第一章 推論風発
最寄駅南口の中央広場は、地元では定番の待ち合わせスポットだが、二つの高校と一つの大学の最寄りである故か、同時に恰好のナンパスポットでもある。夏の長期休暇中かつ絶好の行楽日和である今日、出会いを求める学生たちの浮かれた気分は最高潮に達していた。
「ねえ君、一人?」
「友達待ってるの?」
「よかったら一緒にさあ」
少女漫画における王道の中の王道と思しきナンパの常套句を並べ立てる大学生の男二人に、一人の少女が挟まれている。絡まれているのはただの女子高生ではない。すれ違う者の目を惹きつけて離さない絶世の美少女だ。毛先のウェーブがかった、柔らかそうな薄茶の長い髪、斜めに切り揃えられたスタイリッシュな前髪が、その美しい顔立ちを程よく可愛らしく見せている。色白の小さな顔に、一点だけ色付く艶やかな薄紅の唇、宝石のように透き通った大きな瞳を守るように伏せられた長い睫毛は、これでもかというほどに儚げで、まさに美少女という言葉の具現化のようだった。
「ちょっと、その子困ってるじゃないですか」
声をかけた少年はおそらく高校生だろう。健康的に日焼けした肌から、屋外で活動をする運動部に所属していることが伺える。
「大丈夫? 誰かと待ち合わせ?」
正義感のある行動に見えたが、彼女の方を向き直して明らかな気取った声でそう聞いた姿からして、結局は彼も烏丸に話しかける事が目的なのが見え見えである。
慣れないヒールサンダルに靴擦れを起こしていた姫ちゃんを広場に残して、コンビニに手土産用のお菓子を買いに行き、戻って来ると彼女は知らない男数名に囲まれていた。眺めていないで早く助けに行けと思われるかも知らないが、この状況で下手に出て行けば姫ちゃんの機嫌を損ないかねないので、仕方なく機会を伺うことにする。
ナンパ男達と少年が何か言い合いを始めたあたりで、烏丸は逸らしていた顔を上げて彼等をジッと見つめた。途端に彼等の視線が一点に集まる。
しかし、当の本人の口から紡がれた言葉は、その場の空気を一瞬で凍りつかせる。
「くすっ」
鈴の音のような上品で可愛らしい笑い声が響く。可愛らしいその笑顔に、哀れな男たちは何の可能性を期待したのか、だらしなく頬を緩めた。
「その程度で、この私の隣に立てるとでも? 笑わせないで」
しかしその口から飛び出したのは言わずもがな、烏丸姫お得意の鋭利な罵声だ。明らかに自分より背の高い目の前の男を見下して、高圧的な態度で言い放った言葉に男達は揃って目を丸くした。
烏丸姫はこういった輩に声をかけられることには慣れきっていた。簡単に遇らう方法も心得ている。よし今だ。一気に冷え込んだその場の空気を敢えて読まずに、明るい声で割り込みに入った。
「姫ちゃん! ごめんね。思ったよりもレジが混んでて」
「あ? な、なんだ、彼氏待ってたの?」
「いいえ、彼氏じゃないです」
赤の他人といえど、姫ちゃんに不快な思いをさせまいと発した辰巳の言葉は、どちらにしろ彼女のお気に召さなかったようで、その整った顔を盛大に蹙めた。不機嫌そうな表情すらも、最早芸術的な美しさを醸し出す。
男の一人が辰巳の手元を見て、小馬鹿にするように薄笑いを浮かべた。
「ああ、パシリか。こんなのと遊んでないで、俺らと来ない?」
「こっちの方が楽しいって」
多分、彼等は僕を少し小突けばビビって逃げて行くような気弱な奴だと思い込んでいる。姫ちゃんの反論を求める視線が痛い。直接の命令は勿論迷わず聞くが、彼女の無言の命令は僕の中では更に重要性が高い。
「そっちの方が楽しいかどうかは知らないですけど」
低姿勢が、イコール弱さとは限らないということを教えてやれ。ナンパ男達ではなく僕を睨む姫ちゃんの目がそう語りかけていた。
「僕はパシリじゃないですよ」
残念ながら、今日の僕たちは虫の居所が悪い。ここで足止めを食らう訳にはいかないし、彼女を連れて行かせる訳にはもっといかない。
「行かせません。他を当たってください」
目つきの悪さには定評のある僕が睨みつけるようにそう言うと、男は怪訝な顔をしたまま固まった。怯み切った彼等の間抜けな様子に満足したのか、姫ちゃんがスタスタと歩き始めた。靴擦れは大丈夫なのかと心配になったが、少し歩いて住宅街に差し掛かると違和感のある歩き方になったので、僕も合わせて歩幅を縮める。相変わらずプライドが高いというか、負けず嫌いというか。
「あ、お菓子、これで良かったかな。ええと、ワッフルと、なんかチョコレートっぽいやつ」
「なんでもいいでしょ」
袋の中に入っているのは、コンビニで販売していた洋菓子の詰め合わせだ。僕と彼女との連名で一つを購入する事になったので、少々高額な品物を手に入れて来た。出して確認しようとしたが、しっかりと包装されていることを思い出して中身を口で説明しようとするが、それは不毛だと姫ちゃんに諌められた。
「それより、もっと他に考えるべきことがある」
「うん」
難しい顔になった彼女につられて、空元気めいていた僕の気持ちも沈んだ。
一学期の最終日だった昨日、猪木先輩が部室で首を吊った状態で発見された。終業式の後、昼食を終えて部室に向かう途中、部長の尋常ではない雄叫びのような悲鳴が聞こえて、ミス研の部員全員でパニック状態に陥った。
