ミカン
もうすぐ冬。風は冷たく空はよどんでいる。
「タチバナ、本当に帰っちゃうの? 友達もいるんでしょ?」
「友達には訳あって引っ越すと伝えておいた。だから心配するでない。アッスーたちは近くの電力会社の官舎の子らでな、友達が引っ越していなくなるのは慣れっこだそうだ」
タチバナさんは物置きを改装した自分の部屋から、次々荷物をカバンに詰め込んでいく。驚いたことにあきらかにカバンより大きいものも次々つっこまれていく。
やれやれ、タチバナさんは猫のように気まぐれだ。やることを終えたから帰るというのは分かる。しかしいくらなんでも急すぎやしないか。
「電車で帰るの? 夜中まで待たなきゃないでしょ」
「それ以外にもあちらに帰る方法はいろいろあるでな。……結局、魔力の更新に付き合ってもらうことはなかったな。すまない」
「いやすまないってほどのことじゃないし、変なことに巻き込まれないで安心したし……」
あたしがぶつくさ言っていると、タチバナさんはよいしょ、とカバンを持ち上げた。
「とりあえずきょうの昼を食べたら出る。今日の昼はなにかね?」
「冷凍うどんじゃ! デザートはみかん!」
「やったー冷凍うどん! みかんみかん!」
うん、意味の分からないやり取りだ。タチバナさんの部屋に置かれていた、古い反射式ストーブの火を消す。ちょっと焦げ臭い。
「かどやのおばあさんにも挨拶にいくべきだろうか……いや。こちらに未練を残すのはいやだ。かどやのおばあさんの人心掌握術はすさまじくてな、うっかり行ったら帰れなくなりそうだ」
言われてみれば確かに、小学生のころはほぼ毎日行ってたな、かどや……。
ここまでの経緯を説明すると、悪魔との死闘の翌日、つまり昨日、タチバナさんは、「こちらでやることはすべて終えた」と言い、帰ることにしたと唐突に言いだした。
カメリアさんはタチバナさんに、「そう言わないでもうちょっと残ったら?」と言ったのだが、タチバナさんは聞く耳持たずで帰り支度を始めた。そしてきょう、日曜の昼、タチバナさんは帰ってしまう。
さみしかった。
でもどこか、ほっとしていた。
タチバナさんが帰ったら家賃収入は減ってしまうのだが、しかしそれでも、夏の終わりからこっち、タチバナさんに振り回されて暮らしてきたことを思うと、随分楽になる。
昔喧嘩した友達のことを思い出す。SNSで見張られて、ちょっとでも相手の意に添わなければ文句を言われ、あれを見ろこれをやれこれを読めと趣味を押し付けられた。馬鹿らしいことだ。その友達に振り回されて、漫画を買いアニメを観ゲームをしていた時期を想うと、随分楽に暮らしているのだけれど、それでも二人分気を遣うのはなかなか疲れる。
タチバナさんは人を束縛しようという人じゃないし、カメリアさんもそうだ。
だけれどタチバナさんが出ていくと言ったとき一番に感じたのは「安堵」だった。
最初の遭遇が「玄関チャイムを鳴らしまくる」だったタチバナさんとしばし顔を合わせないで済む、というだけでひどく安堵する。このハチャメチャな人に付き合わされないで済むことを思うと、随分と楽だ……。
さて、昼が近づいてきた。あたしはそろそろ昼ご飯を用意しようと台所に立つ。
冷凍うどんをレンチン術して、どんぶりにあけて鶏皮でとったダシをかける。ネギを刻んでぱらぱらする。冬のお昼ご飯にピッタリなやつができた。
どんぶりをどんどん! とテーブルに置く。
「カメリアさん、タチバナさん、お昼できたよー」
「もうですか? わぁいい匂い」
カメリアさんが来た。椅子に掛けて、うどんをキラキラの目で見ている。
「――タチバナさんは?」
「さあ。まだ部屋みたいですけど。探し物でもしてるんじゃないですか」
ふむ。あたしが様子を観にいくと、えっく、えっく、と泣く声が聞こえた。
「たたたタチバナさん? どしたの?」
「うえええーん、帰りたくないよぼかぁー!」
