第2話水嶋さん
大学を卒業してから「奥田製薬株式会社」に入社して一年ちょっと。
約束が違う。
奥田製薬は年商200億を誇る売り上げを持っているが一応まだ中小企業を名乗ってる。
300人を超えないよう従業員数を調節して資本金も低く抑えてある。
企業相手の商品しか無い為、大企業の知名度は必要なく、法人税の優遇やその他にもメリットがあるからだが……つまり儲かっている。
江越隆文(えごし たかふみ)。つまり俺は、そこそこの大学を出て、そこそこいい会社に就職できたと最初は喜んだ。
社屋はボロいが(本社なんかどうでもいいから工場への投資をする、が社長の信条)エアコンの効いた部屋でのんびりとお茶でもすすり、女子社員のお尻でも品評してればいいと思っていた。
何故なら入社名目は「システムエンジニア」だったから。
社内のオンラインから工場のシステムを見る。
その仕事は、自分で言うのも何だが特化された専門職だから他に代わりがいないと思っていた。
それなのに、入社してすぐ(一週間、研修は無し)下された辞令は営業部。文句を言う度胸なんて無いが、一応何故かを聞いてみると理由は「背が高い」から。
意味不明。
全くのスキル違いに、訳も分からず走る回る羽目になっていた。
奥田製薬を一口で語ると「別の国」
他の会社は知らないが社内に「ハラスメント」なんてお洒落で粋な流行り言葉は存在しない。人としてどうかと思う程みんな揃って言葉が荒く、当たり前にど突かれる。
「俺の酒が飲めないのか」なんて前時代的ベタな台詞が「コピー取ってきて」…くらいに軽く飛び交い、「死ね」も「無能」も「役立たず」も、春の花粉くらい当たり前に浮遊している。
「結婚は?」とか「飲みに行こう」すらセクハラになるのに、奥田製薬の女子社員は油断すると尻を撫でられ、女子社員も女子社員で口で抗議する前に鉄拳で訴ったえる。
蔓延してる労働基準法無視は留まる事を知らず、先週も「失敗は体で払え」と言われた。冗談だと思っていたら丸一日拉致され搬送用のトラックを洗う羽目になった。(しかも日曜、しかも10台ワックス付き、しかも休日出勤とかの手当なし)
こんな汚れ仕事付き、訳も無かってないドサ廻りでは無く、もっとシュッとしたカッコいい社会人生活を夢見ていた。
奥田製薬の営業部は第一と第二に分かれている。
取り扱う事業が多岐に分かれ専門性が高い為だが、みんな忙しくて一堂に会する暇は無い。
それぞれに5、6人所属している筈だが、全貌は見た事ないからよく知らない。
配属されたのは主に食品添加物を取り扱う第二営業部だった。
今や、売り物が「ちょっと傷んじゃった」で済まない時代、街の小さな饅頭屋から海外にまで名前を知られる大企業まで、顧客に引きも切らないが、新規開拓できる取引先はまだまだ星の数ほどある。
そのせいで第二営業部は物凄い鋭角なピラミッドになっている。先が尖ってひっくり返すと地面に刺さるくらい鋭角だ。
つまりトップの売り上げと底辺(俺)の売り上げは、ビルゲイツのお小遣いと小学生のお年玉くらい違う。
そのトップに君臨するエースの水嶋は奥田製薬のそのものと言っていい。見た目は目立って強面と言う訳じゃ無いが、言葉が荒く態度は超偉そう。
自分の発注分が間に合わないとなると工場の予定を変えさせ、3日くらい徹夜しろと本気で言う。そして本当に実行させて納品に間に合わせた。
すぐ蹴るし怒鳴るし、何かあると当たり前に喧嘩腰。社長にすら平気で駄目出しをして、こないだなんか連絡ミスをした女子社員にお茶を掛けた。
競合している他所の取引を攫いまくっている為か、同じような製薬会社が集まる本社の周辺を水嶋が歩けば指を指される程だ。
そんな水嶋が嫌われ者かと言えばそれは違う。
まだ30代前半(と思う)なのに、独自に開拓した売り上げは月に数億を誇り、複雑な段取りも的確にこなす。決してスマートとは言えないが仕事が出来てストイックでかっこいいのだ。
名実共に一匹狼って雰囲気を常に纏い、怖くて近寄れないが目標とする人物には違いない。
………その水嶋が………
今、駅前の植え込みに倒れ込み、植樹に埋まってる。
実は、大学時代からの友達である高梨と飲みに来た店の前で水嶋を見かけていた。
