第3話 佐倉局長



水嶋のマンションは都心に近く良い場所にあった。土地勘が無いから正確にはわからないが、車で走った感覚では急行の止まる駅まで徒歩10分も無い。賃貸だとすれば相当な家賃になりそうだ。


高梨が持たせてくれた水を飲ませ続けて道案内しているうちに水嶋は幾分かマシになっていた。


少なくとも会話が出来る。


「さすがいい所に住んでますね、俺はこの辺の家賃相場じゃ払えないです」

「お前次第だろ、やる事やればそのうち住めるようになる、うちは能力給が半端無いからな」

「簡単に言わないでください、俺はまだ入ったばかりで何をしていいかもわかってないんです」


その能力給が曲者なのだ。まだ1円も付いてない今、お前は無能で馬鹿だと言われているような気になる。


「お前はまだ23か24だろ?俺は25からここに住んでるぞ」

「え?水嶋さんって奥田製薬に入って何年目なんですか?ってか何歳?」

「28、俺は二十歳で入社したから今8年目かな?」

「ええ?28?!」


5つしか変わらないとは知らなかった。もっと……ずっとずっと歳上だと思っていた。


それは見た目の話じゃ無い。あまりに遠く、あまりに先を走っている印象に何となく、具体的に何歳かなんて考えもせずそう思ってた。


そう聞いて改めて水嶋をよく見ると、何度も頭を引っ掻き、前髪が落ちてバラけている事もあるが、いつもの精鋭オーラが無い今は大学生だと言われても納得出来る。


「24で…ここを?……」


電子パネルに番号を打ち込むと、無言で開いた一枚ガラスの自動ドアは五人が横並びになっても通れそうだ。豪華なエントランスには藤の椅子が並びピカピカに磨き上げられた床は顔が写りそうだった。


「やる気出るだろ?」

「いや……返ってプレッシャーになりました」


新入社員の三倍とか考えていたが水嶋はきっと10倍くらい稼いでる。同じように8年働いて水嶋のようになれるとも思えない。

家賃は幾らなんだろうと考えていると、頭の中を見透かしたように水嶋が笑った。


「江越が考えてる程俺は貰ってないぞ、ここは会社への利便性だけを考えて無理して借りてるだけだ」

「いや、それにしても高いでしょう」

「まあ、高いけどな、俺はあんまり金の使い道無いからな」


「はあ……」


それは何となくわかる、水嶋は仕事に全精力を傾け遊んでる様子は無い、いかにも無趣味で土日までスーツで過ごしていそうに見える。


今ももう夜中で酔っ払っているのに携帯を取り出し、メールをチェックをしているくらいだ。


「何なら泊まってくか?もう夜中だしタクシーで帰るのも面倒だろ」

「いえ!帰ります、絶対に帰ります!お金借りたら帰ります!」


そんな帰る帰る言うなよと笑っていた水嶋は音のしないエレベーターを降りると、ハッと笑顔を消し歩き出した足を突然ピタリと止めた。


ジリジリと後退った背中が胸に当たり、避けた方がいいのか支えた方がいいのか迷った。


「水嶋さん?」


水嶋の視線はドアが並んだ廊下の先……こんな夜中なのに背の高い影が手摺に凭れて外を見ていた。足元には煙草の吸殻が床に散らかり、随分長い間そこで待っていたようだ。


「佐倉局長……」


水嶋が名前を呼ぶと携帯を見ていた男が顔を上げた。とても失礼だが………家にまで招き入れるような友達が水嶋にもいるなんて何か変な気がした。


「水嶋か?何だ、遅いじゃ無いか」


「申し訳ありませんでした……あの今夜はもう遅いので」

「遅くても明日は休みなんだから何も問題ないだろう、誰だよ、そいつ」

「私の後輩です、江越、挨拶しろ、ワイズフードの佐倉局長だ、うちは随分お世話になってる」


「え?ワイズフード?」

──聞き返すなアホ、さっさとしろ

「は、はい」


酔ってるくせに仕事が絡むと「水嶋」、蹴ったりしなかったのは大口クライアントが目の前にいるからだ。



ワイズフードと言えば多数の食品メーカーを抱える大元の複合商社だ。牛丼の吉○屋、餃子の王○、どこに行っても目につくレストランチェーン、製菓メーカー、大手のコンビニ、知っているだけでもかなりあるが実態は多分もっと大きい。


