トウガラシ

 さて、金曜の夜。その日は新月だった。空には星が無数に輝いている。


「新月か。おあつらえ向き、と言った感じだな」いかにも魔術師然とした口調でタチバナさんがそう言い、夕飯の後のおいしいプリンの時間を楽しんでいる。

 テレビでは例の五歳児の番組をやっていて、カメリアさんはあははは、と笑いながら見ている。実に平和。これから悪魔教徒や悪魔との決戦が始まるとは思えない。


「アジサイくん。もう一個プリン食べていいかね」


「だめです。それはカメリアさんのぶんとあたしの分!」


 肝心のタチバナさんも緊張感がいっさいない。とられるのは嫌なので、シシトウの天ぷらでお腹いっぱいなのに頑張ってプリンを食べることにした。


「ほら、カメリアさんもプリン食べなよ。ほっとくとタチバナさんにとられるよ」

「はーい。アジサイさん、プリンの容器の後ろについてる、このでっぱりはなんですか?」

「えーっと。もともとプリンというものは上にソースがかかってるもので、お皿に伏せてその出っ張りをぺきっと折るとプリンがソースを上にしてお皿にきれいに着地するわけ」

「なにそれ、やってみたい! やってみていいですか?」

 しょうがないので許可を出す。カメリアさんは見事にプリンを皿に着地させた。


「おおーこれが文明の勝利……!」

「勝利って大げさな。あれ? タチバナさんは?」


「――探してみましょう」カメリアさんは魔鏡を取り出して画面をいじくる。タチバナさんが、黒い魔術師の正装をまとい、杖を持って家を出て歩いていく様子が画面に出る。


「……これなに?」

「タチバナの魔鏡に、位置情報を知らせる機能を追加しておいたんです。スマートフォン? みたいに言えば、彼氏がどこにいるか把握できるアプリみたいなものですね」

 知ってるぞ。スマホが世に出てすぐ話題というか問題になったやつだ。そんなものまで魔法の国に流れてたのかあ。


 ――あっ。テーブルの下に、カメリアさんの作った魔法薬の瓶が置きっぱなしだ。それに気付いて、あたしもカメリアさんも青くなった。


 それらを抱えて家を飛び出す。行った場所はおそらくあの交差点。軽トラの荷台に薬をどんどん! と置いて、カメリアさんと夜道をかっ飛ばす。


「嫌な臭い」と、カメリアさんが呟く。あたしにはさっぱりわからないので、

「どんな匂い?」と訊ねる。カメリアさんは、

「血と、硫黄の匂いです」と短く答えた。


 交差点への坂道を下っていく。なにやら蜃気楼みたいに道がかすんでいる。十字路を、一台の自動車が走っていった。どうやら素通りできるようになっているらしい。


「魔術による結界ですね」と、カメリアさんが呟く。

「これどうすれば入れるの?」

「入れませんよ。タチバナが許可するまで、この交差点は現実から消えているんです」


 急に不安になった。タチバナさん、本当に大丈夫なんだろうか。


「もしかして――タチバナは、悪魔と悪魔教徒を結界に閉じ込めて、自分もその中で死ぬ気じゃないでしょうか」

 カメリアさんが不穏なことを言う。そんなの嫌だ。カメリアさんは魔鏡を取り出し、なにやら操作した。魔鏡を耳に当てて、


「タチバナ! そういう無茶をすると、次からカレーをジャワカレーの辛口にするからね! なんでも唐辛子いれるからね!」


 と叫ぶ。いや、タチバナさんは死ぬ気なんだから、カレーをジャワカレーの辛口にされてもどうでもいいのでは。そんなことを考えるが、いまはそれどころじゃない。


「分かっておるよ! 結界の脆弱性にいま気付いたところだ! このまま僕が死んでは、悪魔と悪魔教徒は、結界をぶち壊してこの世界に飛び出してしまう!」


 そんな声が聞こえた瞬間、交差点に張られていた結界が解けた。


「――しまった。答えを言ってしまった」

 タチバナさんはボロボロのずたずたになりながらそう答えた。魔術師の正装である黒い装束は至る所破れ、頬には切り傷があり、肩で息をしている。


 タチバナさんの向こうには、手に悪魔のよく持ってるあのフォークみたいな槍を持った悪魔教徒と、あのときの白くて巨大な、寄生虫悪魔がいた。


 バサバサバサバサッ、と空気を切り裂く音がした。タチバナさんの小柄な体が空中で斬りつけられる。タチバナさんはべたりとへたり込み、しかしそこから起き上がり杖を握りしめた。