その時は確かに座っていたし、眉間の皺が怖くて挨拶なんか出来なかった。顔を見られないよう通り過ぎ、二時間ほどグダグタと愚痴を漏らして呑んで食って……もう一軒と店を出て来たらまだいた。
しかも今度は寝てる。もっと言えば倒れている。
細く軽い雨がサラサラと降り始めている。ずっとそこにいたのか、放り出した足の形に地面が乾いていた。
思わず足を止め、どうしたもんかと見ていると、高梨が花の無いツツジの茂みと俺の顔を交互に見て聞いた。
「何?何見てんの?江越の知り合い?酔ってのかな?めっちゃ寝てる」
「……う…ん…知り合いと言うか…」
はっきりと返事できないのは迷ってしまったから。
知り合いだと言えばそうなのだが、いつも忙し区くせっかちな水嶋が入社して間もない底辺営業の顔を覚えているとは思えない。
本社にいても台風のように社内を動き回り、巻き返しの風みたいに去っていく。自分に関係ないモブ社員など目にも入っていないと断言出来る。
「何だよ、中途半端な返事だな」
「うん…会社の…先輩なんだけど…さ…」
「へえ、そんなんだ、酔ってるのかな、どうするんだ?ほっとく?」
「う…ん…どうしようかな……」
怒っている時以外の水嶋は何もかも計算づくで動いてるような人だ。非効率な事はしないし、帰社すると必ず嗽をして手を洗う。怒鳴りながらでも嗽を欠かさないのは自己管理まで完璧だからだ。
何か考えがあって寝ていると仮定すればいい。
仕事命で会社の飲み会にも来た事は無く、プライペートは全く見えない相手だ。声を掛けると「余計な事をするな」と怒られるかもしれない。
「ほっとくよ、あんまり知らないし……いつも滅茶苦茶完璧な人なんだ、自分で何とかするだろ」
「雨が降ってるけど…いいのか?」
「いいよ、行こう」
"まだ年休は取れない"……なんて労働基準法が当たり前に適応される普通の会社に就職した高梨には、奥田製薬が殺伐とした極地なのだとクソ丁寧な説明をしても内情は伝わらない。
年の近い先輩同僚が酔って酩酊しているのに見捨てる気なのか?…と非難の目を向けられても、水嶋は「触らぬ神に祟りなし」って言葉がプーさんと蜂蜜くらい似合うのだ。
「行こう」と高梨の腕を引いて見て見ぬ振りをしようとしたが……ボツンっと、大粒の水滴が頭の天辺に落ちて来た。
本格的に降りそうな雨の兆しは顕著だった。
今はまだ疎らにしか落ちてこない鷓雨だがすぐに満遍なく濡れる。
水嶋はほぼ知らない人だが、中途半端に知ってるからこそ無視したかったのに……
もし本当に意識が無いならやっぱり……放置する事は出来ない。
「ごめん高梨、俺はやっぱりあの人を拾って何とかするわ」
「うん、そうした方がいい。まあそうすると思ったよ、ブラック企業に足を突っ込んで江越が変わっちゃったかと残念に思ってた所だ」
「だからな、ブラック企業なんて流行り言葉はうちに無いの!」
「ハハ、その人起こしといて」
"タクシーを呼んでくる"と、走ってくれた高梨も変わってない。
人見知りが激しく、誰にでもフレンドリーって訳では無いが何をするにも筋を通す真っ直ぐな高梨とは大学の入学式で友達になってからの4年間、ベッタリ一緒にいた。
多分、どんな新しい出会いがあっても、結婚しても、家のローン組んでも、お父さん臭いとか言われて生命保険の証書を見つめる事があっても、一生付き合っていく友達だと思ってる。
「……さて…どうすっかな…これ」
この状態で動かないんだから酔っているのは間違いない、まずは「水嶋さん」と声を掛けてみた。
雨に濡れても起きないのだ、これは想定内だっだがやっぱり無反応。
次は道路に突き出した足を揺すってみた。
「水嶋さん……起きてください、濡れますよ」
同時に呼び掛けると、ゴソゴソと足を動かし唸り声をあげた……が、また寝た。
「水嶋さん?……水嶋さん!」
雨が強くなって来ていた。もう遠慮なんてしてられない、ゆさゆさと大きく揺すって呼びかけると、ビクっと足を縮めて薄眼を開けた。
「水嶋さん…目が覚めましたか?起きてください。雨が降ってます。」
スキルも適性も吹っ飛ばし「背が高いから」と営業に回されたのだが、成人してる男を担げる程ゴツく無い。もし起きなかったら救急車を呼んでやろうかと考えていたから助かった。
「痛え……何だよこれ」
