プロローグ 一期未会

 雲一つ無い青空が広がる。今朝の予報では降水量はゼロパーセントだった。紛う事なき快晴の日和は、麗らかな春の陽気と共に新入生を歓迎した。四月某日、時期の過ぎ去った桜の枝はすっかり露わになって葉が競うように成長を始めている。

 此方ヶ丘は全体的に丘陵地帯の為、郊外とはいえ東京都にしては標高が高い。都心部ほどの賑わいが無い分、静かで緑の多い平和な田舎町だ。娯楽の少ない分、遊び場を求めてガラの悪い学生は自然と増えるが、目立った事件も問題もなく、年代に偏りのないそこそこの人口を抱える小さな町である。

 この町の周辺には三つの中学校と二つの高校がある。町の最北端に位置する古い校舎が此方ヶ丘高校、中心部にある駅から西に進むと西此方ヶ丘学園高等学校という創立二十数年の進学校が建っている。

 紛らわしい名前だが、此方ヶ丘高校に通う生徒には地元民が多く、西此方ヶ丘学園には電車通学の生徒が多い。

 此方ヶ丘高校第二校舎三階の一番奥、準備室と資料室に挟まれたこぢんまりとした部屋、各ホームルーム教室からは離れた辺鄙な場所に位置付けられたその扉には、はめ殺しの磨りガラスと塗料のハゲた錆びだらけのドアノブとは対照的に、真新しいプレートが取り付けられている。

『ミステリー研究部』

 此方ヶ丘高校ミステリー研究部、通称ミス研の部員数は三年生を含めてたったの四人という小規模どころか廃部寸前の、所謂弱小部である。

 そして今日は、つい昨日入学式を迎えた新一年生が登校して来る、各部活にとって格好の勧誘日和だ。運動部、文化部、あらゆる部活が我先にと校門付近を陣取り、一年の教室前の廊下を徘徊し、初々しい一年生達に声をかけ、挙ってビラをばら撒き歩く。

 風に乗って足元に落ちてきたチラシは、コピー紙自体の安っぽさはあれど、色鮮やかなイラストと丁寧な字体で綴られた、見る者の興味をそそる見事な芸術作品とすら言える代物だった。数秒、そのチラシをじっと見つめていた兎林大和とばやし やまとは、眉を顰めて力一杯それを握りしめた。ぐしゃりと音を立ててひしゃげた印刷用紙は、歩き出した兎林の手の中で無残に丸まっている。

 鬼気迫る表情の兎林の辿り着いた先は、ミステリー研究部の部室だった。


「犯人は、被害者の息子で間違いない」


 扉を開けるなり最初に耳に飛び込んできた声は、部長の牛月忠うしつき すなおの野太い真剣な雰囲気のそれだった。

 深刻な面持ちでソファーに座る彼の正面の机には、乱雑に積まれた書籍や、何らかの資料と思わしき紙の束がばら撒かれている。


「いいえ、それは違います。彼には明確なアリバイがありました。証言者がいる以上、それは覆しようもない事実です」


 決して大きくはないが、凛とした耳馴染みの良いハスキーボイスは、長い脚を組みながら悠々と窓際のパイプ椅子に座る猪木明いのき あきらのものだ。

 まるで推理小説の探偵のような堂々たる態度で反論をした猪木に、牛月はニヤリと胡散臭い笑顔を浮かべる。


「そのアリバイを崩すトリックがあるとしたら?」


 彼の挑発的な笑顔にも、猪木が表情筋を動かすことはなく。その秀麗な柳眉をピクリともさせず無表情のまま頷いた。


「聞きましょう」


 入室してきた兎林には目もくれず話を続けようとする二人に、自分の存在を知らしめるように勢いよく扉を閉めた。

「何をしているんですか、あんた達は!」

 二人の視線が兎林に集中すると同時に、部屋の奥で丸まっていた毛布から、部員の犬山晃紀いぬやま こうきが顔を出した。

「ん〜?」

 元は物置だったとはいえ、決して手狭ではないこの部室は、入り口から向かって左半分の床にカーペットを敷き詰め、靴を脱いで寛げる仕様になっている。犬山は先日町内会の福引で当てた、〜人をダメダメにする〜というキャッチコピーでお馴染みの柔らかなクッションソファーの上に体を丸めて微睡んでいたようだ。

