言ったでしょう」
「離れるのが先だ」
「やだね、馬鹿」
「…てめえ…」
ぐぐっと胸を押し返す牽制の腕は結構本気。ここで引いたら全部無かった事になりそうで負ける訳にはいかない。腕を締めて髪に顔を埋めた。
「離したくないんです。俺……本気みたいです」
「知らん!離せ!」
「知ってください!」
「江越……」
あれ?
通じた?
腕の中の水嶋が大人くしなった。
「お前さ、佐倉局長と何を話したのか知らないけどな、変な影響受けて混乱してるだけだろ、もう一回俺の顔を見てみろよ、男だって思い出すぞ」
「見ても……いいんですか?」
「是非お願いしたいね」
仕事以外の水嶋はやっぱり間抜け。
好きだと言って抱きついてる相手にこの近い距離で顔をよく見ろと言う。
髪の中をクンクン匂ぐのをやめてご所望通り顔を上げると鼻の先が触れ合う距離。
「……思い出しただろ?」
「一応聞きますが……これはキスをせがんでるんですよね?」
「……は?…………せがんでない」
わざとやってるのかと疑ってしまう。
言っている意味を悟った水嶋はパッと赤くなって横を向いた。思わぬタイミングでファーストキスを迫られた女子中学生みたい。
煽っている自覚が無いなら水嶋は28にして童貞だ。ジリっと迫ればジリっと下がる。
側から見れば社交ダンスの練習でもしているように見えたかも……
ジリジリのやり合いは結構な距離を移動して背中が壁についた水嶋の負け。
「突き飛ばさないって事はやっぱり照れてるだけですよね?顔が赤いし」
「恥ずかしく無い方がおかしいだろ、考えてみろよ、男同士でこの間合いとそのセリフだぞ?別の意味で照れるわ」
「キスしてもいいですか?」
もうする気満々だが一応暗黙でも何でもいいから同意を得たい。
「聞けよ、お前は今混乱してるだけだって、正気に戻れ。俺はもうすぐ30になる男だぞ?」
「………男同士でも問題無かったでしょう」
「アホ!クソ痛かったわ」
自分でセックスの感想を言ったくせに水嶋の顔からゴウッと火の手が上がった。
ムラムラさせるの上手。
堪らなくて髪の中に手を入れるとビクッと首を縮めた。
「敏感……」
「お前……ふざけんなよ」
「あのね、水嶋さん。確かに佐倉の事が無ければ…」
「局長を付けろ」
「……佐倉局長の事が無かったら好きの種類が違う憧れの先輩で終わったかもしれません、でもね、気付いてしまったんです。これは気のせいでも性欲でも無い、好きなんです。あなたが……」
「気のせいだと思うぞ」
「違いますよ、今日思い知りました。何をしているのか、どこにいるのかわからなくて苦しかったんです。もう俺の好きは芽が出て大木になってる、伐採したらバチが当たりますよ」
「ポエム読むな……恥ずかしい」
真っ赤になって顔を背けた水嶋は悔しそうに黙ってしまった。これは無言のOKと受け取らせて貰う。
顎を持ち上げ、腰に回した腕に力を入れると怯えるように肩が持ち上がった。
水嶋は苦い物でも食べたみたいな顔で目を閉じてる。もう下がれない壁まで頭を引いてスーツの袖を掴んだ手が後ろに引っ張っているが逃げたりはしなかった。
「キス……しますね…」
気の利いた事を言える程水嶋は器用じゃ無いから返事はいらない。
そっと重ねた唇は外気に冷えて冷たかったが合わせた胸は暖かい。
ネットリしたディープキスよりドキドキして、触れるだけの優しいキスは数秒だけで終わった。
名残惜しくてもう一回髪の匂いを嗅いだ。
「もう……いいだろ……頼むから……離してくれ、恥ずかしい」
「離しませんよ、まだ今日どうしたかの話も聞いてません」
「今日って…何なんだよお前、そんな大した事あるわけないだろ、キサンタンガムとグアーガムの違いなんて普通はわからないもんなんだよ、お詫びして伝票変えたら終わった」
「じゃああのにやけたキザなおっさんは何だったんですか?」
言っておくが水嶋は離してない、抱きしめたままだが顔を上げてくれないので離せなくなってる。
丁度水嶋の額が唇に当たって半分チューしてた。
「お前……見てたのかよ」
「追いかけました、関口さんにガムの納品先を聞いて森長工業まで行ったんです」
「あの人は森長工業の会長だ。ものっ凄え酒豪でな、日本酒をガンガン飲まされるから避けてたんだけどお詫びに付き合ってきた」
「携帯切ってまで?」
そこが変、どう考えても変。
酔って突っ伏しても手に持ってた。
押し倒してキスしても持ってた。
責めたり問い詰めたりする権利は一ミリも無いが何か隠してると疑ってしまう。
「そんな事今までに一回も無いでしょう」
「森長会長はプライドが高いんだよ。携帯が鳴ってもどうせ出れない、画面を気にするだけでも「俺より大事なのか?」って怒り出す面倒くさい人なの」
うわ……判定微妙。
仕事中とも言える接待で「俺より大事」って出るか?
「それだけが理由ですか?」
「そうだ……っつか何なんだ、お前に関係無いだろ、俺は酒を抜きたいからもう帰る、離せよ」
「じゃあ続きは部屋でします?」
「は?続きって……」
「話の………続き…ですが……」
「!」
バッと……驚いて顔を上げた水嶋は再びゴウっと赤くなった。本気の突きが胸に入って痛かったが、それはつまり散々言った「離せ」が本気じゃ無かった証明でもある。
「帰るぞ!」
「寒いですからね」
当然のようにニョロっと付いていくと振り返って赤くなる。
ほんと俺って悪趣味。
クソ可愛いの何のって。
「ついてくんな!お前も帰れ!」
「え〜〜入れてくださいよ」
「死ね!」
高いマンションの壁に反射する罵倒の数々は暗い夜空に溶けて消えていく。
いつからこんな対等になったのか覚えがない。
エントランスに入る前に暗証番号を打ち込むパネルでポチポチ打ち合いの喧嘩、エレベーターのボタンと扉で乗るな締めるなで喧嘩。部屋の前でドアを取り合い喧嘩。
好きな相手じゃなくても恋人じゃ無くても一緒にいれば普通に面白い。
そして揶揄えばもっと面白い。
「意識し過ぎなんですよ。明日も会社があるのに何もしませんよ……して欲しければするけど」
「信用出来るかアホ」
「………するつもりだったくせに…」
「違うわ!死ね!」
「嘘ですよ、やった後に立てなくなったら困…」
ボコッと鳩尾に入った拳骨で思いっきり噎せた。
結局部屋の中には強引に侵入できたが、水嶋はまだ見た事ない他の部屋に逃げ込んでパチンと鍵がかかってしまった。
面白かったからそれでいい。一緒にいられればそれでいい。
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