真偽の程は調べてないが、水嶋自身が他所の会社に分散していた発注を取り纏め(奪ったとも言う)膨大な量を請け負う為にワイズフード専門の工場を建てさせたと伝説が残ってる。


水嶋の佐倉局長に対する口調は、家を行き来する友達相手に対する話し方じゃないが、仕事の用にしては時間はもう深夜、水嶋は酔っているし、佐倉も素面には見えない。


自宅まで来るなんて何の用なのかが気になった。


「今年入社した江越……」

「ああいいよ、どうせ俺には関係ない、水嶋を送ってきたんだろ?こいつは飲むとヘロヘロになるからな、ご苦労様、もう帰っていいぞ」


挨拶は途中でブチ切り。差し出した名刺は無視されて邪魔だと言わんばかりにハエを払うような仕草で手を振った。


「早くこっちに来い」と強く腕を引かれた水嶋は足がバラけてよろめいたがそのまま佐倉が肩を引き寄せた。


別にいいけど……厄介な荷物を運んできたのに、余計な事をするなと手の中から乱暴に取り返された感じ……。


"帰っていい"なんて偉そうな許可を貰わなくても帰るが帰れないから水嶋の部屋まで付いてきた。


「俺は…」


黙っていろと水嶋の踵が飛んできた。


「佐倉局長……申し訳ありません、今日は…」

「ん?心配しなくてもそんなに待ってないぞ?」


「いえ、今日は江越と…あの、もう遅いので…」

「いいから早く鍵を開けろ」


大取引の相手だからなのか、佐倉は人に有無を言わさず強引、水嶋も困っているとわかるのに強く言わない。


どんな用があって、どんな権力があるのか知らないが仕事の取引を盾に取るならこの場所、この時間はおかしい。


「あの水嶋さん」

「関係の無い後輩君はさっさと帰れ、邪魔だ」


超高圧的な佐倉は人の話を聞けないタイプなのかあくまで自分主体で話を進める人だった。どう見ても嫌がっている水嶋をドアに押し込み、「お金を取ってくるから待っていろ」と水嶋が言い終わる前にドアを閉めてしまった。


新人営業が空気のように扱われるなんてよくあるがちょっと異様。



「待ってろって言われなくても待ってるしか無いよな」


会社を軸に反対方向にある自宅のアパートまでは歩ける距離じゃ無い。高梨に借りた一万円はほぼタクシー代に使い切り、手持ちは4千円を切ってる。これではラブホテルにさえ泊まれない。

手摺に凭れてドアとドアの間隔が広い廊下を見渡した。


「それにしてもいいマンションだな、ここ……絶対に月20万以上するよな……」


水嶋の部屋は12階にあった。

十分高い場所にあるが、手摺から身を乗り出して上を見上げるとまだまだ上はある。周辺にはこのマンションより高い建物は無く、遠くに見える高速道路の灯りが点々と伸び、空に登っていくカタパルトに見えた。


家賃に20万かけるとなると生活費とか高熱代、携帯代を入れて……

「手取り30…でも全く無理だな」


何かあった時の為に多少は貯金もしたいし、友達が一斉に社会人になった為か最近は飲み代の単価も上がってる。消耗の激しい靴は二ヶ月に一回くらいで駄目になるし同じスーツを着回すには限度もある。


ましてや彼女が出来たり結婚とかになると手取り40でも厳しいような気がする。


「今ん所そんな日は来ないと言い切れるな」


学生の頃に比べれば金はあるし、彼女でもいれば生活も華やぎそうだが……出会ってる暇がないのだ。あるかもしれないが目に入らない。

モテない…って事は無い(…と思う)