「部長、今度は何したの?」

 犬山は生来の長い癖っ毛に加えて寝癖だらけの頭を覗かせ、寝ぼけ眼を擦りながら牛月に不満そうな目を向ける。

「え、俺が何かした前提なの」

「少なくとも私には心当たりがありません」

 猪木も小首を傾げながら牛月を見つめる。座っていても目立つモデルのようなスタイルの長身に、男性的な精悍な顔立ち、眉目秀麗という言葉が誰よりも似合う猪木は、こう見えても立派な女性である。

 派手ではないが華のある雰囲気、無表情で何事もそつなくこなす姿から、王子様のようと称されることもある。同学年の男子一同からすれば、女子が王子様認定されている事に納得いかない思いもあるだろうが、彼女の性格、スペック、顔面偏差値どれを挙げても敵う男子は居らず、学年一女子に人気があるという事実には大人しく頷かざるを得ない。

「アッキーまで俺に罪をなすりつけようとする! 俺は冤罪だ!」

「部長、兎林の話を聞きましょう」

 謎にハイテンションのまま駄々をこね始める牛月を冷静に諌め、兎林に用件を言うように促す猪木は流石、通称猛獣使いの副部長だ。

「部長は勿論ですけど、全員に言ってるんだよ。今日が何の日だか分かってるのか?」

「今日? なんかあったか?」

 呆れ果てている兎林の様子にきょとんとする牛月をフォローするように、猪木は相変わらず顔色を変えずに淡々と答える。

「さあ、強いて言うなら新一年生が登校してくる日ですね。普段はポスターのみですが、今日に限っては直接の部活動勧誘が認められています」

「分かってるのになんで何もしないの! この部活、廃部寸前なんですよ!」

 兎林は口調に迷いながらもそう叫ぶ。同級生で二年の猪木と犬山、三年の牛月の混在する空間で、敬語とタメ語を使い分けるのがどうにも面倒らしい。

「ミス研廃部するの?!」

 大袈裟なくらいに焦って取り乱す牛月に、ようやく現状を思い知ったかとため息をついた矢先、表情にこそ大した変化はないが、キョトンとした様子の猪木と目があった。

 しかしそれは、一年近く同じ部活で過ごして来た兎林だからこそ分かったような、あまりにも細かい間違い探しのような変化だった。

「犬山、昨日兎林に伝えなかったの?」

「忘れてた。ごめん」

 犬山と猪木の短い会話の横で、挙動不審になって慌てている牛月が視界をチラつくのが鬱陶しい。

「廃部? 廃部なの? やべえ、どうしようどうしよう!」

「落ち着いてください。廃部にはなりません」

 諌める猪木の発言に、兎林が「え?」と目を丸くする。

「なんで? 廃部じゃねえの? え、どっち、というかなんで廃部?」

 混乱し出した頭の弱い牛月に、猪木が一から説明を始める。

「部長の為に順を追って説明すると、この学校の校則に[三年生を除いた部員数が四名以下の場合、及び優秀な活動成績等を証明する物がない場合、該当部活の処分は生徒会預かりとする]というものがあるんです。生徒会預かりになると、余程のことでない限り活動は認めて貰えません」

「つまり、部員が少ないと実質的には廃部になるの」

 牛月は犬山の補足でやっと状況を理解したようだ。

「三年生の俺以外ってことは、猪木、犬山、兎林……三人じゃん! 廃部?!」

「だから他の部活に取られる前に一年生を勧誘しに行かないといけないんですよ! ゆっくり昨日の推理ドラマの話とかしている場合じゃないんですってば」

 ちなみに、先ほどの犯人云々は最近ミス研内で流行っている連ドラの内容の話だ。牛月がどこからか見つけてくるミステリーに関する情報は、驚くほど各自の好みに合っていてとても面白かったりする。頭は悪い癖に、見る目があるというか、妙な直感に優れた人物だ。

 ミス研の主な活動はドラマや小説の犯人当てや謎解きゲーム、ネットの推理系フリーゲーム、世界の不思議を発見する番組で取り上げられた摩訶不思議な物や現象についての討論大会など、非生産的な内容のものばかりだ。他人に語れる魅力はあれど、形として残せるものも誇れる意義や目的も無い。