昨日までいつも通りだった人が死んだように動かない。人形のように力なくぶら下がって青白い顔をしている。僕は情けない事に腰を抜かしてしまい、手足が動かなかった。姫ちゃんのその時の様子すら覚えていないくらいに混乱していた。僕たちの悲鳴を聞いて駆けつけた先生達によって、救急車や警察が呼ばれ、迅速な対応があったお陰か、不幸中の幸いにも一命はとりとめたと昨夜連絡が回ってきた。現実では、テレビや小説で見るように、すぐに彼女を降ろしたり然るべきところに連絡したり、そんな余裕はないのだと思い知らされた。現実味のない光景を目の当たりにして、流れに身を任せて解散した僕たちを、今日になって牛月先輩が自宅に呼び集めた。何を意図してのことなのか、昨日の今日で猪木先輩の事件について以外に話すことなどないだろうが。第一発見者は牛月先輩だった。よりにもよって猪木先輩の恋人である、牛月先輩だったのだ。昨日の様子からして、相当のショックを受けているに違いないが、何故部員を招集する必要があったのか。考え込むふりをする反面、僕は心の底ではその理由に予想がついていた。
蝉が耳障りな声を上げて鳴いている。嫌な汗が肌を伝う夏休み初日、部長の家へ向かう僕と姫ちゃんの間に会話はほとんど無かった。
駅から徒歩五分、短いはずの道のりが暑さによる倦怠感で長々と感じて、やっと辿り着いた部長の家は、辺り犇めく住宅街の中でも一際広大な敷地を誇る立派な日本家屋だった。思わず二度見した木製の表札には、間違いなく牛月の文字がある。そう多い苗字ではないので、人違いということもなさそうだ。
和風建築に合わせてあまり機械的ではない見た目のインターホンを押すと、直ぐに牛月先輩が門を開けて出迎えてくれた。
日当たりの良い庭へ足を踏み入れると、縦格子に漆喰塗りの虫籠窓が趣のある母屋がすぐ目の前に構えていた。鹿威しの音や池の鯉が跳ねる音、ご家族の趣味だろうか、並べられた松の盆栽は詳しくない者でも見事な代物である事が分かる。手入れの行き届いた庭の敷石を踏んで、玄関ではなく母屋の縁側へ通された。
「随分大きなお宅ですね。何人家族なんですか?」
「三人家族、俺とじいちゃんとばあちゃん」
「ご両親は?」
「仕事で海外」
「海外、凄いですね」
部長に抱いていたイメージを悉く崩され、目を剥いた僕達を意にも介さず、牛月は縁の下に並べられた靴を横目で見る。
「そうか? それよりお前らで最後だ。麦茶でも持ってくるから座って待ってろ」
つられて目線をやると、そこには既に大きさの違う二足の靴が揃えられていた。
目の前の襖を開けると、十数畳程の広い和室の茶の間で犬山と兎林が寛いでいた。滅多に見る機会のないラフな私服姿が随分と新鮮に思えた。クーラーで温度の保たれた室内は、蒸し暑い外とは別世界のようだ。
「よお、一年ズ、相変わらず仲良しだな」
「いつも一緒だね」
用意された茶菓子をつまむ犬山と兎林が片手を上げて出迎える。目の前の机に置かれたグラスの中身が空だったので、割と早くから到着していたことが伺えた。待ち合わせの時間は十時、現在の時刻は九時五十分、ハプニングがあった割には余裕を持って着けたと思う。
「こんにちは」
「別にいつも一緒にいるわけじゃないです」
生き返るような思いで僕と姫ちゃんは隣り合ってそれぞれ座布団に座る。そこへ牛月が戻ってきたことにより五人で一つの四角い卓袱台を囲む形になった。袖に余裕のある赤いパーカーの裾を捲って、犬山は爪先が汚れなように慎重にぺりりと羊羹の包装紙を剥いていく。
「揃ったね。一応」
犬山の言葉に、保たれていたいつも通りは容易く皮を剥がれた。急に周りの酸素が減ってしまったような重苦しい感覚に襲われる。
その空気を身に纏うようにして、牛月が懐から一枚の小さな紙を取り出し、机の真ん中に置いた。
『私を殺したのは誰でしょう』
見覚えのある物騒な文章が紡がれたカードに、全員が驚きの声を上げた。
「な、盗ってきたんですか?」
「流石に現場の物を移動しちゃマズイですよ」
「いや、これは俺が書いた。これが分かるってことは、全員見たな? あれは間違いなく猪木の字だった」
滅多にない牛月部長の真面目な声に、いつも賑やかなミス研の面々も口を挟めない。
「察してると思うけど、今日は猪木の話をするために集まってもらった。昨日連絡した通り、猪木は一命を取り留めた。幸い生徒の中での目撃者は俺たちだけだ。学校はこの件を公にする気は無いらしい。今のところ警察は、猪木の自殺未遂との見解らしい」
「俺と部長は病院まで付き添ったから、警察の人に色々聞かれた。他の人にも口外しないでくれと伝えておくようにって」
便乗して、兎林が昨日の事件後の出来事の説明に補足を加えた。
「色々って、何をですか?」
「関連しそうな人間関係とか、事件前後の様子とか、特に何も答えられなかったけど」
部長は真剣な表情を崩さず、まだ手をつけていない自分のグラスを握りながら言う。
「俺は、猪木は自殺じゃないと思ってる。あいつはそんなことする奴じゃない」
「俺もそう思う」
兎林先輩の力強い頷きに、僕も、正面に座っている犬山先輩も眉を顰めて口を噤んだが、隣にいた姫ちゃんだけは持ち前の気丈さを発揮して発言した。
「なら、誰かが自殺に見せかけて猪木先輩を殺そうとしたと、部長はそうおっしゃるんですね?」
猪木先輩が殺されかけた。それはつまり、殺そうとした人間がいるという事だ。
クーラーの効いた室内にも関わらず、正座した足の上で握り締めた手が汗ばんで気持ちが悪い。