我ながら屑だと思うが、たまにエッチをさせてくれて後は放っといてくれる便利な女子がどこかにいないものかと思う。


所謂「セフレ」だが実際はそんな物ファンタジーの世界にしか存在しない、女子は金もかかるし手間暇かけないとどんどん重くなる。


「高梨辺りとつるんでる方が楽だもんな」


廊下に目を落とすと佐倉局長が捨てた煙草の吸殻が散らかってる。「そんなに待ってない」と言っていたが嘘っぽい。


この場所が禁煙かどうかの前に普通にマナーが悪い。そんなに親しい訳じゃ無いのに(多分)連絡もしないで押しかけて、無理矢理部屋に上り込むなんて非常識だ。


何かあいつ嫌い。


掃除してやる義理もないが、ここは水嶋の部屋の真ん前だ、せめて少しでもと、足で吸殻を寄せ集めて端っこに寄せた。


「一本くらい混ぜてもいいか……」


大学に入ってすぐ、まだ二十歳になっていなかった頃に煙草を覚えてしまった。


最近は吸える場所が減り、一箱で一週間は持つが止める気も電子タバコにする気も無い。

クシャクシャに潰れた箱を胸のポケットから出し、一本咥えて火を付けた。


マンションの手摺から身を乗り出して遥か上に続く最上階はどんな奴が住んでるんだろうと、口を開けると、口からはみ出た煙がモアモアと散っていく。

フッと息を吹きかけると白い塊が真ん中で割れた。


一本吸い終わって、もう一本……気がつけばもう随分待っている。携帯を見てみると一時半になっていた。


「え?あれ?水嶋さん…待ってろって言ったよな」


寝た?気を使う感じの客がいるのに?


「まさか部屋に入って速攻忘れたとか……」


まだ野宿出来るほど季節は進んで無い。取り敢えずタクシーに乗って途中でコンビニに寄ってもらう手もあるが水嶋が待っていろと言ったから待っていた。


ちょっと躊躇したが……インターフォンを押してみると、暫く待っても無音だった。

何が何でもタクシー代を借りたい(返すつもりは無いがお金を頂戴なんて男として言えない)

もう一回インターフォンを押すとドアの向こうからドタドタと走るような足音、続いて壁を打つ振動と共に唸り声が聞こえた。


「水嶋さん?……」


ちょっと言い争っているような声も聞こえる。

何かトラブルでもあったのかとノブを引いてみると……鍵は掛かっていない。


カタンとドアが浮いた。

不意に開いてしまった扉は最安値のアパートより幅が広い、開けていいものか迷ったが、意を決して少しだけ開けて中を覗くと……


ドアと一緒に口も開いた。


玄関から入ってすぐ、まず目に入ったのは二足の革靴。一足は普通だがもう一足は異様にデカい。そこに住めそうな広い廊下の先に見えたのは佐倉の広い背中と壁際の間に押し潰されている水嶋だった。


……どう解釈していいか……死に直面した時みたいに混線した頭の中で走馬灯が回る。

地平線の見える草原から物悲しげなメロディが聞こえ遠くに去っていった。


佐倉の腕は水嶋の腰に回り、肩口に沈めた顔は首筋に吸い付いてる……ように見える。


酔って、フラついて、抱きついて……その瞬間を見ていると思いたいが……長い間ご無沙汰でセフレが欲しいなんて考えてたからそう見えるのだと思いたいが……抱き方にセクシャリティな要素が見える。


「嘘……」


「江越……」


ドアを閉めたいが体が動かない、助けていいものかどうかもわからない、呆然としていると水嶋はここで俺が見ているのに離れようとしない佐倉の胸を押し退け、気まずそうに顔を背けた。


「待たせて悪かったな、これを…」


グッと手を握られ渡されたのは二枚の万札だ。


「あの……困ってる…んですか?」


「……仕事だ」

「仕事って……」


水嶋の着ている白いシャツは臍の辺りまでボタンが外れ、ズボンからはみ出てる。覗き見える胸元には引くくらいデッカいキスマークが濡れて光ってる。本当に嘘みたいだが、ズボンのベルトはバックルが外れて前のチャックが半分開いていた。


水嶋の背後に立っている佐倉はさっさと帰れと言いたげに睨んでいる。


酒で回転が鈍った頭では検索が追い付かない。取り敢えずは「この場から逃げろ」と脳味噌から下った直下型の命令だけが体を動かした。


「お邪魔してすいません」


「江越、駅まで行けば……」

「俺は大丈夫です。お構いなく」


手に握らされたお金はその場に散らした。

貰えないし貰いたく無い。

何か言っている水嶋を無視してドアを叩き閉め、エレベーターに乗った。


アパートやマンションが建ち並ぶ街並みはもう眠りについているのか静まり返ってる。猫も鴉も車もヤンキーも……動く物は何も無い雨がパラつく道を、雲に灯りが映っている明るい方に向かって闇雲に歩いた。