「二人とも落ち着いて、廃部にはならないよ」

「え」と、間抜けな声を上げたのは、牛月が先だったか兎林が早かったか。応対する猪木の声の調子は、感情の起伏の読めない一定の低さが保たれている。

「昨日、一年生から顧問に直接入部届が提出された。今日の朝、会って挨拶は済ませて来たから、部活には明日から参加するように伝えてある」

「ええええ!」

「部長と犬山には、昨日伝えた筈なんですが」

「そうだっけ?」と部長は惚けた顔で首を傾げる。

 予想外の展開に目を剥き、未だソファに寝そべったままの犬山の方を向くと、先ほどと同じ台詞を使い回された。

「忘れてた。ごめん」

「なんだよ。俺の焦り損じゃん」

 盛大なため息をついて、兎林は柔らかく形を変えるソファを背もたれにし、犬山の横に座り込んで脱力する。

「部室がちょっと狭くなるね」

 高校二年生男子にしては小柄な犬山が兎林の肩に擦り寄る姿は、まるで子犬が飼い主にじゃれついているようにも見える。これもミス研の日常風景だ。

 兎林は犬山の頭を撫でながら言う。

「猪木、会ったんだろ? どんな子たち? 女子? 男子?」

「男子と女子、両方だよ。クラスは違うけど、中学は同じみたい」

 入学初日から同時に入部届けを出してくるあたり、相当仲が良いのだろうというところまでは予想していたが、まさか男女だとは思っていなかった。

「え、それってリア充なんじゃ」

 分かりやすく眉をしかめる兎林に、猪木は一瞬口元に指を寄せて逡巡する。

「いや、なんていうか」

 平均的で普通の男子高校生、どこにでもある普通の学校の弱小部に所属していて、日々小さな心配事に悩まされている。それが兎林大和という人間の全てだった。

「女王様と下僕、って感じだった」

 相変わらず感情の読めない完全な無表情で猪木の言い放った一言に、また、小さな心配が増える予感がした。




 SIDE 下僕


 その名に相応しい容姿と、女王の風格ともいえる高慢さと気品を持つ彼女、烏丸姫からすま ひめは美貌と品格を兼ね備えた才女である。

 長く波打つ髪の一本一本が金色の光を帯びて風に靡き、瞳は宝石のように澄んだ輝きを放ち、シミひとつない白い肌は化粧など施さなくとも陶器のように真っさらで、唇には艶やかな天然の紅色が浮かぶ。

 爬虫類のような三白眼で、昔から目つきが悪いと罵られ背中を丸めて歩く癖のついた僕のような凡人は、本来ならば彼女のような選ばれし人間とは住む世界が違う。

 しかしそんな彼女は昔から、学校という社会の縮図の中では必ず孤立してしまっていた。

 本人の度が過ぎる程の気高い性格故の近寄り難さも理由の一つだが、それとは別に明確な原因がある。そもそも普通の人間が彼女の隣に立つ事自体が、相当に難易度の高いことなのだ。

 どれだけ自分に自信がある者も、彼女という神に愛された完璧な存在の前では無意味に霞み、煌々と輝く美しい宝石を冒涜しているかのような烏滸がましさを感じさせられ、途轍もない惨めさに見舞われる。

 決して凡人の手の届くことのない、遠くから見つめるだけが精一杯な孤高の女王、異性が目を合わせると途端に恋に落ちてしまいそうな単純明快なまでの美しさ、俗世間に上手くハマらないのは必然だろう。

 普通の女の子であれば、それはただただ難儀な体質だったのかもしれない。しかし、彼女は普通の女の子とはかけ離れていた。

 お姫様は、決して独りぼっちではない。

 臣下に恵まれ、民と言葉を交わし、いつかは完璧な王子様と出会う運命なのだ。

「光臣、早くして」

 凡人の僕が、唯一生まれ持った才能があるのだとしたら、それは彼女の隣に立てる事だと思う。彼女の隣にいる時だけは、僕も胸を張っていられる。最初から、誰よりも近い立場で出会えたことが奇跡のようなものだった。

 親同士が親友で、家も近所の僕と彼女は、一緒にいる時間が人一倍長かった。学校は小学校からずっと一緒で、クラスすら離れたことはない。

 まあ、高校生になって初っ端からクラスは別になってしまった訳だが、「どうせお前は休み時間の度に来るんでしょ」と言い放った彼女のいう通り、彼女のもとを訪れる頻度はむしろ増したように思える。

