モモ
ある朝起きてくるとカメリアさんはまだ寝ていた。珍しい。カメリアさんはいつもあたしより早起きして朝ごはんを作るのに。しょうがないので台所に立ち、溜まってしまった洗い物をざかざか洗ってから、味噌汁とベーコンエッグを作った。
いい匂いがしたら起きてくるとばかり思っていたけれど、カメリアさんは起きてくる気配もない。そのとき頭をかすめたのは、祖父の死だった。
祖父は病気で亡くなった。長く肺を患って、ある朝起きてこないと思ったら死んでいた。第一発見者はあたしだったはず。
カメリアさんは病気だったと言っていた。
まさか。嫌な予感が加速する。急いでカメリアさんに貸している部屋に向かう。カメリアさんの部屋は静かだ。激しくノックして、
「カメリアさん? 大丈夫? 開けていい?」
と声をかける。
「たすけてくださぁい……」
というカメリアさんの情けない悲鳴が聞こえた。ドアを開けると、カメリアさんは完全に寝静まっているていで、口だけが動いている。
「ちょっと、病気の発作でして……カバンに、花の漬けてある瓶があるはずなんですけど」
あたしは、カメリアさんの小さなカバンを開けた。花の漬けてある瓶……あった。ハーバリウムみたいなきれいなやつでなく、薬として作られた、薄緑に濁ってるやつ。
「これ?」
「そう言われても見えないので分からないです……でもたぶんそれです。それを、スプーンにひと匙、飲ませてもらえませんか」
「う、うん、わかった」
ベッドの脇に置かれた、シックなカップに突っ込んであるスプーンをとる。それにひと匙、その花から作った薬を注ぐ。それをそっと、カメリアさんの口にそそぐ。
「カメリアさん、大丈夫?」
「大丈夫です。すぐ収まりますから……難儀な病気です、ほんとうに」
カメリアさんはやれやれ口調でそう言う。ハラハラしながら様子をみていると、カメリアさんの顔に色が戻ってきた。
ぱちり。
目を開けカメリアさんはむくりと起きる。
「なおったっ!」カメリアさんはそうガッツポーズをすると、薬の瓶のふたを閉めて、あたしに頭を下げた。ありがとう、とそう言い、ため息をつく。
「ね、ねえ、カメリアさんってなんの病気? なにか……いわゆる、心の風邪的なやつ? なんも知らないで一緒に暮らすなんて不安だよ」
「えっと」
カメリアさんは金色の髪をぽりぽりして、それから、
「あじすさんは、悪魔の存在を信じますか?」と、まるっきし新興宗教のおばちゃんが「あなたは神の存在を信じますか?」って言う口調で訊ねてきた。
「まあ、……いるんだろうね、人の手の及ばない存在ってのは」
「その悪魔が、わたしの精神に寄生しているんです」
「あくまがせいしんにきせい」バカっぽいオウム返しをする。カメリアさんは頷くと、長袖の寝間着の袖をめくって見せた。
ちょうど肘のあるところに、光る縫い目が一周している。手首も、というかよく見ると指の関節もそうだ。ぎょっとして言葉を失っていると、
「悪魔が精神に寄生した結果、体をつなぎ合わせている精神がちぎれて、体が関節からバラバラになっちゃうんです」
バラバラ。なかなか恐ろしい表現である。
「さっきの薬は、この縫い目を縫い縮める効果があります。普通の人には猛毒の、魔法の国にしか咲かない桃の花から作った薬で、精神に寄生している悪魔をいっとき黙らせる効果もあります」
「猛毒の桃の花って……青酸カリ?」
「母の作った魔法薬なので、詳しい処方は知らないんですけど、魔法を使えば猛毒から薬効成分を引き出すこともできるんです。絶対に真似しちゃいけないって母に言われてますけどね。魔法使いもしょせん人間ですから」
「はー……あれ? 縫い目が消えてる」
