糞餓鬼

「ごらぁ盗人がぁあ!」

 真新しい木材の上、並べられた魚を手にした途端、頭上から剣呑な怒鳴り声が降ってくる。だから、その筋張った指は急いで、ひっつかんだ魚を袖の中へ、二匹三匹しまい込んだ。

「こぉの糞餓鬼ッ」

亭主が箒を振り上げたのを、見るや否や、糞餓鬼と呼ばれた子供は、継接ぎだらけの頭巾を引っ張り、袖をたくし上げ、右肩を大きく突き出した。

「おやじ、これ見えっか?!」

「ひぃいッ」

 情けなくのけぞった亭主は、均衡を崩して、桶につまずきすっ転ぶ。糞餓鬼はキシキシと歯の隙間から、息を漏らして笑う。

「ははッびっくりしたかぁ おめぇ」

 無理もない。露わになった糞餓鬼の右腕から右手には、皮膚と皮膚が溶けあい、骨が剥き出しになった醜い傷痕があった。嘲るように細められた目も、左右とで大きさが異なる。右の相貌は、腕と同様、深い火傷の痕があった。

「化け物ンみてぇだろ? この前の都ンの火事でこうなっちまった。おめぇも火事に気をつけろよッ」

と、七輪を蹴っ飛ばす。網の上の焦げ目のついた魚は宙を舞い、それを待っていた猫も呻って飛び退く。幸い火は地面を小さく滑って、すぐ消えた。

 亭主がそれを見届ける間に、糞餓鬼はもう大通りの角を曲がっていく所だった。半身を火傷しているにもかかわらず、すばっしこい奴だ。いまだ尻餅ついたままの亭主は

「でたぁああ 葦丸がでたぞぉおぉ」

と、力の限りに叫んだ。一斉に通りの女、男らが振り返る。何だと! 奴が出たのか! すぐ近く店を構える亭主らが集まって来た。

 葦丸は、この都通りで悪名高い糞餓鬼だ。物をすぐ盗み、壊し、そしてあの恐ろしげ

な火傷をこれでもかと見せつけてくる。特に被害を被ったのは、市場の露店だった。品物はこっそりと、時に堂々と盗まれた。

 こうしちゃおられねぇ。腹に据えかねた亭主達は、葦丸を追い払おうと、徒党を組んだ。葦丸は川辺の葦原に住んでいた。




 帰りはやけに体が軽かった。

 いっとーにいとーさんとーしいとー、道によれて突き出た小枝を飛び越える。頭の中では自分は旋風だ。そのたび魚の入った袖は、ずっしりとした質量を伴って跳ねた。糞餓鬼こと葦丸は、なんだか楽しくなって、きししと笑った。魚屋の亭主の驚愕顔が、今でも目に浮かぶ。

 都の大火から、朝廷が、いや国中が騒乱に陥った。天下を取ったかに思えた矢頭奴の棟梁が、腹心の武者に殺されたり、東国の武者が帝の弟君と組んで謀反を企んだり、あっちこっちで諍いが起こった。けれども、そんな事に気を揉むのは貴族だけである。

市井に生きる人々は、己の生活を立て直す事に注力した。僅か一週間余りで仮小屋ができる。二月もすれば市が再開された。都中の家々が真新しい杉の香りを漂わせた。人々は互いの顔を見合わせ、安堵した。ようやく住む家ができた――家族一丸となって更なる発展に努める。けれどその中で、拠り所のない葦丸は、人々の輪から弾き出されていった。


葦丸が、肌の痛みで身を起こしたのは、どこかの川辺だった。水草がゆらゆらと口腔を、出たり入ったりした。水が器官に入り込んだのか、えずきながら、四肢を使って土手を這い上がった。

 寺から石階段を下って――絶対に見たことのある景色のはずなのに、見渡すばかり、黒く焦げた木やらの残骸が転がっているだけで、ここがどこなのか見当もつかなかった。

 北風が、木片と煤とを一緒くたにして吹き上げる。それらが容赦なく、葦丸の頬を打った。つんとした嫌な臭いが、辺りに立ち込める。

「おとうーおかあー」

 そうして都中を彷徨っている時だった。微かに幾人かの悲鳴を押し殺した声が聞こえた。何事かと、葦丸は後ろを振り返る。すると、

「うぅうわぁあ! おめぇ顔がねえ」

 腰を抜かして後ずさる男がいた。言われて初めて、両手を顔へ持っていく。左はちゃんと鼻がある。けれど右は明らかに凹凸が無かった。触れた瞬間、鋭い痛みが走った。呆然と歩き続ける葦丸に、