信じられなかった。

今見た事も、そんな事が現実にある事も。


勘違いだと思いたいが、多分勘違いじゃ無い。


電車も無ければ金も持ってない俺が外で待っているとわかっていながら、滅多に会えない恋人同士の逢瀬のように部屋に入った途端抱き合い……あんな事をしていた。


人の趣味に口を出すつもりも……評価を落とすつもりも無いがあれは違う。恋人同士には見えなかった。


水嶋は枕営業をしている。


男が男にそんな古臭い手管を使うなんて信じられないが水嶋は「仕事」と口にした。


怖いが、手法は乱暴だが、半分でも出来るようになれればと憧れを持っていた水嶋の惨めな姿に……腹が立って、情けなくて、ほぼ半泣きになりながら駅に向かって歩いた。


今頃……二人が何をしているか考えると身の毛がよだつ。例え今すぐタクシーが見つかっても大人しくシートに収まるなんて出来そうもない。


朝までかかろうとも家まで歩く決心をして途中で見つけたコンビニに飛び込んだ。


水かコーヒー……


「いや…ビールだな」


500のビールを棚から取り出し、清算している途中でタブを開けると、大学生っぽい冴えない顔をしたバイトの店員が嫌な顔をした。


とにかく頭を冷やしたくて、コンビニから出ると降ったりやんだりしていた雨足がまた強くなってる。

濡れてもいいがさすがにタイミングが悪い。

雨のかからない端っこに座り込んでビールを流し込んだ。


「そりゃあそこまでするなら売り上げは上がるだろうけど……どんだけ仕事命なんだよ」


男と男という図式が存在するのはわかっているが、どこか別の世界にあるものだと思っていた。

……あの佐倉の態度が幾ら異様だったとしても……、まさかこんな身近に転がっていようとはさすがに想像も出来なかった。


しかも水嶋からそんな雰囲気を感じた事は無い、ホモが目を付けそうなマッチョなセクシーボディって訳じゃ無いし、反対にカマっぽいナヨった要素もない。


怒れば誰が相手でも口汚く怒鳴り散らし、誰も追いつけず、誰も寄せ付けない。

社内に親しい人間は見つけられず、巻き込まれると大変な事になるからみんな一定の距離を保ってる。

「おはようございます」の一言さえタイミングを見てしまい、周りには誰もいないのに周囲は大騒動、水嶋はそこだけ凪いだ台風の目のような存在だ。抜けた瞬間が無い為、モテるとかモテないとかの議論に入る余地も無いくらい孤高の人なのだ。


男と寝ているなんてしずかちゃんにち○こが付いているより驚いた。



「水嶋さんって……どんな顔してたっけ」


考えてみてもイメージでしか浮かんでこず、具体的な顔の造作が思い出せない。

落ち着いて隣に並んだ事さえ無く、背の高さすらわからなかった。


いつも忙しくて、いつも必死な水嶋。


「……ちょっと…待てよ」


水嶋は嫌がっているように見えた。


困っているようにも見えた。

二時間も同じ場所から動かず、酔いつぶれて眠いのに、それこそタクシーに乗れば10分で帰れるマンションにまだ帰らないとゴネていた。


「佐倉を……避けていた?」


佐倉から誘われたが会いたく無いから時間を潰していたのだとしたら?