「昨日、猪木先輩を発見した時、部室の鍵は閉まっていました。二つある鍵の内、一つは現場の机の上に、もう一つは職員室のロッカーの中にあったそうです。部室の鍵の入ったロッカーの暗証番号を知っているのは部員だけです。それが、どういう意味か分かって言ってるんですか?」
部室の鍵を猪木が内側から閉めていた場合、何も不自然はない。しかし、もし猪木ではなく他の人間が外から鍵を閉め、職員室のロッカーに戻していた場合、それをした人間は限られる。
此方ヶ丘高校では、部活で使う部屋や準備室、教室など全ての部屋の鍵が、職員室内に設置された小分けのロッカーに収納され、それぞれの暗証番号は毎年変更するルールがある。どの部活も番号は極少数の関係者にしか知らせておらず、ミス研に至っては部員のみで鍵を管理している為、顧問ですら番号を知らない。(部設立の際に名前だけお借りしたお飾りの顧問だ。問題さえ起こさなければ他は任せると言われている。)
彼女の言葉の意味を一瞬で察した僕等は、言い様のない寒気に襲われて顔を蒼褪めさせた。
「それ、僕たちの中に」
「違う。もう一人いるんだ。俺たち以外に、ロッカーの番号を知っていたかもしれない人間が」
震える声で言おうとした言葉を遮って、兎林先輩が首を振った。
「まさか、先生達の中に犯人がいるだなんて言いませんよね」
教員は職員室のどこかにあるマスターキーを使えば、おそらく誰でもどのロッカーでも開くことが出来たはずだ。流石に有り得て欲しくない可能性の話だが、部員の中に犯人がいるなどという可能性よりは幾分かマシだ。
「部長、いいですか?」
兎林が牛月へアイコンタクトと共に声をかけ、何らかの了承を得る。
「ああ、ただその前に、お前らに伝えたいことがある。今から、俺は犯人探しをする。猪木は自殺ではないと断定して、捜査をする」
言葉を失うのは今日で何度目だろう。心臓が負荷に耐えかねて麻痺してしまいそうだ。
「呆れた」
シンとしたその場に、溜息交じりの冷たい声が響く。強い侮蔑を含むその声に、僕は焦って彼女の名を呼んで制止しようとしたが、盛大に顰められた眉元と牛月部長から目を逸らさないその様子見るに、徒労に終わりそうな予感がしたので思い留まった。
「あんたのミステリーマニアにもついていけませんよ。これは実際に起こった事件なんですよ? 不謹慎にも程があります。自分の彼女が死にかけたっていうのに、探偵ごっこ? 猪木先輩が可哀想です。最低です。見損ないました」
彼女の性格を知り尽くした僕の予感は外れる事なく、冷静に昂ぶった怒りを貯蓄していた彼女は普段よりも饒舌に部長を罵った。決してヒステリックではないが、事実と主観を上手く交えた彼女の主張は着実に相手の心を削り取る。
いつもの部長なら、ここで感情的になって喧嘩になる姿が目に見えていたので、兎林先輩と僕は思わず立ち上がって諌めようとした。しかしそこに居たのは、いつもの部長ではなかったのだ。
「烏丸、聞いてくれ。俺はこれを猪木の遺書だとは思っていない」
そう訴えかける彼の瞳に見え隠れしている感情は一体なんなのだろう。悲しみにしてはあまりにも深く、怒りにしては落ち着き過ぎている。何かを責めているようにも、後悔しているようにも見える不安定な部長の様子に僕は何も口を挟めなかった。
この日常と乖離した雰囲気の面々の中で、姫ちゃんも混乱しているのかもしれない。彼女は引くに引けない面持ちで、わざとらしく嘲笑した。
「そりゃあ、自殺じゃないって話ならそうなりますよね」
「え? じゃあ、これは何?」
明らかに猪木先輩によって書かれた例のメッセージが、遺書でないとすれば一体なんなのだろう。そもそもこれは誰に向けて語られた言葉なのか。考えれば考えるほど疑問点は増えるばかりだったが、議題さえ出れば、普段から討論会を行っているミス研の部員たちは、条件反射のように自然と意見を出し始める。
「誰かが自殺に見せかける為にした工作とか。ミステリーの定石って感じで、あんまり現実味がないけど」
顎に手を当てて唸る兎林先輩は、あくまで犯人がいるという前提で考えているようだ。部長に言いくるめられたというわけではなさそうだが、何か他に理由がありそうにも見える。
「でもそれって、結局遺書。偽物でも本物でも、こんな文章にはしない」
犬山先輩は今のところ、自殺と他殺どちらにも針は触れていない中立的な考え方のようだが、兎林先輩の意見に合わせて行動しそうだ。
「確かに。遺書なら、もっと分かりやすく、自殺の理由とか、遺族への言葉とかってイメージですよね」
僕は姫ちゃんと同じく自殺の線を推したいのだが、遺書の存在が話をややこしくしている。部長と兎林先輩が警察の調べを疑ってまで、僕たちの手で捜査をしようとする理由もこの遺書紛いのカードにあるようだ。
一呼吸置いて、牛月が厳かに告げた。
「これは、猪木のダイイングメッセージだと思う。猪木は脅されて無理やり首をつらされた」
「そんな、非現実的です」
「そうでもなければ、この紙の説明がつかない。俺は、猪木が、俺たちに真実を知って欲しがっているような、そんな気がしてならない」
普段通りとは程遠い、歯切れの悪い牛月の言葉に、やはり今回の件に一番動揺しているのは彼なのだと知らしめられた。
誰かに語りかけるような口調のカードが、僕たちへ向けられた救命のサインだったとすれば、違和感溢れる遺書というよりも納得はいく。
普通の人間が見ればただの遺書、しかしミス研の人間が違和感を覚えてその探究心を発揮するには十分な材料であり、猪木先輩がそれを狙ったとしてもおかしくはない。何より、部長の性格をよく知っている彼女だからこそ、こんな不可思議な方法で助けを求めたのかもしれない。
