ハス

 日帰り温泉を楽しんだ日の夜から、妙に咳がひどくなった。

 やっぱ明日ちゃんと内科で薬出してもらわんとな。いがらっぽい喉に龍角散のど飴を投入してみる。それでもやっぱりいがらっぽい。夕飯を作る元気もあまりなく、出前で済ましてしまった。


 出前の中華そばを、けほけほ言いながら食べて、アルカリ泉で痛んでギシギシいう髪にトリートメントをすりこみながらまだけほけほ咳をする。ホントになんなんだこれ……まあ、明日になれば治るだろうか。とにかくそう思って布団にはいった。


 夜中に、苦しさで目が覚めた。

 胸の上になにか重たいものが乗っているような、喉を締め上げるような苦しさ。

 咳が止まらない。咳が止まらないせいで一瞬も休まらない。明け方までずっと咳をして、そうだ花卉市場に行かねばと体を起こそうとして、背骨が凍り付いたみたいに、動けないことに気付いた。


 なんだこれ、やばい。健康だけが取り柄の人生を送ってきたというのに、なんだこれは……。咳が止まらない、苦しい、息すらまともにつけない。


「アジサイさん? 朝ドラ始まっちゃいますよ?」

 カメリアさんが様子を見に来た。天の助け。なんとか現状を伝えようと口を開くも、咳しか出てこない。ずっとゲホゲホ言っていると、カメリアさんはちょっとうろたえた口調で、


「あ、アジサイさん? 咳、止まらないんですか?」

 あたしは頷いた。カメリアさんは少し考えて、

「喉の薬ないか、救急箱見てきますね!」

 と言ってあたしの部屋を出ていった。


 しばらくしてカメリアさんが胸に塗るタイプの咳止めを見つけて持ってきた。あたしの、中学のジャージという残念な寝間着の前をあけて、喉から胸にかけてそれを塗ってくれた。少し楽になった気がしたが、それでも咳は止まらない。ずっとゲホゲホ言っている。


 ごめんね、と謝りたかった。朝ごはんを作りたかった。一緒に朝ドラを観てイケメン俳優にきゃあきゃあ言いたかった。しかし咳が止まらない。


 眠りたいのに咳が止まらない。これが労咳というやつか。気分は忠臣蔵……じゃない。新選組だ。オキタソージだ。

 眠たい頭で、なんで新選組と忠臣蔵は同じ格好なんだろうな、ああでも色違いだ……と、どうでもいいことを考えつつ、咳が止まらないので喉が切れたように痛むのをこらえる。


 目を閉じて、それでもずっと咳をする。

「アジサイさん」

 カメリアさんが部屋に入ってきた。


 返事をしたかったが咳が止まらなくてそれどころではなかった。

「タチバナの見立てだと、『呪い』ではないか、とのことです」


 呪い。あたしがなにに呪われると? 枯らしちゃった花? そう冗談を言いたかったけれど、咳が止まらないので返事のしようがなかった。


「悪魔教徒に呪われてるんじゃないか、と、タチバナが言ってました」

 悪魔教徒……。あの人たちになにか恨まれてるのかな。分からないけど咳が止まらない。


「魔法薬を使うしか、呪いに対抗する手段はないんですけど、魔法薬はふつうの人間が服用する、となるとかなりリスキーです」


 そうなんだ。まあ、カメリアさんの病気を治した薬もキョウチクトウだったし、そのあと五体バラバラになったのを直したのもアジサイだった。普通なら死んじゃうやつだ。


 咳で返事ができないのがとにかくくやしい。

「やるしかない――とわたしは思うんですけど、アジサイさんの了解を得なければいけませんし、アジサイさんになにかあったらそれはアジサイさんの責任でないといけません」


 オーケードーキー。そう思いサムズアップをカメリアさんに見せた。カメリアさんはあたしの手をぎゅっと握って、なにやら魔法らしい呪文を唱えた。


 カメリアさんの呪文に合わせて、世界がスパークした。どぼんっ。なにか急に眠たくなって、そのまま気を失った。


 薄暗がりに座りこんでいるような、そんな夢を見ながら、ああこれは、あたしは眠っているのだ、と理解した。眠っているあたしはあたしの内にいて、その世界は薄暗がりだ。


 薄暗がりの奥に、悪魔教徒たちが舞踊をしているのが見えた。やっぱり呪われてるんだ。立ち上がろうとすると地面からものすごい勢いでとげのある触手が伸びてきて、あたしの手足にトゲを突き立てた。痛い。夢の中で痛みを感じるなんて……。