「しじゅう縫い目が見えていたら気持ち悪いじゃないですか。薬が作用して悪魔が黙っている間は縫い目が見えなくなるんです」
カメリアさんははそう言うと、ぐいっと伸びをしてベッドを出た。
「ほら、あじすさん、花卉市場に行く時間じゃないですか」
「……でも、カメリアさんがそんなことになってるのに、そんなカメリアさんをほったらかしにして市場なんていけないよ。きょうは休業!」
「わたしなんてどうだっていいじゃないですか。しょせんは他人……」
「それ最初に言ったのあたしだかんね。他人なのになんでこんなよくしてくれるの、って。で、カメリアさんが『どんな間柄だって最初は他人』って答えたんだよ」
「……そう、そうでしたね」
カメリアさんは、やっとおだやかな笑顔になった。
「じゃあ、朝ごはんにしよう。やばいと思ったらいつでも助けるから、安心してね」
「ハイ。……じゃあ、朝ごはんにしましょう」
階段を下りてダイニングキッチンに向かう。
目玉焼きはすっかり冷めていて、味噌汁もぬるくなっていた。
「後ろに生えてるあの木はなんですか? きれいな花」
カメリアさんは窓から見える裏庭を指さした。桃の木だ。だいぶ散ったが花がついている。
「桃の木だよ。あたしが生まれたとき祖父さんが植えたの。毎年、桃の節句のころに咲くんだ」
あたしはぬるいニラの味噌汁をずるずる食べながら答える。カメリアさんは、
「すてきですね」と答えて、目玉焼きの黄身を潰した。
「わたし、そういう素敵な思い出って、あんまりなくって」
「そーなの? まあ……十四で悪魔に精神を侵されたらそりゃあね……」
「十四から二十六まで寝たきりでしたから。二十六からの二年間は、赤ん坊が育つみたいに、心を取り戻す期間でした」
想像以上に、カメリアさんを侵す悪魔というのは重篤なもののようだ。十二年間寝たきりなんて、多感な少女時代をただただ消耗しただけではないか。
朝ごはんのあと、あたしは帳簿をつけて、それからテープ起こしのアルバイトの続きを始めた。本当は毎晩やっているのだけれど、きょうはフラワーハハキギを開けないと決めたので、ただぼーっとしているのも嫌なのでやることにしたのだ。
正直、フラワーハハキギの稼ぎだけでは食べていけない。レコーダーの再生と巻き戻しをかちかちやりながら、パソコンで文章に起こしていく。郷土史家の講演は、実に退屈である。
一段落ついてペットボトルのお茶を飲んでいると、カメリアさんがおずおずと近寄ってきた。
「あの、母に連絡したら、お家賃はいくら払えばいいか、って訊かれました」
カメリアさんは手に鏡を持っていた。スマホじゃなくても連絡とれるんだ。
「家賃? このへんのアパートの相場っていくらなんだろ……まあ、月三万円くらいでいいよ」
「わあ、嬉しい。それならわたしの母でも払えます」
カメリアさんは鏡を覗き込んだ。あたしもちらっと見るが、どうみてもただの鏡だ。
「三万円でいいって言われた」と、カメリアさんは中学生の女の子みたいな口調で言う。
なにか聞こえているようだが、カメリアさんはふんふんと聞いて、
「いずれわたしが支払えるようになるように、がんばります」
と、笑顔で言った。
「どうやって? 箒が怖いってなると宅急便は無理だよね」
「そうですね。魔法薬なんて人間社会じゃきっと気味悪いですし、なにをしたらいいのかしら……」
「気味が悪いっていうけどさ、カメリアさんの作った薬、どれもめちゃんこ効くよ?」
「そ、そうですか?」カメリアさんは目をぱちくりした。
というわけで、フラワーハハキギのガラス戸に、あたしは貼り紙をした。
「魔法使いが健康相談受け付けます」
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