グラスの氷が融けるまで
「……わたしとヨウコと、コウとコヨミは。本当に仲が良かった。だからいつも4人一緒だった。小学校、一年生の頃。何も悩みなんてなかった、ただただ毎日が楽しかった。あの幼い日のこと」
静かすぎるいつものカフェで。
ゆっくりとした、おもむろな口調で。カイリは続けてくれる。
「10年前の夏の日。学校の解放プールの帰り道。わたしたちはいつものように4人で帰っていた。でもわたしは忘れ物をして。一度学校に引き返して、それから3人を追いかけていた。そしてわたしがそこに着いた時、酷いことになっていた。車が歩道に突っ込んでいたの」
おそらく、それが例の事故なのだろう。今、ヨウコに取り憑いている部長が、庇ってくれたというあの事故。まさか、こんなカタチで生前の部長と関わりがあったなんて。
「その車はぐちゃぐちゃになっていた。近くに血塗れの人が何人か倒れていた。わたしにはすぐにわかった。あれはヨウコとコヨミとコウだ、って」
「おれは憶えてない。そんな事故に遭った記憶はない」
ライムソーダに口をつけて。呼吸を整えるようにするカイリ。カイリの表情はいつものそれ。事務的なまでに冷たい顔。
自分が冷静じゃないからだろうか。今はそのカイリの仕草がありがたかった。
ふう。そんな風に息をひとつ吐くと、カイリはまた続けた。
「コウは泣きじゃくっていた。ヨウコとコヨミの傍で。きっと辛かったんだよ。だから、全部を忘れたんだと思う」
「それから、どうなった?」
「事故で怪我したみんなは救急車で運ばれていった。コウは軽症だったみたいだけど、結論を言うと2人が亡くなった。コヨミと、知らない男の人だった。これは後で知ったことだけど、その男の人は3人を守ろうとして亡くなった警察官だって聞いた」
黙ってカイリの言葉を聞く。淀みなく続けるカイリに、おれは聞き入ることしかできないでいた。
「そして。その1ヶ月後、ヨウコは奇跡的に回復した。わたしが知っているのはそこまで。わたしはそこで、転校してしまったから」
「カイリ、その後に転校してたのか……? どうしておれは、それを忘れていたんだろう。ヨウコのことは憶えているのに」
「きっとコウは、辛いことを全部忘れようとしたんだよ。きっと辛すぎて、受け入れられなくて、記憶を消してしまったんだ。何故かわからないけど、その事故の記憶と一緒に、わたしのことも忘れてしまったんじゃないのかな。わたしだけ、無事だったから」
事故の記憶は抜け落ちている。何故かおれの記憶では、コヨミもカイリも初めから居なくて。そんな事故も当然起こらなくて。ただヨウコと小学校時代を過ごしたという、そんな都合のいい記憶しか残っていないのだ。
「仕方ない事だと、わたしは思う。わたしは事故に遭っていない。それでも仲の良い友達が血塗れで倒れていたのには、とてもショックを受けた。それから、わたしは上手く感情が出せなくなった。親はそんなわたしを見て、転校させてくれたけど。効果は全然、なかったから」
そこまで説明されても、やっぱり記憶は戻ってこない。だけど。どうしておれはカイリと同じ小学校だったかも知れないと、そう思ったのだろう。
朧げながらあるのだろうか、あの時の記憶が。記憶に無理矢理フタをしているだけで。
「それから。わたしは別の街で過ごして、そしてこの高校に入学した。そうしたら、そこにはコウとヨウコがいた。わたしは本当に驚いたし、そしてとても嬉しかった。でもね。コウもヨウコも、わたしを憶えていなかった。それどころか、ヨウコは別人になっていた」
「別人、だって?」
「わたしの知っているヨウコは、あんなに楽しそうに笑う子じゃなかったから。今のわたしが、言えたことじゃないけどね。でももしかしたら、ヨウコが成長したのかも知れない。そうも思ったけど、やっぱりそれは違うみたいだった」
「それは、どういう……」
「時々ヨウコはおかしくなる。ただでさえ別人みたいなのに、時折さらに別人になる。まるで誰かに、取り憑かれたように。コウは何か、知ってるんじゃないの?」
……おれだけじゃなかったのか。カイリにもヨウコの状態は、少しは知られていたのか。
でもだからと言って。ヨウコが幽霊に憑かれやすい体質だと説明したとしても。それをカイリに信じてもらえるのかどうか、わからない。
なんて答えればいいのだろう。カイリはヨウコの一番の親友だ。おれだってカイリには全幅の信頼を寄せている。だから、カイリに相談すれば助けになってくれるに違いない。
だとしても。そうだとしても。
「それは……」
言葉に詰まった。カイリに今のヨウコの状況を言うべきか、否か。言えば必ず、カイリは力になってくれるだろう。だけど、今の環境を変えるのも正直怖い。それに、カイリには知らないままでいてほしい。今までのように、自然とヨウコに接してほしい。カイリとヨウコは一番の親友だからこそだ。
結局おれは、その次のセリフが言えなかった。喉まで出かかったその言葉を、飲み込んでしまったのだ。
「……言えないのなら、別にいい。無理には訊かない。だけど、いつかわたしにも教えて欲しい。今日、わたしがこうして説明したように」
ふっと、少しだけ笑ったカイリ。その笑顔が言わんとすることは何なのだろう。
わからない。今のおれには、何もわからない。
「ライムソーダ、ご馳走さま。美味しかったよ。コウと久し振りに、2人きりで飲むライムソーダはね。それじゃ、また部室で」
そう言い残し席を立つカイリ。いつの間にか、ライムソーダは空になっていた。
カラリと音を立ててグラスの氷が崩れる。それと一緒に、なにかが決定的に壊れてしまう。そんな気がした。
だからおれは、そのまま席に座っていることしかできなかった。何も壊れないように静かにして。グラスの氷が融けるまで、そのまま一歩も動かないままで。
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