第36話 ブランコのおじさん

 アドに引っ張られるまま、ブランコに近付いた僕は、


「おじさん。どうしたの?」


 と声を掛けた。

 だって何だか様子がおかしかったんだもん。


「大丈夫? 苦しいの? 救急車かお巡りさん呼ぶ?」


 幼稚園でも学校でも。知らない人から声掛けられてチョコレートあげるからと誘われても、付いて言っちゃいけません。と言われて来た。

 僕が小さい頃に、チョコレートに釣られた子が誘拐された事件があったからだ。

 ちょっと前までチョコレートは、今より高級なお菓子だったから。そんなんでも子供は付いて行ったんだ。


 だけど、困って居そうな大人に声を掛けてはいけません。などとは一度だって言われたことが無いんだよ。


「おじさん大丈夫?」


 重ねて僕が聞いた時。おじさんは、


「酷いなぁ。僕はまだ二十歳前だよ」


 と苦笑い。



「君。その仔はアドだね」


「うん。でも、どうして知ってるの?」


「僕が六年生の頃。今から八年前だけれど、仔犬だったアドが良くこの公園に来ていたんだ。

 その頃は今より野良犬が沢山居たし、犬だけでお散歩していても、目くじら立てる人はいなかったんだよ」


「八年前って……。六歳で一年生だから……六足す六で十二。それに八足して二十。おじさん二十歳?」


「ははは。六年生で六を足しちゃ拙いだろう。その理屈だと一年生で一を足しているよ」


「あ。そうか」


 失敗失敗。


「でもう~ん。君から見れば一回り上はおじさんになっちゃうか」


「お兄さん。って呼んだ方がいいのかな?」


「ああ。そっちで頼むよ」


「お兄さん。まだ一時半だよ。学校は? お仕事は?」


 するとお兄さんは頭を掻いて、


「浪人生さ。いつもだったら入れる大学だったんだけどね」


「うん」


「去年、東大が入学試験中止になっちゃってさ。東大受けるような優秀な人が沢山押し掛けて来たんだ。

 野球で言えば、小学生のチームに中学生の選手が押しかけて来たようなものでね。

 それで去年は落ちちゃったんだ」


 判りやすい喩えだ。けど、でも待って、


「今年は?」


 普通に戻って居る筈。


「高校出て直ぐの受験より、浪人してからの受験の方が厄介なんだ。

 学校の先生が教えてくれたことを、全部自分で遣らなくちゃいけないからね。

 本当は上京して予備校へ通いたかったけれど。それには親が反対してね。仕方なく家で勉強している訳さ。

 離れで一人でやってるとね。段々気が滅入って来て、気晴らしをしないと勉強がさっぽり捗らなくなるんだよ」

 お兄さんの足元に飛びついてじゃれるアド。


「犬は三日飼うと恩を忘れないって言うけれど。お前まだ僕の事覚えていたんだね」


 病人の顔から、少しだけ顔色が良くなったお兄さん。


「何時まで経ってもお前は変わらないなぁ。遊んでやりたいけど昔みたいに身体が軽くないよ」


「わふ?」


 不意に抱き上げられても、大人しくしているアド。


「ねぇお兄さん。犬、好きなの?」


「ああ。だけどうちは、親父もおふくろも犬が苦手でね。一度も飼ったことが無いんだ」


 溜息を漏らすお兄さん。


「理由が只の好き嫌いじゃなくて、抜け毛とかで喘息引き起こすものだから仕方ない。

 毛の無い犬も居る事には居るんだけれど。まだ日本じゃ手に入らないからね」


 どうしようもないと肩を竦める。



「本物の犬じゃないと駄目なの?」


 僕が聞いてみると、


「本物って……まるで偽物の犬がいるみたいだね」


 くすっと僕は笑って、こう言った。


「嘘んこの犬でいいなら、僕がわんちゃんしてあげよっか?」

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