…………助けた方が良かったのかもしれない。


帰れないから泊めてくれと乗り込めば幾ら佐倉だって変な事は出来なかった筈だ。


帰れと言われても、例え水嶋が駄目だと言っても玄関に倒れこんで寝たフリでもすればきっと助けられた。


どうしてあんな事になっているかは知らないが、どう考えても頑張って我慢するなんておかしい。

入社一年で売り上げはまだ白紙に近く能力給がゼロでもそれくらいは分かる。


もう遅いかもしれないが水嶋のマンションまで戻って……何が出来る。


ピンポン連打。

携帯を鳴らしまくり。


「あ、俺水嶋さんの携番知らんわ」


じゃあポストの穴から歌でも歌えばいい。


もしコトの真っ最中だったら……


「コト……」


あの胸に付いたキスマークは……つまり佐倉がそこに口を付けてチューチュー吸ったって事。

ズボンのチャックが開いてたって事はそこに……

「うわっ!うわぁ!……うわ…」


具体的に考えたら怖い、気色悪い。

デカい佐倉が下になってヨガる姿は想像できないが、水嶋だって女の代わりに「その」役を当てはめるのは想像出来ないし生理的に無理。


飲んだ記憶も無いのに空になっるビールの缶を分別ゴミ箱に捨て、コンビニの軒下を出ると、バシバシとアスファルトを叩いていた雨は少し小降りになっていた。まだ止みそうにはないが濡れても構わなかった、噴火しそうな頭には丁度いい。


どこをどう歩いたのか、水嶋のマンションへの道は覚えてないが空に向かってピョコンと飛び出た高い塔は目立つ。空を見ながら歩いて行くと簡単に行き着いた。


雨が肩を叩いていた。マンションに辿り着く頃にはがっつり濡れていたが寒くはない。


ドアのセキュリティナンバーは3240(みずしま)。

最初見たときは単純過ぎて笑いそうになったが数字を覚えるは得意だ。


どうするか考えは纏まっていない。

日和るつもりは無いけど、ピンポン連打も歌もこんな時間ではただのご近所迷惑だ。


では……どうするか…。


考えるより先に着いてしまった12階でエレベーターを降りると、今度は佐倉の代わりに水嶋が部屋の前で手摺に凭れて暗い空を見上げいる。

水の混じった靴音に気付いたのかこっちを見て、あんまり視力が良くないのか目を細めた。



「あれ?江越か?」


「……はい」


「何だ、まだいたのか、やっぱり帰れなかったんだな、ごめん、今すぐ金を取ってくるから…」

「いえ、水嶋さんは泊まれって言いましたよね。泊めてください。部屋に入りますよ」


いいも駄目も聞く気は無かった。

部屋の中でチン○ン丸出しで佐倉が寝てようがそれもいい。

勝手にドアを開けて中に入ると、さっきはあったデカくて高そうな革靴が無くなっていた。


「あいつ……帰ったんですね」

「ああ……すぐ帰ったよ」


「ヤル事ヤッてですか?」


ヤケになっていたっていた事もあるがよくそれを聞けたと思う。

口を出さずにはおれない。「仕事」と言ったからにはプライベートとして閉じてしまいたくも無い。事によっては……もし水嶋が本当に仕事と割り切ってこんな事をしているのなら無理矢理にでも介入してやめさせた方がいい。


水嶋がどんな顔をするかと思ったらゴオっと火を噴き真っ赤になってしまった。

つまり…間違いないと確信しながらも、勘違いであって欲しいと抱いていた希望が穴の空いた餅みたいに萎んだ。


「何の……事だ?」


「惚けなくてもいいですよ、あいつと寝たんでしょう?」

「は?寝た?俺は寝てないぞ」

「くだらないボケはやめてください。グウグウ寝たかって話じゃない、あいつとセックスしたんでしょう、そんなにいっぱいキスマーク付けて……無作法な奴だな、さっきよりも増えてる」