 暗がりが、急に明るくなった。夜明けのときのように、悪魔教徒はいなくなった。手足に突き刺さる触手が、するするとひっこんだ。


 ぽぉん……。

 水琴窟みたいな音がした。ゆっくりと目をひらくと、カメリアさんの心配そうな顔が見えた。


「アジサイさん……?」

 カメリアさんは心配そうにそう言うと、手にもった匙にちいさな瓶から薬を映して、あたしの口にそっと流し込んだ。

 ――咳が止まった。


「よかった――成功した。アジサイさん、咳が止まりましたね!」

 返事をしようと口を開けるも、ひゅうひゅう音がして喉が痛いばかりだ。

「無理に喋ろうとしちゃいけません。いまお粥持ってきます。タチバナが煮てくれたんです」


 そう言ってカメリアさんは部屋を出ていった。

 ベッド横の机に置かれた薬の瓶を見る。

 どこからどう見てもリポビタンなんとかの瓶だ。中の花は蓮かなにかのように見えるが、こんな紅葉の季節に蓮なんか咲くんだろうか。


 まもなくしてカメリアさんがお粥の入った土鍋をもってやってきた。それをベッド横において、そっとあたしの体を起こす。


「はい、あーん」れんげでお粥をすくってふうふうして、あたしの顔の前に持ってきた。食べる。……お粥なのに米に芯があるぞ。おいしくない顔でしばらくもぐもぐする。


 三口ほど食べたところでどうにか喋れそうになった。

「その薬に使ってる花、なに?」


「これですか? 蓮です。近所の公園――藤棚のある公園の池にいっぱい生えてるのを、タチバナの魔術で狂い咲きさせて摘んできました。アジサイさんがよく手を合わせてる金ぴかの箱に、いっぱい意匠として用いられているから、もしかしてと思って」


 仏壇かい。要するにご先祖様とかが助けてくれたわけ、と訊ねると、


「違いますっ。薬を作ったのはわたしです!」と怒られてしまった。

「ごめん……お粥、もうひと口」

「しょうがないですね、はい」


 カメリアさんのすくうお粥をゆっくり食べる。タチバナさん作ということであんまりおいしくないが、まあ食べられるものが出てきただけ上等だろう。


 あたしは、ぽつりとずっと思っていたことをこぼした。

「なんかさ、タチバナさんに、カメリアさんをとられたみたいに思っててさ。そういう嫉妬心があるから、呪われたりしたのかな」


「嫉妬するのはよくないことだと魔法の国でも教わりますけど、それで呪われるなんて聞いたことがないです。だから大丈夫です。お粥、もうひと口食べます?」


「うん。タチバナさんにお礼言っておいて」

「わかりました。はい、あーん」


 カメリアさんにお粥を食べさせてもらう時間はとても幸せだった。小さいころ、風邪をひいたと嘘をついて学校をサボった日を思い出した。


「おおぃカメリア! 僕のやった大魔術がローカルニュースで流れてるぞ!」

 タチバナさんの元気のいい声が聞こえた。テレビの音も聞こえる。

「――んで蓮が大量に狂い咲きし――」という部分が聞き取れた。


 その日、どうにか夕飯までに元気を取り戻すことができた。夕飯――カメリアさんの作った中華丼――を食べながらテレビを見ていると、公園の蓮の狂い咲きはなんと全国ニュースで取り上げられた。


 喉の痛みも次第に収まって、やるべきことが見えてきた。

 それは、呪いをかけてきた悪魔の、正体を把握することだ。

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