第89話 心頭滅却すれば乳は尚良し

 その後、腕から滴り落ちる血を見たカリラが、自身の服を破り、それで止血をしてくれた。

 

「悪いな、また新しいのを買ってやるから」


「次はもっとセンスいいのにしやがれってんです」


 いくらか顔色も良くなってきたカリラに肩を貸しながら、俺は再びビターバレーの前に到着した。

 岩石地帯方面は門兵もほとんどいないし、この騒動で、ただでさえ少ない門兵が、今では街中に駆り出されている事もあってか、出入りは自由みたいなものだった。


「よう」


「待っていたのである」


 街に入るための門を潜り抜けると、そこにはエヴァンが既に来ていて、俺のことを待ってくれていたようだ。

 壁に背を持たれさせ、腕を組む姿は、吸血鬼特有の冷たいイケメンのような表情と相まってなかなか様になる…………ので、滴った血を飛ばしてみた。


「ちょっ!?やめっ、止めるのである!それはひどすぎるのである!」


「うっせ、イケメン死ね。俺のカリラたんを誘惑しに来やがったなテメエ」


「誰もテメエのじゃねえです。何糞みてえな勘違いしてやがんですか」


 あれ、さっき身も心も俺にくれるって言ったじゃん………。

 なに?この世界にもクーリングオフ制度とかある系なの?


「とにかく、その怪我を直さないといけないのだよ」


「“治す”な。お前らと一緒にすんなっての。まあいいや。とにかく…………頼めるか?」


「任せるのだよ」


 そう言ってエヴァンは俺とカリラを抱え、マントを翼にようにして飛び上がり、再びローズとジョニー爺さんのいる建物まで運んでくれた。

 空から見た街の景色は、まだまだ荒れており、復興には結構な時間がかかることが予想される。それに、結構な数の死人も出ちまったしな。

 

「二人は、凄く心配していたのだよ。正体を隠すのは仕方がないとしても、少しくらい説明してあげてもいいと思うのだよ。特にチョコちゃんの娘には………」


 中に入る前に、エヴァンにそう言われてしまった。

 確かにチョコチの娘のローズであればいいのかもしれないが、アイツは千器に、500年で尾びれが付きまくっちまった偶像に憧れを抱いてやがる。それを壊してもいいのか、憧れる存在が、俺みたいな弱者だったら、アイツは目標を失っちまうんじゃないかと、様々な心配が頭を過る。

 それだけじゃない。俺の正体を知ったことで、ローズが政治に利用される事も考えられる。俺の力がそこまで影響を及ぼすかは分からないが、それでもこれだけ膨れ上がった千器のネームバリューは、それなりの抑止力になることは確かだ。

 俺達と同じ、冒険者を目指し、俺達にはない明確な目的を持った若いローズが、そんなことで人生の選択肢を制限されちまうのを、俺は良い事だと思えない。


「考えとくよ」


 俺の返事を聞いたエヴァンは、そのままどこかに飛び去ってしまった。

 恐らくあいつの家が近くにあるのだろう。あいつも、少し変わったな。500年前は、気弱で、自己主張しないタイプだったんだが、今のあいつはそうじゃなかった。強い力を持ったってのもあるが、俺がいなくなってからきっと、何かがあったんだろう。


 ドアノブに手をかけ、中に入ろうとした時、今度はカリラに服の裾を掴まれてしまった。


「ちょっと肉もつまんでるんだけど」


「……正体」


「ん?」


「テメエの正体はなんだって聞いてんですよ………迷宮の最下層に軽々と行きやがったり、強力な魔物を殺せる爆弾をいくつも持ってやがったり、あの原初の魔王を従えちまうような奴に、私は心当たりがねえんですよ」


 まあ、こいつなら大丈夫か。こいつはマッカランのこともあるし、アイツに逆らえる魔族は存在しないからな。


「俺が500年前に召喚された勇者ってのは話したな?」


「ええ」


「その時の俺は…………千器って呼ばれてたんだ」


 カッコつけて溜めたのがいけなかったのか、ドアノブを捻って、そのままにしたのがいけなかったのか、それとも、純粋に運が悪いだけなのか。もしかするとその全てが原因かもしれないし、全部違うもしれない。だけど、要するに、一つだけ言えるのは…………神って奴は俺のことを絶対に嫌いだってことだ。


 俺の今の発言と同時に、手を掛けてたドアが開かれ、半開きのドアの向こうでは驚きの表情を浮かべたローズと、ジョニー爺さんが硬直しているのが見える。

 頭から汗がドバっと拭きだし、腕の痛みもいつの間にか吹き飛んじまってる。

 カリラも、驚いてるような表情だけど、なんだか少し納得したような、そんな顔だ。


「―――って言うのはうっそー!ユーリさんジョークだよーん!!!」


 …………。

 誰も反応してくれない。渾身の一発ギャグが、三回転サルコーの後にトーループを決めるくらいに豪快に滑ったような、そんな冷ややかな空気が流れる。

 どうしようどうしよう。今さっき俺結構カッコイイ感じに『明確な目的を持った若いローズが、そんなことで人生の選択肢を制限されちまうのを、俺は良い事だと思えない(キリ)』とか思ってたよね?え、いきなり人生の選択肢そぎ落としちまったんだけど?というか誰も何も言ってくれないのがつらいんですが!?

 あれ?ひょっとして今俺パーフェクトエアー?誰にも気づかれない感じのあれ?マジで?


「………いぎっ!?」


「…………テメエはいきなり何しようとしてやがんですか」


 おかしいな………パーフェクトエアー状態のユーリさんならちょっとおっぱい突っついてもばれないんじゃね?って思ったのに、というか普通怪我人の指へし折ります?バカなの?ちょっとした冗談じゃん………見ろよこの指、逆パカよ?手のひらと逆向ちゃってるからね?俺の可愛い人差し指がこっち向いちゃってるからね?



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