状況を見れば、警察ですら猪木先輩の自殺の可能性を推す、それなのに部長達は猪木先輩を信じている。何が正しくて、何が間違っているのか。一体僕はどうすれば良いのか。誰の意見に賛成すれば良いのか。混乱に混乱を重ね、判断能力が乏しくなり始める。
「私は、猪木先輩の自殺の可能性が高いと思います」
そんな時、また彼女の強い意志を持った声が響いた。
*****
目の前が真っ暗になり、俺の世界から音が遮断された。背中にへばり付いて震えている犬山の体温だけが、俺の正気を保たせていた。竦む足を後退させると床に散らばるガラスの破片がパリ、と音を立てて更に細かく砕けた。
部室から聞こえたガラスの割れる音と、直後に響いた牛月部長の悲痛な叫び声から、只事でない何かが起こったのだと身構えたが、それでもまさかつい先程移動教室で同じ授業を受けたばかりの猪木が動かぬ姿になっていると予想が出来るはずもない。
教員が次々に駆けつけると、部屋に一歩踏み入れた所から動けない俺たちを外に追い出して救急車を呼んだり、他の先生方に連絡を取ったりと慌ただしく動き出した。こういう時、大人と子供の差を見せつけられる。
呆然としたままの辰巳と烏丸を端に寄らせ、犬山に二人を任せた後、部長の方を振り返って固まった。人は絶望すると、こんな表情を浮かべるのだなと、我ながら呑気な思考回路だった。
いつも声ばかりデカくて、馬鹿丸出しで、コミュニュケーション能力と裏表のない天真爛漫な性格が目立つ牛月の、感情の無い悲壮な表情がここまで自分を不安にさせるとは思っていなかった。
副部長はいない。ここは俺がしっかりしていないと、普通の俺にできることを、精一杯やり切らねばならない。そう決意し、俺は牛月部長の肩を掴んだ。
「部長! 聞こえてますか!」
ハッとしたように、部長の目が俺の目と合う。迷子の子供のように不安気な眼差しで、泣いてもいないのに涙が枯れてしまったかのようだ。
「猪木は絶対に大丈夫です! だから行きましょう!」
根拠などなくても、今はこの人を正気に戻せれば良いと思った。
「行くって、どこに」
言葉はちゃんと聞こえている。覚束ないが答えも返ってきた。この人を一人でここにいさせてはいけないと、直感的に考えた俺は、なりふり構わずに部長に怒鳴り散らした。
「病院にです! このまま、何もできないままでここにいたいですか? 貴方が行かずに誰が行くべきなんですか!」
ただの一生徒を乗せてくれるかは定かではなかったが、一心不乱に目の前の彼を説得しようとした。そんな俺を見て部長は何を思ったのか、彼の両肩を強く握り締めた俺の手をそっと振りほどいた。
「行くぞ」
そうして、第一発見者であり関係者として、部長と一緒に半ば無理矢理救急車に乗り込み、病院までついて行った。乗り込む直前に先生に止められかけたが、緊急事態に揉めている暇はないと、已む無く見逃される事となった。
車内では、救急隊員の応急手当てやら何やらが行われ、質問には全て先生が応対した為、俺は本当に何もできないまま、目を閉じたままの友人を眺めていることしかできなかった。
待合室に通されたのは、後から到着した猪木の両親と先生だけで、牛月部長が二、三質問された後、俺達は集中治療室の前で待機させられた。その間に、いつものような陽気な会話はなく、引っ切り無しに訪れる警察や先生、病院からの質問に対して答えられる事も少なかった。
唯一、猪木の母親が俺と部長に話しかけて来た時、俺は何も言えずに会釈をしたのだが、彼女はとても自分の娘が生死の境を彷徨っているとは思えない程に落ち着いた微笑みを浮かべて言った。
「ここまであの子についてきてくれたそうね。ありがとう。大丈夫? ショックだったでしょう」
切れ長な目元が少しだけ猪木を彷彿とさせる美人な母親だった。猪木ほど無表情ではなく、服装も派手めな色合いのものだったが、沈んだ空気も相まって薄幸そうで物静かな印象を受ける人だった。
俺は口籠るばかりで何も答えられなかったのに、部長は彼女に向かって言い放った。
「最近、猪木に変わった様子とかって、ありませんでしたか?」
「部長?」
唐突に不躾な質問を始めた部長の真意が掴めず困惑したが、猪木の母親は特に気にした様子もなく答えた。
「さあ、ごめんなさいね。ここしばらくは、私もあの子と会っていなくて」
小首を傾げて苦笑して、薄紫のストールをずり上げるように手首を捻った。高いヒールを履いている為、俺と目線がそう変わらない。
同じ家に住む親子なのに、数日も会わないなんてことがあり得るのだろうか。部長も同じ疑問を持ったようで「会っていない?」と訝しげにその話題を掘り下げる。
「聞いていなかったかしら、あの子、この春から一人暮らしを始めたの。早めに自立したいからって、親戚がアパートの管理人をしているから世話を焼いて貰っていたのだけれど」
高校生の女子が親元を離れて一人暮らしをしていた。非常識な話だが、猪木の母親の様子からは特殊な事情があったという空気も感じられず、猪木の意思を親が承諾して成立した事らしい。
「猪木はそんな事一言も」
衝撃を受ける俺を見て、逆に不思議そうな顔をされた。
「他に何かありませんか?」
先ほどとは打って変わって冷静過ぎる位に目の据わった部長が、猪木の母親に臆する事なく質問を投げかける。
