隣の家のお姉ちゃん

キム

隣の家のお姉ちゃん

「はっ、はっ、はっ……」


 見慣れた街を駆けていく。

 隣の家のおじさんから僕のスマホに連絡があったのは、つい数分前。


『目を覚ましたぞ』


 誰が、という主語はないけれど、それだけで意味は伝わった。

 逸る気持ちを抑えながら、行く手を阻む赤信号を待つ。

 ほんの数秒間の休憩。

 赤から青に変わった瞬間、また走り出す。

 全力で五分ほど走ってやってきたのは、駅前にある大きな総合病院。

 受付で自分の名前と面会相手の名前、そしてもう何度書いたかわからない部屋番号を記入し、早歩きで目的の部屋を目指す。

 普段は早歩きすら許されない病院の廊下も、今日だけは事情を知ってか、すれ違う看護師さんたちは見逃してくれている。

 そうして辿り着いた一つの病室。

 静かにスライドさせたつもりのドアは、思いの外大きな音を立てて開いた。

 部屋の奥を見やると、何人かが囲んだベッドの上で一人の女声が上半身を起こしていた。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 なんて声を掛ければいいんだろう。

 久しぶり? いや、事故に遭って目が覚めたら突然の今だ。久しい気持ちも何もないかもしれない。

 元気だった? 元気なわけがあるか。九年も寝たきりだったんだぞ。

 僕のこと覚えてる? 不慮の交通事故から九年。果たして隣の家のはなたれ小僧なんて覚えてるだろうか。

 息を整えながら掛ける言葉を選んでいると、ベッドの上の女性がこちらを見て、あっ、と声を上げた。


「もしかして、ユウくん……?」


 そう、呼ばれた瞬間。

 僕は膝から崩れ落ちるようにして泣いた。


 ――もう、ユウくんは相変わらず泣き虫だなあ。

 うるさい泣き声の隙間を縫うように聞こえてきたその声は、お姉ちゃんが僕のことを覚えてくれていた何よりも証拠だった。


 * * *


「そっかあ。私、九年も眠っちゃってたんだね」

 これからの話があるからと、おじさんとお医者さんたちはどこかに行ってしまった。部屋には僕とお姉ちゃんの二人だけしかいない。

「うん。だから僕は今、十八歳。お姉ちゃんは」

「こらっ、女性に年齢の話はしないの」

「……はい」

 もう、と頬を膨らませるその仕草は、とても二十五歳のそれに見えない。

「でもそっかあ、九年か。私が事故に遭ったのが十六のときだから、今だとユウくんの方がお兄さんなんだね」

「えっ、でもお姉ちゃん、今にじゅ……」

「女性に年齢の話はしない」

「…………はい」

 自分で言うのはいいのか、などとちょっと理不尽を感じてしまうが、こうしたやりとりからも変わらぬ彼女らしさが感じられる。

「確かに四捨五入をすれば私はもう三十だけどさ。どうも心はまだ十六の高校生って感じなんだよねえ。そう、青春真っ只中! 今だって、事故に遭ったのが十六のとき、なんて言ったけど、私の中でそれはついさっきのことのように感じるんだ」

 確かに、事故に遭ってからずっと寝たきりだとそう感じるのかもしれない。

 だけど、僕やおじさん達は九年間、眠り続けるお姉ちゃんが目を覚ますのをずっと待っていたんだ。

 そんな僕らの心配を知ってか知らずか、俯いたお姉ちゃんは、だからね、と言葉を続ける。

「あの泣き虫だったユウくんがこんなに立派なお兄さんになってるのを見て、ちょっとドキッとしちゃった」

「……っ」

 ドキッとしたのはこっちだ、なんて言えば、またからかわれるのは目に見えているから口にはしない。

「よく、わかったね。僕だって」

 九年も経てば見た目だって声だって違うはずなのに。そう疑問に思って尋ねると、お姉ちゃんは当然だとばかりに答えた。

「そりゃあわかるよ。何年ユウくんのお姉ちゃんをやってると思ってるの?」

「……何年?」

「え、わからないの?」

「だって、いつからお姉ちゃんと遊んでたか覚えてないし」

「あー……そっか、そうだよね。自分のオムツを変えてくれた相手のことなんて覚えてないよね」

「えっ! そんな頃から!?」

「ユウくん家のおじさんとおばさんが忙しいときに、よくお世話してあげたなあ」

 今そんな話をされるのは、流石に恥ずかしい。僕はお姉ちゃんに……赤ちゃんの頃とは言え見られたのか。


 * * *


 それから僕にとっては昔の話、お姉ちゃんにとっては数ヶ月前の話に花を咲かせていた時に、ふと会話が途切れてしまった。

 ――ごくり、と喉を鳴らす。

 気持ちを伝えるなら、このタイミングしかない。

 九年経っても変わることなく僕に優しく微笑んでくれるお姉ちゃん。

 願わくは、これからもずっとお姉ちゃんの傍にいたい。


「「あのっ」」


 僕とお姉ちゃんの、二人の声が重なった。

「お姉ちゃん、先にどうぞ」

「ユウくんこそ、どうぞ」

 お互いに変な気を使って譲り合っていると、お姉ちゃんがふう、と一呼吸置いてから言った。

「じゃあ一緒に言おっか。せーのっ」


「お姉ちゃんさえ良ければ――」

「ユウくんさえ良ければ――」


 続く言葉は、全く同じものだった。


 九年間。

 話していなくても、僕らの心は今でも通じ合っていた。

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隣の家のお姉ちゃん キム @kimutime

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