第二章 Etre Le Vent Qui Detruit Le Mal(悪を滅ぼす風になれ)
愛洲移香斎 -ノワールムティエ島の日本人-
ノワールムティエ島にある静かな海沿いのレストランで、二人の男性が言い争っていた。
一人は、日本人シェフだ。名をイコという。
もう一人は、商人風の紳士である。手や首を、大量の装飾品で飾っていた。
「何度も言わせるな。拙者はもう剣を振らん」
無礼な客に向かって、イコは睨みを利かせる。
「そう言わずに、報酬はたんまりとやろう」
目の前にいる中年の紳士が、両腕をせわしなく動かす。両手にびっしりとはめた指輪を見せびらかすように。これまで二度ほど店に来た。なんでも、「邪魔な冒険者を斬ってくれ」という。
イコは元々、日本人の剣豪である。この店を任された当初のこと。前のシェフに詰め寄った借金取りを、イコは軽々と追い払った。
その噂を、このタヌキは耳にしたのだろう。
「もし断れば、このレストランの経営も難しくなるだろう」
「この店に借金なんぞ、もうござらん」
イコの料理が受けて、店の売り上げはうなぎ登りとなった。もう金に苦労することはない。
「今はなくても、どうとでもできるのだよ!」
「お主ら、どこまで腐っておる!」
辛抱が限界を迎えた。そのときである。
「よぉ、ずいぶん物騒な話をしているじゃねえか」
鼻の下にヒゲをたずさえた筋肉質の男が、イカの干物をくわえながら紳士に近づいてくる。
「バッ、バスコ・ダ・ガマ……」
細マッチョ男の正体を知る紳士は、石像のように固くなる。
「面白そうな話をしてるじゃねえか。ちょっとポルトガルも一枚噛ませろや」
なんのためらいもなく、ガマは紳士の首に腕を回す。
「あのな、このレストランで魚介を卸しているのはポルトガルだ。この店を潰すってんなら、ポルトガルが黙っちゃいないぜ」
「退け! 退け!」
思わぬ邪魔が入り、紳士は配下と共に逃げていった。
「ローザ、塩まけ!」と、娘に告げる。
トコトコと靴音を鳴らし、ローザが店の外に出た。小脇に抱えたツボに手を突っ込み、店の入り口に塩をまく。ナメクジを溶かすかのようにチョロチョロとだが。
「よっ」と、細マッチョがイコに白い歯を見せた。
「おお、バスコ。ゆっくりしていけ」
「あなた、何があったの?」
妻のマチルドが、買い出しから帰ってきた。ガマに軽く挨拶をして、ローザの手を引く。
このレストランは元々、彼女の父親が所有していた。
「なんでもござらん」
「あなたがフランスに流れ着いたことと、関係が?」
「分からぬ。だが、お主たちに面倒はかけぬ。安心なされ」
「わたしたち、あなたのことを迷惑だなんて思っていないから。これからもずっと。何かあったら、相談してちょうだい。一人で抱え込むのは、よくないわ」
「かたじけない」
イコこと
だが、フランスの波は、イコにとって忘れられない事故を思い起こさせた。
西暦一四九八年に起きた、明応地震のことを。
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