「他に? ああ、そう言えば、彼氏をよく連れ込んでいるって管理人さんから聞いたわ。あの子も女子高生らしく恋愛をしているみたいで、逆にちょっと安心しちゃったの」
そう言って少しだけ口元を綻ばせた彼女に、少しだけ違和感を感じたが、娘を心配し過ぎて病む気を紛らせたいのかもしれない。
「え?」
猪木の恋人というと牛月部長の事を示す筈だが、先程部長も猪木が一人暮らしをしていたという事実を知らずに驚いたように見えた。更に彼が次にした質問は、俺の中の嫌な予感を加速させた。
「その彼氏って、どんな奴だか分かります?」
「此方ヶ丘の生徒で、髪が長くて落ち着いた雰囲気の男の子ってくらいしか、聞いていないわね。明はそういうの全然教えてくれないから。なぁに? まるで事情聴取ね」
くすりと伏し目がちな瞳を細めて、色っぽく笑った彼女に思わずドギマギしてしまう。人妻だぞ。友達の母親だぞ。こんな時に俺は何を考えているんだ。
部長は見るからに短髪だし、成人男性を優に超える体格の良さに反して、普段は落ち着きも年相応の大人っぽさも皆無だ。猪木母の言う特徴とは全く一致しない。混乱が増す中、部長はあくまで冷静に話を進めて行く。
「すみません。こんな時に」
「いいの。あの子にこんなに心配してくれる友達がいたなんて嬉しいわ。ありがとう。ミステリー研究部の子かしら?」
猪木が自宅で部活の話をしていたというのはとても意外に思えた。心から嬉しそうに微笑むその姿は、状況を気にしなければ娘を想う普通の母親のように見える。少しズレた性格をしている人なのだと無理矢理自分を納得させて、部長に続いて名乗った。
「はい。部長の牛月です」
「兎林大和です」
「あの子、高校に入ってから凄く明るいの。分かりにくい子だけど、これからもよろしくね」
細長い指を擦り合わせるようにして、彼女が口元に両手を持っていく仕草をすると、香水の仄かな甘い匂いが鼻を掠めた。彼女の不謹慎な程の満面の笑顔が少し照れ臭くて、俺は下を向いて誤魔化した。
*****
全てが白昼夢のような出来事も、昨日となってしまえば心の整理がついてくる。あれだけ取り乱したというのに、人間の心理とは不思議なものだ。
部長の言う通り、猪木は自殺などしない。長い付き合いとも言えないが、自分達は決して短い付き合いでもないし、浅い仲でもなかったという自負がある。
「私は、猪木先輩の自殺の可能性が高いと思います」
「猪木はそんなことしない。昨日も今日もいつも通りだった。何か心境の変化があったなら、いくらなんでも誰か気づく」
「猪木先輩はそもそも感情の起伏に乏しいです。部長が気づいてあげられなかっただけで、何かに悩んでいたんじゃありませんか? 一番彼女の近くにいた貴方に分からなかったなら、私たちに分かるはずがないです」
烏丸はそう捲し立て、部長を睨みつける。
元より容色の優れた烏丸の、不機嫌を超えて紛れもなく憤った表情は相当な迫力があった。部長も負けず劣らず、無理にでも冷静さを保とうとしているのかこちらが怯む程の顰めっ面をしている。見た目の割に子供っぽく朗色的で、威厳など微塵も感じさせない部長が、あの事件以来少しだけ様子がおかしい。
しかし、喧嘩になっては話が進まないし、自殺だ自殺じゃないなどと言い合っても答えなどでないだろうと、俺はまず興奮気味の烏丸を諌めようと間に割って入る。
「烏丸、ちょっと言い過ぎだ」
多少興奮し過ぎている自覚はあったのか、「すみません」と口を窄める彼女は、攻撃的なようでその実素直ではないだけなのだ。少し落ち着いたその様子を確認して、牛月部長は説得を再開する。
「自殺じゃない可能性はある。これが猪木からのメッセージなら、俺たちにはそれに答える責任があると思う」
再度、彼は例のカードの模写を取り出した。
『私を殺したのは誰でしょう』
これが、猪木からミス研の面子に向けた言葉だったとしたら、その可能性がある限り、部長はきっと意思を曲げる事はない。
「頼む。お前らにも手伝って欲しい」
深々と頭を下げ、誠心誠意の言葉を俺たちに送る。その姿を見て、心に響くものがないのなら仲間ではない。
「俺は手伝う。猪木は命を粗末にするようなやつじゃない」
「俺も」
部長の意を汲んで賛同の意を示すと、犬山はすぐに頷いてくれた。
「私は」と、烏丸が迷いの表情を垣間見せた時だった。
「僕、手伝いたいです」
それまで自身の意見は伏せ、烏丸のフォローに回っていた辰巳が、彼女の言葉を遮って静かに声をあげた。
「でも」
「でも、なんだ?」
驚いた俺たちの注目を一身に浴び、真剣な表情で何も無い空の一点を見つめながら言い切る。
「もし、猪木先輩を殺そうとした人が本当にいるのなら、深く関われば姫ちゃんに危険が及ぶ可能性があるかもしれない。事件の真相がどうであれ、その可能性がゼロじゃない以上、僕はその捜査とやらに手を貸すことはできません」
恥ずかしげもなくハッキリと口にしたのは、彼の第一信条と言っても過言ではない、盲目的なまでの烏丸中心主義の思考回路から生み出された意見だった。通常ならドン引きしてもおかしくはない案件だが、姫ちゃんどうこうは置いておくとして、確かに危険が伴う可能性を視野に入れていなかった事を自覚した。
「烏丸の意見も辰巳の意見も、正論だと思う。無理強いはしたくない。けど、頼む」
安全かどうかを問われてしまうと反論は難しい。そんな考えは杞憂だった。