「ここれやるっ、なっ? 勘弁してくれよぅ、近づかないどくれ!」

 震える手で男が差し出したのは、白飯のおにぎりだった。一粒一粒が、朝の日を受けて、つやつや光っている。思わず喉をごくりと鳴らす。火事前ですら、食べた事のない代物だ。受け取るのを見咎められやしないかと、葦丸は肩中を丸めて辺りを見回した。黒く焼け落ちた家の残骸から、幾人かの白目が見え隠れする。彼ら彼女らは、葦丸の視線から逃れるように、素早く顔を伏せた。


――あぁこりゃ商売になるな。


 空腹に任せて、葦丸はおにぎりをひったくると、貪り喰った。指についた米粒、口の端についた米粒をも、舐めとって食べる。目の前の男は縮み上がって、更にもう一個おにぎりを投げて寄こした。うめぇ、うめぇ。躊躇する事なく、葦丸はそれを拾って食べた。掴み取る腕も焼けただれている事に、この時初めて気付いた。

 そっから荒れるのは一瞬だった。葦丸は自分の顔や腕を悪戯に見せては、食い物をたかった。これに飽きると、今度は脅かしてから盗むようになった。


こんな物が怖いだなんて。ふざけて右頬の皮膚を葦丸は引っ張ってみた。やはり、己には左頬と何ら変わりはないように思えた。いつまで経っても慣れず、怖がる人々を、葦丸はせせら笑った。けれどその一方で、腹の底は嫌にむしゃくしゃした。人々の表情が、右腕を捲り上げた途端、頭巾を脱いだ途端、歪められるのが気持ち悪くてしょうがない。

鬱憤を晴らすかのごとく、物を見れば盗み、壊した。そのくせ、川面に映る自分の姿を見るのが恐ろしかった。火傷の傷痕に、まだ慣れていないからじゃない。人々を睨む己の目つきと対峙するのが怖かった。

お父とお母はいまだ見つからない。それで良いような気さえした。人々の群れに近づく度、傘が雨粒を弾くかのように、人々の輪は自分から離れていった。それならば、己の方を向くようにと、暴れてみせる他なかった。

走りながら、袖の袂より、盗んだ魚を一匹取り出した。指の腹で撫でると、複数の鱗につーっと爪で引っ掻いたような傷がいっているのが分かった。持ち上げて、じっと目を見る。白く濁った汚い目だった。

すぐ食べてやろうね。葦丸は、緩やかな手つきで、魚を袖の中へ戻した。少しも荒い音はしなかった。

道の両脇に、再建の追い付いていない焼け焦げた家の一帯が、そびえる。黒く折れ曲がった骨組みは、曇天と相まって、圧迫感があった。市のある大通りと比べて、その荒廃具合は凄まじい。

葦丸は鼻をつまんだ。ここは酷く埃っぽい。灰と煤が上へ下へと不規則に辺りを飛び回る。大通りの杉の香りとは大違いだ、捨て置かれた――という気分に浸る。

前へ前へと差し出す手足の産毛が、徐々に水気を孕んできた。じんなき川の葦原はもうすぐだ。葦丸はさらに早く足を繰り出す。土から砂利へ、砂利の間に生える苔を、足の裏は詳細に伝えてくる。葦丸は、足の指がぬめる感覚を楽しんだ。

 土手を降りると、遠くからでも背の高い葦が目立ってきた。風に揺れる水草が、根元から川に水紋を起こす。

あぁ疲れた、頬を膨らませ葦丸は腰を下ろした。水草の蔭からセキレイが飛び去った。セキレイの白と黒の翼が川面をかすめ、新たな水紋を刻んでいくのを、葦丸はいつまでも飽きずに見ていた。

「おいッ! あそこにいたぞ!」

 と、呼び掛け合う野太い声がする。そして、大人数が騒々しく草木を踏み荒らす音がした。ぱきんと小枝が折れた。


葦丸は振り返った。こちらへ男達が走って来るのが見えた。

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