羽織っただけのビジネスシャツは水嶋が朝からずっと着ていたものだ、隠したいなら見せないで欲しいのに赤い斑点が丸見え。ズボンはベルトが無くて緩々と腰で浮いている。


「これは……ぶつけて…」

「だから誤魔化さなくていいです、俺は佐倉があんたに吸い付いてる所を見てるんです」


「それは……」


何か言い返したいのだろうが開けかけた口をグッと噤み、シャツを握り締めた拳には力が入り過ぎて白くなってる。

熱の上がった顔からは赤が引かずに睨まれても怖くなかった。


「誰にも………言うな、言ったら許さないからな」

「話を聞いてから決めます、俺だって今は許せない気分なんです」

「え?どっちを?佐倉局長?まさか俺?」

「どっちもですよ!」


家だからか、まだ酔っているのか間抜けな声を出した水嶋は会社で見ていたイメージと随分違う。

今うっかり「馬鹿」と言いそうになった。


「佐倉とは親しいんですか?」

「おい、仮にもワイズフードの局長だぞ、呼び捨てにすんな、年間幾らの取り引きがあるかわかってんのか」

「今そんな事どうでもいいでしょう、本人はいないしここは水嶋さんの部屋なんです、完全なプライベートでしょう」

「アホ、裏で話してるつもりでもどっかで態度に出るんだよ、尊敬しろとは言わないが最低限の礼を欠くな」


「……わかりました。」


水嶋の言う事は一見すると正しく聞こえるがそこまで厳格に振る舞う必要はない。

確かに、尊敬できない相手を侮って蔑み、普段から見下していれば態度に出てしまう事もあるかもしれないが、ワイズフードの関連会社とは手広く取引をしていても直接関係無い筈だ。


「それじゃあ言い直しますが佐倉局長様とはどんなお知り合いなんですか?「局長」がどんな役職で何をしているのか知りませんがワイズフードは持ち会社の統括をしてるだけでしょう、うちみたいに製造過程で使う薬品を卸してる会社とはほぼ無関係です」


少し皮肉を込めた言い回しに水嶋はギロリと睨んだが、何も言わずにこの部屋に似合わない小さな冷蔵庫からビールを二本取り出した。


「飲むだろ?」

「頂きますけど……誤魔化さないでください」


「しつこいな、お前の言う通り直接の関係は無いけどな……」

「何です」


「一人で飲んでたら……声をかけられて……話してたらワイズフードの局長で……勘違いされて……断れなくなっただけだ」

「勘違い?何か言ったんですか?」


何を言えばどう勘違いされるのだ。

佐倉がそっちの人だとしても、社会的地位のある人間が、闇雲に「俺はゲイなんだ、今夜どう?」なんて軽く声を掛けるとは思えない。


お互いの所属がわかっているなら尚更だ。


「違う……俺が飲んでた店が…」

「店?」


「そこ……そっちの店だったらしい」


「は?……」


「男が好きな奴の集まる……バー」


それはつまりゲイの集まるゲイ専門の飲み屋って事?どこに行けばそんな店を見つけられるのだ。どこかに存在するにしても裏にも表にも、通りがかりにすら見た事ない。


「水嶋さんって……そっちの人だったんですね」

「違うわアホ、酔ってて……知らずに入っただけだ、普通だったんだよ、どこにも何も書いてないし変な雰囲気も無かった……と…思う。」


呆れた。


心底呆れた。

ゲイバーで今日のように酔っ払い、声をかけてきた男が仕事先の…もう一つ先のお偉いさんだったから丁寧に接待したら付け込まれた?


「嫌がってましたよね?困ってるなら断ればいいでしょう、常識の範囲を超えてるんだ。失礼もクソも無い、何を馬鹿みたいに相手してるんですか、家にまで押しかけられてるのに黙って許すから付け込まれてるんでしょう」

「そんな訳にいかないだろ!佐倉局長の一言で工場が丸一棟止まるかもしれないんだぞ!損失は表面上の取引額だけじゃ無い、止まってる工場の従業員の給料はそのまま赤字になって次に機械を動かす当てもなくそれが続んだ、わかってんのか!信じられない額になるぞ!」

「水嶋さんの会社じゃ無い!それとこれとは別です!もし佐倉の野郎が仕事を盾に取って関係を迫るクソ汚い奴なら然るべき所に訴えてでも断るべきです」

「何にもわかってないくせに生意気言うな!、運送屋は?突然仕入れを切られる原材料の会社はどうなる?"迷惑をかけてごめん"なんて軽い話じゃないぞ、うちの会社だけじゃ無く他所まで巻き込むんだ!ちょっとは勉強しろ!」

「そんな事はわかってますがこれはもう仕事の話じゃっっ……!!」


ゴツっと鈍い音がした。


黙れと飛んできた水嶋の頭突きが鼻の根元に思いっきりぶつかってお互いに仰け反った。


「殴る事無いでしょう」

「殴って無い……痛え……」


大量の山葵にやられたようにツーンと鼻が沁みて涙が止まらない。

ツルッと落ちてきた液体は啜っても間に合わず、指で擦ると鼻水かと思っていた汁は赤かった。


「鼻血?……」

「わっ!鼻血だ」


水嶋が上げた大袈裟な声にこっちがびっくりした。

シュポシュポ大量のティッシュを引き上げ、そんなにいらないのにまだシュポシュポとティッシュを出し続け、大した事じゃ無いのに会社では絶対見せない顔で慌ててやってる事がおかしい。