「危険な事はしない。ただ、猪木が何を考えていたのか、何があったのかが知りたい。お前等の力が必要なんだ。もしも何かあったら、俺がお前らを守ってやる」
どこか変わってしまった気がしていた。いつもより遠く見えていた。しかし彼は紛れもなく、面白いものを見つけてきては部員に共有し、愚かしいまでに単純明快で、だからこそ全員の視線を奪って離さない。そんな不思議な力がこの人にはある。
この人に出会ってミス研に勧誘された時も、俺は同じような感覚になった。クサイ台詞もこの人がいうと妙に様になって見えるからずるいと思う。
辰巳と烏丸は互いに数秒見つめ合い、一方は呆れたような溜息と共に、一方は苦笑混じりに頷いた。
「分かりました」
「姫ちゃんがいいなら、僕も手伝います」
猪木の事件の真相を突き止めるという部活の枠を超えた前代未聞の目標が、一部の譲歩の上に成り立った。
部長は改まって咳払いを一つし、確認のように部員たちの顔を見回した。
「まず、みんなの昨日の放課後の行動を教えて欲しい。誤解しないでくれ。疑いをかける為じゃなく、仲間を疑いたくないからだ」
「今の台詞、前に部長に借りた小説の一節にありましたね」というツッコミは、空気を読んで心の奥底にしまっておく。部長の性格上、ふざけていると思われがちな言動も、ただこういう時に適した台詞なのだと素直に認識しているだけに過ぎない事を、ある程度の長い付き合いの中で理解した。
「分かってますよ。放課後はずっとこいつと一緒でした。昼食をとって教室で少し話してから、部室に移動する途中に部長の声が聞こえて、部室棟の階段辺りにいた犬山先輩と兎林先輩と合流しました」
「姫ちゃんと同じです」
烏丸と辰巳は予想通り合流前からずっと一緒で、互いのアリバイは当然の如く証明されている。
「俺も自分の教室で友達と昼飯食って、駄弁って、後は部室に向かいました。部長の叫び声が聞こえたのは丁度部室棟の下駄箱に靴をしまっている時で、何事かと思って焦って上靴を履いたところで犬山に出くわしたんだったよな?」
俺のアリバイは、教室で一緒だった友人達数名が証明してくれるだろうが、自分の行動とはいえ細部まで完璧に記憶しているかと言われると、流石に自信が薄い。
「俺は昼ご飯は外に食べに行ってた。学校に戻って来たらトイレに行きたくなって、部室棟一階のトイレを出たところでガラスの割れる大きな音と部長の声を聞いて、下駄箱前の廊下で大和と会った」
此方ヶ丘高校には、品数の豊富ではない購買はあるが食堂がない。すぐ近所にコンビニが二店舗、ファミレスやファストフード店も点在している為、昼休みに外出してそちらで食事を摂る者も多い。特に今日は一限と二限、終業式とホームルーム程度で学級課程は終了したので、部活のある殆どの生徒は昼の終わりまで外出していた。
牛月は頷く。思い出す事すら酷な昨日の出来事を、自らの口で語るという自傷的とすらもとれる行為に、彼の覚悟と矜持が伺えた。
「俺も昼飯は外で食べた。帰ってきてすぐに部室に向かったら、ドアの向こうに人影が見えたけど、返事は無いし、様子がおかしかったから下から中を覗いたんだ。そしたら、宙に浮いた足が見えて、上履きに猪木って」
書いてあったと、消え入りそうな声で呟いた彼の心境を察すると、こちらまで胸に杭が打たれたように痛む。彼の心にはまだその杭が刺さったままなのかもしれない。
「それで近くにあった消火器で窓を無理矢理破ったと」
「そこですぐに鍵を持ってくるなり人を呼ぶなりしないあたり、部長らしいです」
同情を感じて黙った俺の気遣いを台無しにして、犬山と烏丸はズケズケと言い放つ。
「け、結果的に早期発見につながったんだから、不幸中の幸いですよ。部長に怪我がなくてよかったですよ。そ、そういえば、さっきの、鍵のロッカーの番号を知っていた人間がもう一人いたとかって、どういう事なんですか?」
「昨日猪木の母さんから聞いた話なんだけど」
フォロー上手な我が部の良心、辰巳が話を逸らしてくれたことによって、やっと昨日の猪木の母親との出来事を粗方説明することができた。
「猪木先輩がその誰かと浮気していたということですか?」
盛大に眉を顰めた烏丸が、遠慮の無い斬り込みを入れた。
「いや、彼氏っていうのは大家さんの誤解で、単に猪木の友達かもしれないだろ」
部長の気持ちを微塵も考えずに意見する烏丸の不躾さに少々腹が立って、こちらも口調が荒くなってしまう。しかし、俺如きが少々熱を入れたところで怯む彼女ではない。
「でも、一人暮らしをしていた事を恋人である牛月部長にすら隠していたのに、その人にだけ伝えて家に呼ぶなんておかしな話ですね」
「隠していたと決まったわけじゃない」
「実際、知らなかったんですよね? 牛月部長は」
「なんでお前はそう喧嘩腰なんだよ」
「喧嘩腰? 私は別に」
ヒートアップし始めた舌戦に気圧され、犬山がオロオロと手を彷徨わせている。牛月部長も腕組みをして考え込み、黙ったまま俺たちの討論に耳を傾けていた。
「本人に聞けば良いじゃないですか」
唐突にそう言った辰巳に驚き、一瞬の間に俺達は静まった。
「本人?」
人当たりの良い笑顔で、烏丸の刺々しい態度を緩和する彼はそこにはいなかった。爬虫類に似た細い瞳孔を光らせて、冷たい声で獲物を追い詰めて行く。
「みんな、気づかないフリをしているんですかね。一人しかいないじゃないですか、髪の長い男子なんて、僕等の周りに一人しか」
