第37話 離れの机

「嘘んこの犬?」


 興味を引いたらしく、お兄さんが聞いて来た。


「本物そっくりにやってあげる。だからお膝に乗せたり毛を梳かしたり、いっぱいいっぱい可愛がってね」


 おどけた顔で舌を垂らし、肩の高さに腕を引き付け、手は卵を掴むように軽く握る。

 そして甘えるように、


「くぅ~ん」


 と啼いた。


「上手い上手い。そっくりだ」


 とっても愉快そうに笑う。さっきの顔とは別人に見えた。


「お兄さん。元気出た?」


「ああ、ありがとう。少しは気が紛れたよ」



「ねーねー。お兄さんのお家どこ? この近く?」


「ああ。直ぐそこ。あそこに見えるブロック塀の家さ」


 結構広い。なんか軟石の蔵が幾つも見える。



「広いね」


「うちは造り酒屋だからね。仕込みの蔵が幾つかあるんだ」


「へー」


「ちょんまげ結ってる昔から代々酒屋を遣っているけれど、死んだ僕のお爺さんがお勉強が大好きでね。

 酒屋に学問は要らぬと言うひいお爺さんの反対を押し切る為、師範学校って判るかな?

 学校の先生に成る為の学校に行ったんだよ。

 昔の先生は今よりもっと尊敬される仕事だったんで、学費が要らないってこともあってひいお爺さんが折れたんだ。

 以来、代々家業の酒屋の傍ら先生を遣って居るんだ。僕のお父さんもお母さんも学校の先生なんだ」


「へー。じゃあ、お兄さんも先生になるの?」


「ああ。昔の師範学校は今、教育大学って大学になって居てね。僕が受けるのはそこなんだ」


 お爺さんもお父さんもお母さんも、皆学校の先生。そりゃあ先生になる学校へ行くって流れは自然だ。



「お兄さん」


「ん?」


「お父さんもお母さんも学校の先生なら、お家は留守だよね? 今アドと遊びに行っていい?」


 お兄さんは少し考えて、


「留守だし、離れだし。……今なら大丈夫か。来るかい?」


「うん!」


 こうしてアドのお陰で、僕はお兄さんと知り合った。



 裏門の勝手口から入ると、母屋から電信柱と電信柱の間二つ分左に離れがある。

 母屋と離れは細長い廊下で繋がっていた。


「ここだよ。小さいけれど水道も台所もお手洗いもある」


 入ると土間の台所と四畳半と六畳の部屋。土間は離れの玄関を兼ねていた。


「アドはここでストップ!」


 そう言われると、利口なアドは土間で止まり、畳の上には上がって来ない。



 台所には、タイル張りだけど昔ながらの竈があった。けれども普段は使われていないらしく蜘蛛の巣が張っている。

 何かの時には使うんだろうけれど、普段使いはプロパンガスだ。新型の抓みを回すと火が付く物ではなく、マッチで火を着けるコンロが二つ。


 台所の棚には、小さなアルミの手鍋とフライパン。それに真鍮のやかんが一つ。

 食べ物らしき物は茶筒三本とインスタントラーメンが十袋。それと食パンが一斤にいちごジャムの瓶が置かれていた。

 勉強部屋らしい四畳半には木の机と椅子。ガラス窓を左にして蛍光灯スタンドと本立ての置かれた木の机。

 椅子には座布団が布かれている。


 僕には読めない漢字で書かれた表紙のご本が本縦に並び、お勉強中のご本のページが開かれていた。



「サイン・コサイン? お兄さん、これ算数? 僕も6年生に成ったら解るのかな?」


「難しい言葉を良く知ってるね。でも中学からは算数じゃなくて数学って言うんだ」


「え? でも算数でしょ? ちんぷんかんぷんな歌だけど、みんなの歌で算数って言ってたよ」


 するとお兄さんは大笑い。


「ははははは。算数チャチャチャかい? あれが算数なら、何人小学校で落第するか判らないよ」


「そうなんの?」


「あれは高校になってやっと習う奴だよ。それにしても三角関数が算数ねぇ。確かに根本的には、あれも算数には違いない。うん、間違いでは無いよ」


 笑ってからお兄さん。アドに甘えられて良くなった顔色が、ますます良くなって来た。



「時々だけど。内緒でアドを連れてこようか?」


 僕がそう言った時。


「坊ちゃま。お三時をお持ちしました」


 母屋の方からお手伝いさんが遣って来た。

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