痛いのは当たり前だ、半目を開けた水嶋が頭を置いているのはふわふわの芝生じゃない、雑に剪定された枝がザクザク伸びているツツジなのだから痛いに決まってる。
顔を動かすと頬や首を容赦無く引っ掻いていた。
「大丈夫ですか?」
「あ?……何だ江越?お前こんな所で何をしている」
何をしている、はこっちの台詞だが……勿論怖いからそんな事は言えない。
江越と呼ばれ、水嶋が名前と顔を覚えていた事に少し驚いた。別のタイミングなら嬉しいかもしれないが、今、この時限定で言えば覚えてくれてない方が良かった。
「おい、手を貸せ、起き上がれない」
「はい……あの俺の友達がタクシーを捕まえに行ってるんで…」
「いいから先に手を貸せ、頭に何か刺さってる」
「ん」と両手を挙げた水嶋にもちょっと驚いた。
思わぬ親しげな仕草に、意外とフレンドリーな一面もあるのだな……と手を貸そうとすると、何故か思いっきり払われた。
酔って手元が狂ったのかと思ってもう一回手を出しても、バシッ。
何なんだとムッとしたが諦めずに手を出したらビシッ。
水嶋は酔っているだ。目を開けて話しているが酔って何をしているのかわかってない。
もう無理矢理にでも腕を引っ掴み、引っ張り上げてやろうとするとビシバシ手の取り合いに発展してる。
「ちょっと!何してるんですか?!自分で起きれないし起きるつもりもないんでしょう、ちゃんと捕まってください」
「お前が気色悪い手付きで触ろうとするから悪い」
「気色悪い?!気色悪い手付きって何ですか」
「知るか!さっさと起こせ!ザクザク痛い」
「……全く…」
情けない格好で寝転がっていても水嶋は水嶋。世話になってるくせに偉そうで高圧的な態度を変えようとはしない。
気色悪い手付き(?)にならないように拳を固めて腕を出すと、何でそんな顔をされなければならないのか……思いっきり嫌そうに捕まった。
「どうしてこんな所で寝てるんですか、危ないでしょう」
「俺だって寝るつもりなんか……痛てて……痛えよ、ゆっくり上げろ」
自分で首を持ち上げる気もない。完全に体重を預けられ、また落ちてしまいそうだ。くれぐれも気色悪い手付きにならないよう腕を掴んで引き上げると、水嶋は立ち上がってすぐクタクタと足が崩れ落ちそうになった。
腕を持つだけで嫌そうだったくせに……厚かましい。遠慮なく抱きつくように凭れて来た水嶋の髪からは酒の風呂にでも入って来たみたいにアルコールの匂いがする。
「水嶋さんがこんなになるまで飲むなんて意外です、大丈夫ですか?」
「うん……大丈夫」
「嘘をつかないで下さい、ほら、ちゃんと立って」
脇に腕を入れて体を伸ばしてみたが立つ気は無いようだ。また元の植え込みに座ろうとする水嶋の腕を肩に上げて、タクシーを拾いに行った高梨を探すと少し先の方で手を振っていた。
「家はどこなんですか?友達がタクシーを拾ってくれたから送っていきます」
「家には……まだ……帰らない」
「何を言ってるんですか、帰ってもらいます。雨も降ってるし見た所まともに歩けませんよね」
「歩けるし……金曜だぞ。江越は好きに遊んで来い、俺に構わないでいい」
「いや…でも…」
もうほんのちょっとだけでもシャンとしていてくれたら、タクシーにでも放り込んで一人で帰ってもらうのに……今の水嶋からは横暴で乱暴で、それでいてクレバーに仕事をこなす怖いオーラが消えて無くなってる。
採れたてでピチピチな初物トピックを拝んでいるようにも思うが、仕事を離れた水嶋はちょっと頼りなくて面白かった。いつもキチッとワックスで固まってる前髪が乱れ、バサバサと目に掛かって普段より若く見える。
この人にもプラベートがあるのだと思うと不思議な感覚しかしない。
「俺はもう帰るんです、水嶋さんを降ろしたらそのままタクシーで帰るからいいんですよ」
「じゃあタクシー代は俺が払ってやるからお前は帰れ、俺はもうちょっと…」
「いいから。行きますよ」
ドアを開けたタクシーの前で焦れている高梨をあんまり待たす訳にはいかない。歩こうとしない水嶋を無理矢理引き摺っていると、今そんな事をしなくていいのに………ジャケットのポケットを弄り、反対側のポケット、中のポケット、すぼんのポケットを掻き回して「財布が無い」と不穏な事を言った。
「ちょっと……まさか……」