不穏な彼の言葉に、それまで思いつきもしなかった。否、頭の片隅にあっても、考えることを無意識に止めていた一つの可能性が思い当たり、俺を含めた全員が一人の人間へ目線を向けた。
「俺のこと?」
肩にギリギリ届くくらいの、女子程ではないが長く伸ばされた天然の茶髪、落ち着いた無気力な雰囲気、猪木と特別親しいとまではいかないが、比較的身近な交友関係にあった人間。犬山晃紀の容姿と、条件は一致する。
「な、犬山が猪木と浮気してたなんて、あるわけないだろ」
震える声を押し留めて、辰巳に向き直ってその可能性を否定する。しかし辰巳は、根拠の無い疑惑で皆を混乱させるような奴ではなかった。
「僕、見ちゃったんですよ。昨日の放課後、猪木先輩と犬山先輩が二人でいるところ」
「は?」
寝耳に水とはまさにこの事、急に登場した新たな情報に、俺は驚愕して言葉を失いかけた。
「それなら、辰巳とずっと一緒にいた烏丸が目撃してないのはどうして?」
有難いことに、疑いをかけられた犬山自身は何ら訝しげな仕草は見せず、不満そうに短い眉を吊り上げている。
「私も見ましたよ」
「ならどうして今まで言わなかったの?」
俺とは違って、怒りをぶつけるように言い返すのではなく、余裕ある様子で問いかける犬山を、同じ先輩として少し見習おうと思った。
「……忘れていました。光臣ほどキョロキョロ周り見て歩いてるわけじゃないんで」
相変わらず言い方は悪いし、聞き様によっては上手くしらばっくれているように感じてしまうのは、俺が親友の犬山を贔屓目に見ているからだろうか。
「どうなんだ、犬山」
非難するわけではなくあくまで事実の確認、といった体裁の牛月部長にプルプルと首を振って、犬山ははっきりと答える。
「俺と猪木は会ったよ。昼食を摂る前の一瞬だったし、大した会話もしてない。勿論、家にも行ってないし、浮気もしてない。第一、猪木が浮気したと決まったわけでもないでしょ」
後半、少し拗ねたような物腰になったのは、きっと俺と同様に友人である猪木を信じたいという気持ちが強いからだ。烏丸と辰巳よりも一年長く付き合いがあった俺たちの絆は、絶対ではないが薄いものではない。学生の一年というのは足早に過ぎ去ってしまうからこそ濃密で、信頼関係の構築にかける時間の比率は低くはないのだ。
「彼氏じゃない男を彼氏だと偽って家へ呼んでいたんでしょう? それって浮気以外になにがあるんですか」
きつい物言いをする烏丸が、何も頭ごなしに猪木の不貞を疑っているわけではない事は理解している。事実に基づいて考えられる過程の中で、客観的に見て最も確率の高い可能性を、烏丸は俺たちに突き付けているのだ。
俺たちが主観でしか推理ができない事を知った上で、わざと彼女が憎まれ役を買って出ているというのは、流石に買いかぶりかもしれないが、一学期間の短い時間だけでも、烏丸の未熟で不器用な性格はよく分かった。
また無言の時間が流れる。すっかり涼んだ部屋の空気が、流れる時に逆らうように重く伸し掛かる。口火を切ったのは、やはり部長だった。
「明日、学校に行ってみよう。現場を見ない事には始まらない。部室に入れるかはわからないけど、とりあえず情報収集だ」
この場に猪木さえいれば、話し合いは難航する事なく要点を絞って順序良く行われる。(そもそも猪木が無事ならばこの話は始まってすらいないのだが。)
効率的で視野の広い猪木の手腕は、此方ヶ丘高校の生徒会すら認めるところだ。彼女は部活が忙しいからときっぱり断っていたが、俺はあいつなら上手い事両立できるのだろうと確信できる。
非効率的で無尽蔵な話し合いは長引き、気がつけば時刻は六時を過ぎてしまっていた。夏は日が長いとはいえ、あまり遅くなるとこの近辺は休みに入って暇を持て余した不良達が屯している為、夜道には危険が伴う。
住宅街の公園の看板や塀には、彼等によるカラースプレーやペンキの派手な落書きが施されている。
牛月家を後にして、近くはないが同じ方向に自宅のある犬山と一緒に帰宅している。
「犬山、俺は絶対に猪木を殺そうとした奴を許さない」
名も知らぬ虫の音と、紫色の空を泳ぐ烏の鳴き声が夏の夕暮れを象徴するように、生ぬるい空気に浸透する。
「うん」
俺の言葉に小さく頷く犬山の声が、その空気感に静かに溶け込む。
「ミス研の名にかけて、猪木の友達として、絶対に俺たちの手で犯人を見つけ出そう」
「……うん」
二度目の頷きには少しの間があった。不安を滲ませた彼の声を気に掛けて横に目をやると、痛々しい程にリュックサックの持ち手を握り締めていた。
落ち着かせようと一歩前に出て、後ろ歩きで向き合ってわざと明るい声を出す。
「ああ、そうだ。昨日猪木とあった時、何を話したんだ?」
「別に、お疲れとか、兎林と一緒じゃないの珍しいよねとか、これから部活行くのかとか、そんな感じの事を聞かれて、答えただけ」
「いつもと変わった様子はなかったか?」
「ごめん。わかんない」
「いいよ。その後は部室の方へ向かったんだよな」
「うん」
大通りに出ると人通りも増えるので、前に向き直って歩き出すと、丁度信号機が赤を示した。暗くなり、先程とは打って変わって人口の音ばかり耳に入って来る。
「あ」
信号待ちで立ち止まっていると、唐突に犬山が決して大きくはない声量で声を上げたと同時に、信号の色は青になった。
「どうした?」
「えと、偶然かもしれないし、俺が見間違えただけかも、あんまり自信ないけど、いい? 俺も、推理」