タチバナさんは完全なる駄々っ子の口調でそう言った。
「で、でもタチバナさん、自分で帰る、って決めたんでしょ? いやここにいたいならいても構わないけど、でも……」
「帰るよ、帰るさ。ぼかぁはやく自分の部屋に戻って、悪魔に命令すればなんでもやってくれる怠惰な生活をしたいし、叔父上のパンケーキが食べたいし、夜中に出歩けば補導されるのはいやだし、早く帰りたいよ、うん帰りたい。でも帰りたくないよおおー!」
「どっちなの! うどん冷めちゃうよ!」
「……アジサイくん、カメリアの保護者をやっているうちに叔母上みたいになってきたね」
……褒められているんだろうか。いや、けなされている。
とにかくタチバナさんも茶の間に連れていく。うどん伸びるよ! と声をかけて、あたしは自分のぶんをずるずる食べた。うむうまい。安定の冷凍うどん。
「帰りたくないなあー」タチバナさんは文句をたらたら言いながら、うどんをちゅるちゅる食べている。カメリアさんは呆れた顔で、
「でも家賃契約切ったんでしょ? 帰らなきゃだめよ」
と言う。あたしが、
「タラタラしてんじゃねーよ、だよ」と、駄菓子の名前を言うと、
「うむ、分かっているのだが、ここは本当に居心地がいい」
という褒め言葉みたいな返事が返ってきた。
「程よく埃っぽくて、小汚くて、ごちゃついてて、実家みたいだ」
続きを聞くと褒められてなかった。なんつう返事だ。
「実家みたいにくつろいでもらえたなら嬉しいけど、物事を正直に言うのは気を付けてやらないと嫌われるよ」
「?」さっぱり分かっていない顔のタチバナさん。うどんをちゅるちゅる食べている。
「まあ、あっちに帰っても元気でやんなよ。たまに連絡ちょうだい」
「うむ。ああ、冷凍うどんも食べ納め……か。種のないみかんにも驚いた」
タチバナさんは冷凍うどんをやっつけると、ミカンをよく揉んでから食べた。
「ありがとうアジサイくん。君のおかげで、とても楽しかった」
タチバナさんはそう微笑むと、洗面所で歯にひっかかったネギをとり、荷物を抱え上げて、
「じゃあ僕はそろそろ行く」
と言った。どういうルートで行くのか聞いたところ、
「風呂場の浴槽を魔術回線で鏡面にしてそこから」と答えた。我が家の、古くてぼろっちくてシャワーだけ妙に新しい風呂場の戸を開けると、昨日から張りっぱなしの水が静かに広がっている。
ここから魔法の国に帰れるなんて知らなかった。タチバナさんはステッキで水面に模様を書いていく。呪文を詠唱し、ぽーん……という音とともに、門が開くみたいに水面が鏡になった。
「じゃあ僕はこれで。……楽しかったよ、アジサイくん、カメリア。仲良くやるんだよ、カメリア、あんまり無茶を言ってアジサイくんを困らせないように」
「わかってる」カメリアさんは拗ねた中学生みたいにそう言った。タチバナさんはぺこり、と頭を下げると、ぴょんと浴槽のへりに乗り、
「それじゃあ、元気で」
と言って、その浴槽の中に飛び込んだ。ぼちゃん、とかそういう音はせず、ただすーっと、タチバナさんは消え、浴槽は数秒でただの風呂場に戻った。
「――ほんとに帰っちゃった」
あたしがそうつぶやくと、カメリアさんは袖口で目をぬぐった。
「タチバナらしいやりかたです。本当に。――あ」カメリアさんは何かに気付いて、玄関に走っていった。あたしもついていくと、タチバナさんは靴を持って行くのを忘れていた。
カメリアさんと二人でゲラゲラ笑った。子供サイズの革靴が、ちんと玄関に揃えて置かれている。どうにか届けるにもあの水面の魔術は魔術師しかできないらしい。
「タチバナ、なにやってるの……」カメリアさんは心底おかしそうに笑った。
あたしも、「結構ドジなんだね、あの人」と言って笑った。
カメリアさんと二人の日々が、戻ってきた。
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