 初日から孤立した彼女に、部活はどうするのかと聞かれたので、人見知りがちな彼女に合いそうな、人数の一番少ない部活を選んだ。

 至れり尽くせりと言われることがよくある。パシリのようだと言われることも、少なくはない。

 僕は彼女に憧れを抱いている。けれどそれは、恋なんかじゃない。もっと純粋で、もっと濃密な感情、最早信仰や陶酔に近いのかもしれない。

 その重たい気持ちを受け止め、隣を許してくれた彼女から、どうして離れることができようか。

「姫ちゃん、喉乾いてない? ジャスミン茶持ってきてるんだ」

「……飲む」

 口数の決して多く無い彼女だが、僕には何だってわかる。

「うん! 保温の水筒だから、まだ温かいよ。はい」

「あっそ」

 そっけなく答えるその表情が、普段一人でいる時よりも穏やかであることを知っている。僕から与えられる物を受け取る手が、繊細で優しいことを知っている。

「お前は、飲まないの」

「うん。僕は姫ちゃんの後に飲むよ」

「ふーん」

 ほんのりと薄紅に染まった頰の意味が、肌寒さのせいだけでないことも、僕はちゃんと知っている。でも違うよ。姫ちゃん。君の世界はとても小さい。けれど一歩踏み出せば、君どこまでだって世界を広げることができる。

 今いる小さな世界では、君を守る騎士は僕だけかもしれない。でも外の世界には、僕なんて比べ物にならないくらい強く、君にふさわしい騎士が沢山いるのだろう。

「はい」

「ありがとう姫ちゃん」

 受け取った温かい金属の質感が、外気にさらされた僕の手を癒した。

 君を外の世界へ連れ出してくれる、強くて格好良い完璧な王子様が現れるまでは、僕が君を守り続けよう。

 それまでは、隣を望んでもいいだろうか。

「早く現れないかなあ。姫ちゃんの王子様」

 暖かいジャスミンティーが喉を通ってお腹に溜まる。

 寒さが残っているとはいえ、もう四月で僕等はもう高校生、春は出会いの季節と言うし、その機会は沢山ある。

「またそれ? 興味ないんだけど」

「でも、高校生になったらきっと色んな人に出会うよ。その中にもしも運命の人がいたらと思うと、ちょっとドキドキしない?」

「しない」

「えー、姫ちゃんのことなのに」

「…………」

 顰めっ面でも美しいとはどうなっているのやら、すれ違う人達が彼女に見惚れ、隣に立つ彼女とは吊り合わない僕に違和感を抱く視線にも、もうとっくの昔に慣れた。

「でもまあ、もうしばらくは、僕は姫ちゃんと一緒に居られるね」

「うるさい」

 姫ちゃんは口を尖らせてそっぽを向いてしまったが、口元を隠して目を瞑るその仕草が嬉しいという感情を顕著に表していた。

 ただの下僕である僕は、ずっと昔から彼女の好意を受け入れられないでいる。

 素直になることが苦手で、不器用で直接気持ちを言い表すことのできない彼女の性格を利用して、何にも気づいていないふりをしている。

 ごめんね。姫ちゃん。僕は君の王子様にはなれない。




 SIDE 女王様


 物心ついた頃から、そいつは私の横にいた。

 そいつは私が何をしようと、どこへ行こうと着いてきて、口に出さずとも私の言わんとすることを察するという特殊能力を身に付けていた。

 茨のように鋭い殺傷力を持つ、可愛げのカケラもない私の言葉から、棘を一本ずつ丁寧に抜いて行く。抜いた棘すらも大事そうに抱えて、血塗れになりながらも必死に私に尽くそうとする。自己犠牲の塊みたいな性格で、私とは対照的に素直で感情豊か。

 辰巳光臣たつみ みつおみはそんな奴だ。

「姫ちゃん」

 私を名前で呼んでいいのはこいつだけ、こいつを名前で呼ぶのも私だけ、ギブアンドテイクは当然でしょ。精々私に尽くせばいいわ。なんて女王様ぶったって、あいつには微塵も通じない。彼はそれが私の強情な虚勢である事を誰よりも理解している。

 私の事なら私よりも分かってしまう癖に、私の一番望むものは与えてはくれない。

「僕は姫ちゃんの家来だから、姫ちゃんを守る騎士になりたい」

幼少期に将来の夢を聞かれ、誰もが敬遠する私の瞳を真っ直ぐに見据えながら言ったその言葉は、今も彼の信条として根強く彼を形成しているらしい。恥ずかしげも無くそれを言ってのける彼の事を、私は家来などとは思っていなかった。