「こんな下等な悪魔ごときに、この大魔術師タチバナ・ローズが負けるわけがない……!」


 無根拠な自信とともに、タチバナさんはなにやら魔法を詠唱した。ばりばり、と空気が爆ぜて、悪魔教徒たちをなぎ倒す。悪魔教徒たちは、まるでもとからそこに存在していなかったみたいに、消えてなくなってしまった。


「よぉし、残すは本丸のみ――」

 タチバナさんは、そう言って魔法を唱えようとして、膝をついて苦しげな顔をした。


「た、タチバナ!」カメリアさんが魔法薬をわたす。それを一気飲みして、

「だめだ。魔力が底をついた」

 と低くうめいた。ここでガス欠になったらまずい。なんとか魔力を回復する方法はないものかとハラハラするが、カメリアさんが何もしないところをみると、どうやら魔力を簡単に回復する方法というのはないのかもしれない。


「カメリアさん、どうしよう……」

「時間経過による回復を待つほかない……ですね」


 そんなのあんまりだ。寄生虫悪魔は鎌首をもたげて、タチバナさんに近寄ってくる。


「貴様らは悪魔を使役するそうだが、その悪魔にしてやられるとはなさけないな、魔術師よ」

 悪魔は明瞭にハッキリそう言った。カメリアさんから追い出したときの、カタカナで喋る感じではなくなっている。悪魔はゲッゲッゲと笑う。


「今日こそ、カメリア・ローズをむさぼりつくしてくれよう」

 悪魔はずるずると体を引きずり、カメリアさんに近寄ってきた。カメリアさんは、怯えているかと思いきや、毅然とした表情で悪魔を見ていた。


「私を食べつくしたら、満足しますか」

「うむうむ。従順であるな。われの幼き日にお前に噛みついた理由がよくわかる」

 だんだん悪魔に対してあたしがムカついてきた。怒鳴ってやる。


「カメリアさんはっ! あたしのもんだっ!」そう怒鳴ったが悪魔は身じろぎひとつせず、

「よう喋る人族だ」と一言言っただけだった。


「カメリア……あるいはアジサイくん……名称支配の薬は、あるか?」

 あたしの耳は、タチバナさんの小さな一言を確実にとらえた。


「ないよそんなの! 必要になるなら最初から必要だって言っといてよ!」

「あ、アジサイさん、どうしたんですか? そんな顔真っ赤にして」

「カメリアさん、名称支配の薬って持ってる?」


「瓶をもってるわけじゃないですけど、お守りに布にしみこませて持ってます」

 カメリアさんはポケットから縫い目グダグダのお守りを取り出した。どうやら一人でちくちく作っていたらしい。


「やっぱりあるよ! タチバナさん、どうすればいい!」


「その薬は、カメリアとアジサイくんを、結び付けるものだ。その縁の力は、いままでの暮らしで、この悪魔を追い出したときより強力になって――」


 そこでタチバナさんはばったりと倒れてしまった。

「な、なんなんです? アジサイさん、これをどうしろと? タチバナはなんと?」


「えっと、あたしとカメリアさんの関係は、悪魔を追い出したときより強力だから、……というところまでしか分からなかった。どうしよう」


「一か八か、やってみましょうか」カメリアさんはそう言い、タチバナさんの杖を拾った。


「ふふふ……魔法使い。お前ごときになにができる。魔術師の魔力をもってしても倒せなかったわれを、どうやって倒す気ぞ?」


「わたしだってやるときはやります。あなたに屈してはいけないと、アジサイさんに教わりました」


 え、そんなこと教えたっけ。しかしカメリアさんはなにか突破口を見つけたのだ。それを、信じるほかない。あたしは、覚悟をきめた。

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