オドオドと視線を彷徨わせ、言葉を途切れさせる話し方は、気が弱く消極的な犬山の癖だ。しかし普段が無口な分、論理的思考を伴うその言葉の一つ一つの意味の重さが、思った事をほぼそのまま発信する俺とは大分異なる。
「何か気づいたのか?」
「あの時、猪木、部活の鍵、手に持っていなかったんだよね。職員室から距離があるとはいえ、すぐ使うのに鞄に一々仕舞うかなって」
問題の日の放課後、猪木は鍵の一つを職員室のロッカーから出して、一番乗りで部室について机の上置いた筈だ。
「やっぱり、ポケットとか鞄の中に入れてただけなのかも」
本校舎から部室のある校舎までは、確かに大した距離はない。犬山の疑問は最もだ。そして俺は、鍵についてもう一つ、重要な事実に気がついた。
「いや、犬山! それ!」
「え?」
「そうだ。ずっと違和感だったんだよ! 鍵だ!」
「な、なに?」
力強く迫る俺に、犬山は後退りして戸惑いの表情を見せる。信号はとうとう点滅し始めたが、俺たちは白線のレールを渡らず、その場に立ち止まったままでいた。
「失くすといけないから目立つところに置こうって、いつもは机の真ん中におくことにしてるだろ? あれを言い出したのは猪木だったよな」
「うん。前に部長が失くしかけたから、置く場所を決めて置こうって猪木が言ってた」
「猪木を見つけたあの時」
現場を回想すると、あの異様なカードの傍にあった鍵の在り処を、混乱する頭は精一杯に記憶していた。
「鍵は、机の端に置いてあった」
「あ!」
あれはもはや習慣のようなものだ。規則正しく几帳面な性格の猪木が、よりにもよって昨日だけ置く場所をずらしたとは考え難い。
「もしも、もしもの話だけど、猪木は昨日、部員ではない誰かを部室に招き入れたんじゃないか? 鍵はそいつに取りに行かせて、自分は先に部室に行って誰もいないかを確かめた。その途中に犬山とすれ違った」
「でも、どうしてそんなにコソコソする必要があったの?」
「俺はさ。浮気ではないにしろ、猪木が親や部長に何かを隠していたことは確かだと思ってる。学校で誰憚ることなく内緒話ができる場所なんて、無人の部室くらいだ」
「そしてその誰かに、殺されかけた。その仮説なら、みんなに話してみる価値はあると思う」
部室にあった鍵は猪木が持って来た物だと言う前提が覆されたとしたら、犯人がロッカーから二本の鍵を持ち出し、片方を部室の中に放置する事で、彼女を自殺に見せかけたトリックの可能性もある。更には、鍵を取りに来た姿を、職員室内で目撃されているかもしれない。
「その前に、明日職員室に行って、昨日鍵を取りに来た生徒について聞いて来ようぜ」
「うん!」
三度目の相槌には、先刻までの薄暗さはなく、少しだけいつも通りに戻ったような気がした。
けれど事件は何も終わっていない。捜査は始まったばかり、情報の糸は解れ絡まったまま、俺たちの周りに散乱している。
初夏の風が強く吹き、俺たちは再び信号が青になった事を確認し、車のヘッドライトで照らされた横断歩道を渡って帰路に着いた。
*****
烏丸と印字されたガラス製の表札の掛かった塀の前で、無言のままの烏丸とその表情を伺う辰巳の影が、古びて点滅する街灯の一つの下にあった。辰巳の家は烏丸家のすぐ裏手に位置しており、角を二つ曲がれば大した時間を要さずに行き来できる。放課後にどちらかの家で夕食を共にすることも少なくはない程、家族ぐるみでの付き合いが年季を帯びてきた。
「姫ちゃん」
辰巳の声は沈んでなどおらず、烏丸の心情を危惧するでもなく、ただ不自然な真剣さだけが感じ取れる。
「何も言わないでいい」
口を開こうとする辰巳の言葉を、烏丸が普段通り遮る。辰巳は珍しく彼女の命令を聞く気がないのか、誤魔化すようにヘラリと笑ったと思うと、取り繕った表情が抜け落ちたように真顔になって言う。
「犬山先輩と猪木先輩が一緒にいるところを見たのは本当だよ。二階の渡り廊下を通った時に見た。もし一人の時に聞かれたら、辻褄を合わせて」
「別に平気だよ。犯人は『髪の長い男』ってことになってるし、私は猪木先輩の自殺だと思うって体を装うつもりだから、もし何か聞かれてもその説を推すつもり」
烏丸は猪木の自殺が不確実ということを確信している。辰巳も、それに反論や動揺はしなかった。
「姫ちゃん」
和らげな口調とは裏腹に、もう何度固めたかも分からない決意を、幼い頃から決めていた覚悟を、辰巳はこの時初めて本人へ向けて言葉に出した。
「僕は何があっても、姫ちゃんから離れる気は無いよ」
捉えように寄っては異常にすら思える辰巳の言葉を聞いて、烏丸はまるでそれが当然であるかのように、目を合わせることも無く平生の調子で言い放つ。
「知ってる。だからそもそも、一人になんてしないで」
彼に一瞥もくれずに、烏丸はキィと甲高い音を立てて家の門を開け、玄関の鍵を取り出す。
辰巳はその背中を見送って、完全に玄関の扉が閉じた事を確認すると、徒歩数十秒の距離にある自宅に向かって足を進め始めた。
道中に見上げた空に、決して満天とは言えない数の星々がチラチラと淡い光を放っていた。夏の大三角とオリオン座と天の川程度の知識しかない彼にとっては見飽きたつまらない空だった。
彼の目を唯一惹きつけたのは、欠けても満ちてもいない中途半端な檸檬型の青白い月だ。
辰巳は眩しそうに少しだけ目を細めると、薄い唇を強く噛み締めた。
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