第3話

 あたりはまっ暗だ。

 何も見えも、聞こえもしない。

 ひょっとしてわたしは死んだのだろうか。

 でもそうなら、まったく意識はないはずだ。もっとも死んだという状態がいったいどういうものか、わかりゃしないけれど・・・・・・。


 こんな体験は前にも一度あった。

 ちょうど五十歳になる前、雪かきをしていた時のことだ。

 積雪は二十センチくらいあり、妻が先にほうきで掃き、そのあとを家から大通りまでほぼ二百メートルの道のりを、わたしはスコップで雪をとりのぞいた。

 大量に汗をかいた。

 厚手のジャンパーを薄いものに着替えただけで、作業続行。

 まもなく、体調が急激に悪化、あやうく心臓が止まりそうになった。

 汗まみれになっていたシャツを取り換えなかったのがいけなかった。

 そのせいで、心臓を冷やした。

 今回は前より雑音が大きく長くつづいたから、たぶん、わたしの身体がどうにかなってしまったのだろう。

 つい最近、おふくろの死をまじかにみた。

 三途の川をガンとともに渡ってしまった。

 死の一カ月前まで自宅療養。

 病名は最後まで本人には知らされず、

 「なんでこんなに息苦しいのやろ」

 と、歩くたびに、彼女は自問自答していた。

 わたしは心臓に持病をかかえていながら、早春の中禅寺湖畔に行った。

 神様のもとに行っても、自分の不注意だ、とあきらめることができそうだ。

 (しかし、こうして今も、言葉をあやつっている、いったい何ものがそうしているのだろう。身体がだめになっても、こころが、たましいがあると世間じゃいわれてきたけれど。ほんとはどうなのか、まったくわからない)

 突然、何ものかがわたしの両わき腹がぎゅっとつかんだ。

 ふわりと持ち上げられ、空に向かって、ぐんぐん上昇していく。

 (りゅうのわるぐちを言ったんだ。ひょっとしてそいつにつかまれたんじゃ?それにしても爪がくいこんでこない。ちょっとばかりチクチクするだけだ)

 ほんの数秒、いやもっと長い時間が経過しただろうか。

 そいつがポーンとわたしをほうり投げた。

 まるであそんでいるみたいだ。

 わたしの身体は、中空で、ゴムまりのようにくるくるまわった。

 こいつ、ふざけやがって、と腹が立ってしょうがない。

 不意に、どこかにドサッと落ちた。

 着地したところがやわらかかったのか、どこも痛まない。

 だが、目まいがひどい。

 生前メニエルの気があったのを思い出し、しばらく安静にしていることにした。

 次第にあたりが明るくなってきたが、曇っているせいか、日差しがにぶい。

 地獄の空も、生前、大いに世話になった空とあまり変わらないのがうれしい。

 ふう、ふうっ、ふう、ふうっ。

 奇妙な音が、不意に耳にとどいた。

 わたしは首だけまわして、音のするほうを見る。

 黒いトタンぶきの、小さな木造家屋が見えた。

 黒っぽい煙突から、白い煙がもくもくあがっている。

 (どうやら、義理の母の姉の家らしい。それにしても、だ、さっきの音は。いったい何なんだろう)

 わたしは、大通りから二メートルくらい離れた小高い地点にいた。

 わきに刈り払い機が置かれている。

 高台からのぞきこむようにして、音のありかを探した。

 見つけたとたん、あっと声をあげそうになり、わたしは口を両手でおさえた。

 ひんやりしたものが背筋を走る。

 巨大な月の輪グマが彼女の家のまわりを徘徊していたのだ。

 大通りに面した家の軒先にスノウタイヤをはいた一台の軽乗用車が見える。

 (これじゃおばさんがあぶない。あの熊をなんとか追いはらわなけりゃ。そうはいってもあまりにもでかい)

 危険をかえりみず、大声を出そうとするのだが、どうしたことか声が出ない。

 口がパクパクするばかりだ。

 気配をかぎつけたのか、不意に熊が立ちどまり、ぎろりと高台を見すえた。

 とにかく、なんとかしなくてはとわたしは焦った。

 突然、バサッという音が家の方角でした。

 誰かが家の戸を開けたらしく、枯れ葉を踏む音が、熊のもとに近づいてくる。

 身体が大きいわりに気が小さいようで、その熊は人の足音におじけずき、巨体をひるがえし、男体山の奥にのそりのそりと歩いて行った。


 

 

 

 

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