「こんなちょびっとの鼻血くらいどうって事無いです、ほら、もうティッシュは十分だから手を止めてください」

ティッシュは箱から出すと嵩を増す。掌一杯に掴んだ白い束が顔を押し付けられ、勿体ない事にちょっとずつ血が付いて殆ど全部汚してしまった。


「ごめん……」

「いや、事故ですからいいんです、それよりもこれだけは確認させてください。嫌なんですよね?」

「………嫌に決まってるだろう、何だよ、その含んだ物言い」

「いや……もしかしてやっぱりそっちの趣味かと…」

「んな訳あるか、アホ」


普段からそうなのだが、水嶋は弾丸のような早口で正論を飛ばし、相手にほんのちょっとの反論も言い訳も口を出す暇を与えないのだが今夜は違った。


風呂に入りたいからお前は寝たいなら寝ろ、風呂に入りたいなら待ってろと言って逃げてしまった。


「勝ったぞ」


高梨相手に2時間愚痴っても晴れなかったモヤモヤが吹き飛んで胸がすいた。


多分まだ酔ってるし、恥ずかしい事を暴露され萎れていたとは言え、あの水嶋を言い負かした爽快感は格別だ。高梨と飲んだお酒より、泣きそうになって飲んだコンビニビールより、水嶋のくれたビールは美味かった。


部屋を見回すとマンションの廊下に投げ捨ててあった同じ銘柄の煙草が灰皿に潰れてる。吸っていいなら、と煙草に火を付けると風呂から上がった水嶋が「ここは禁煙だ」とドタドタ飛んで来て喫いかけの煙草をとられてしまった。


「いいじゃないですか、佐倉局長も吸ったんでしょう」

「お前が局長だったら何も言わないよ」

「うちの会社に局長なんてないでしょう」

「例えばだよ、その話はもうすんな、もう寝るか風呂に入って来い!」


「風呂はいいですけど…寝ろって…」


水嶋の部屋は広いがベッドと小さなデスクがあるだけでソファも何も無い。

何か掛けるものでも貸してくれたら床で構わないが水嶋の指はベッドを指していた。


「その辺で寝るから水嶋さんは俺に構わないでベッドで寝てください。」

「俺は……ベッドに寝るの嫌…」

「は?俺だって嫌ですよ、あそこで何してたんですか」

「うるせえ!」


ゴンっと落ちて来た拳骨で頭が振れた。

全く……人を殴る事に躊躇無さ過ぎ。


「酷い……殴る事無いでしょう、今更です」

「二度と言うなって言ったよな?今度その事を口にすると刺すぞ」

「わかりましたよ、でも俺もベッドは嫌です、布団を引き摺り下ろしてここに並んで寝ましょう、時間も遅いしもうクタクタです」


「毛布の予備があるから出して来いよ」


水嶋の部屋なんだから水嶋が取って来てくれればいいのに……クローゼットを指差してから、自分はベッドからズルズルと手繰り寄せた布団に潜り、ラグの上にコロンと横になってしまった。


それにしても……風呂から上がって来た水嶋が着ていたのはお父さんを思い出す縞々模様が入ったパジャマだった。小学校を卒業した辺りからそんな物無かったし友達もみんなスエットとかTシャツで寝てる。


1日マックスまで吹かして働き、倒れるまで呑んだ後、想像しただけでも疲れそうな倒錯セックスに付き合い……限界だったのか、水嶋はすぐに寝息をたて出した。


水嶋が男と寝るなんてビックリ仰天、鼻からスイカ、白鵬が女だった……くらいの衝撃だったが、普段は全く見えない素顔をちょっとだけ拝ませてもらった。


目を離すと頭の中のイメージに支配されて顔が消えてしまうが、隣で眠る水嶋の顔を見ていると28……もうちょい下に言ってもすんなり受け入れる事が出来るくらい


時計を見るともう深夜3時を回ってる。

明日は休みだから別にいいのだが眠れる気がしない。


取り敢えず明かりを消して目を閉じてみた。








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