「うん…無いな……」
「ええ?!落としたんですか?!それとも寝てる間に盗られたとか?」
「さっきニコニコしながら寄ってきた知らない奴と話してて……その後寝たから…」
「嘘……」
信じられない。あの水嶋が……高嶺のエースが酔って酩酊した隙に財布を盗られてる。
しかも慌てる事もなくヘラヘラ笑い、仕方無いと諦めた。
「それ駄目じゃないですか、免許証とか社員証は?ポイントカードは?」
「何でポイントカードなんだよ…カードは……財布に入れてない…からいい」
何なんだ、その「ああよかった、ラッキー」みたいな口調は。
例え財布の中身が無くしても困らない程度の金額だったとしても窃盗に合って「まあいいや」は駄目だと思う。
「よく無いでしょう?!落としてるのかもしれないしもう一回植え込み見て…そうだ、どこの店にいたんですか?財布を忘れてないか聞いた方がいいでしょ、無ければ警察に…」
「面倒だからいい、それより金を貸してくれ、俺はまだ帰らないからその辺に捨てていい」
「捨てろって言われたって……」
捨てたいのは山々、これが知らない人ならさっさと捨てる。
一度は見て見ぬ振りをしたが、酔って寝込んで財布を盗られるような状態では今更捨ててなんか行けない。大丈夫だとゴネる水嶋をタクシーに放り込んで、迷惑そうな顔をしている運転手にちょっとだけ待ってくれと頼み込んだ。
「ごめん高梨、この人をちょっと見てて」
「何だよ、どうしたんだ」
「うん、この人財布無くしたんだって」
えーっと目を剥く高梨にタクシーを見張ってもらい、水嶋が埋まっていた植え込みの周辺を見て回ったが、ツツジがボキボキ折れて凹んでいるだけで財布らしき物は見つからなかった。
「あった?」
「無かった、だから高梨くん、お金を貸して欲しいんだけどいいかな、ってある?」
アテにしていた「財布」は無いと判明した。水嶋の家がどこにあるのかにもよるが手持ちは4、5千円しか無く、クレジットカードは暇が無くてまだ作ってない。
高梨は詳しい説明をしなくても一万円を出してポケットに押し込んでくれた。
「来週返すよ。また連絡するから」
「お金はいいけど……お前さ、その人の家知ってんのか?」
「知らないけど……何とかなるだろ、この人はこう見えてうちの会社のスーパーエースなんだ、俺の三倍は給料貰ってるから払ってくれるよ」
社風は滅茶苦茶だが奥田製薬は給料をケチらない。初任給は同期の中でもトップクラスだった。営業はその上に売り上げに応じた手当が出る。
当てずっぽうで三倍と言ったが、水嶋の売り上げならもっと貰ってるかもしれない。
「そうか…ならいいけど…」
納得のいかない顔をした高梨は、後部座席に押し込んだままの格好で動かない水嶋を胡散臭い目でチラリと見て「大丈夫か?」と呟いた。
「まあ、何とかするよ。ありがとう、じゃあ……」
まだお礼を言っている途中なのにタクシーのドアは閉まってしまった。苦笑いを浮かべている高梨に手を振ると、不機嫌を隠してないタクシーの運転手はイライラと行き先を聞いた。
「行き先は……ちょっと待ってください、水嶋さん?家はどこですか?水嶋さん!起きて」
水嶋はまた目を伏せて寝ようとしてる、これで一人で大丈夫だなんてよく言える、ペタペタと頬を叩くと「右」とだけ言った。
「右って言われてもな……大雑把過ぎるんだけど……すいません、取り敢えず走って貰えますか?」
「……はい」
金曜日の夜だ、今から稼ぎ時のタクシーにはモタモタ時間を取られると迷惑なのだろう、やっと料金メーターを動かせると毒づいて急発進したタクシーは、黄色になった信号を無理矢理突破した。
右って大通りに出て右の方に行くって意味で合っていると思うが、その大通りは隣の県まで続き、本島の端まで行ける大動脈の本線だ。電車の路線から外れた大雑把過ぎる道案内には不安しかない。水嶋が深く寝てしまわないように腕を揺らし、3秒に一回道を聞いた。
出来れば家の住所を言って欲しい。
右だ左だ、あっちだこっちだ。高速道路に乗ったと思ったらすぐに降りた。結局40分くらい迷走して着いたのは会社から駅2つの住宅街だった。
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