 側から見れば光臣が私に付き纏っているが、周囲の客観とは真逆で、本当に光臣に想いを寄せているのは私の方だった。

 中学生の頃、私は一度だけ勇気を出したことがある。

 自分の気持ちに素直になる勇気、光臣を恋人にするための作戦を立てた筈が、その行動は彼の真意をますます曇らせ、私には全く悟れなくなってしまった。

 光臣はあのことを、どう思っているのだろうか。

 私を恋愛対象としては、見てくれないのだろうか。

 友達のいない私の、たった一人の親友は、私の恋人にはなってくれないのだろうか。

「ミステリー研究部? お前、ミステリーなんて興味あったの」

「探偵物のアニメとか漫画は好きだよ。姫ちゃんも推理小説はよく読んでるし、部員数もそんなに多くないからどうかなって」

 入学式の後、光臣はニコニコと細い目をますます弓形に細めながら私のクラスにやってきて、配られたばかりの入部届を二枚私の机に並べて言った。

「ふーん」

「じゃあ僕、これ提出して来るね」

 返事などしていないのに、私の相槌とも言えない程の小さな頷きから考えを汲み取り、二枚の紙を持って走り去って行った。

 入学早々部活を決めるだなんて、些か性急ではないかと思ったが、翌日の勧誘ラッシュを見るに、光臣の行動はそれを予期してのことだったのだろう。

 なんだかんだで抜け目のない優秀な下僕だ。本当にパシリの才能があるのではなかろうか。

真新しい制服に身を包んだ姿は、昨日までの彼とはまた別人のような、いつのまにか私よりも高く伸びた身長を主張するように逞しく見えた。

 一人きりになった教室で、肘をついて退屈に光臣を待っていると、チラチラとこちらを伺って来る視線が気になり始めた。

 中学が同じだった面子も多いのだろう。既に教室内には一定のグループができつつあるようだった。

「ねえねえ、烏丸さん。さっきの人彼氏?」

「ちょ、やめなよ。あんた初対面なのにデリカシーなさすぎ。ごめんね、烏丸さん」

「いいじゃん別に」

 年相応の落ち着きのなさが目立つ女子のグループが、私に話しかけて来る。

 ここに光臣がいたならば、きっと上手くフォローを入れてくれたのだろうけど、生憎と今は私一人だけだ。

 勝手にきゃっきゃっと騒ぎ始める女子になるべく無難な返事をした。

「違うけど」

「あはは、だよねえ!」

「烏丸さんならもっとイケメンとか、ていうか超美人だし誰でも落とせるでしょ」

 だよねって何? 失礼でしょ。

 もっとイケメン? 興味ないし。

 誰でも落とせる? 光臣が落とせないなら意味がない。

 いつのまにか、私の机の周りに人が集まりつつあった。

 次々交わされる様々な話題や自己紹介についていけずに、イライラばかりが募る。

 トドメはとある男子の一言だった。

「ねえねえ、姫ちゃんって名前可愛いね。名前で呼んでもいい? あ、俺は山田っていうんだけどさ」

 愛想笑いなどできない私は、光臣と対極にあるような馴れ馴れしい態度の男子の言葉に、取り繕った冷静さなど保てるはずもがない。

「気安く名前で呼ばないでくれる? あんたみたいな下劣で低俗な奴と、この先一度だって会話する気とかないから」

 見下すように発してしまった言葉に、あ、と思った時には既に教室は静まり返っていた。

 きつい性格に合わない可愛らしい名前が嫌いで、恥ずかしいと意地を張っていた私に、光臣はしつこく「可愛くて綺麗な姫ちゃんにぴったりの名前だよ」と言ってくれていた。次第に私は、彼にその子供っぽい呼び方で笑顔を向けられることが好きになった。

 私を名前で呼んでいいのは家族を除いて光臣だけだ。

 しかし、それにしたって流石に言いすぎた。我に帰って震える手を誤魔化すようにスカートの裾を握りしめた。これでは中学の時と同じだ。行き過ぎた悪意を撒き散らし、勝手に孤立して、光臣にまで迷惑をかけてしまう。

 なんと言って誤魔化そうと頭をめぐらせていると、しばらくぽかんとしていた山田というチャラ男が息を吹き返したように威勢良く言った。

「西中の女王様!」

「は?」

「烏丸さん、西此方ヶ丘中学出身でしょ? 俺そっちに友達いてさ。噂の超美人毒舌女王様、本当だったんだな。よっしゃー生で罵声聞けたわ」

 興奮気味に言われた言葉に、今度は私が驚く番だった。

 静まり返っていた教室が、ドッと笑いの渦に包まれた。

「女王様とかすげーぴったりじゃん。烏丸さんのこと、今日から三組のクイーンって呼ぶか!」

「三組のクイーンとか、赤暮あかくれネーミングセンスなさすぎじゃん」

 赤暮と呼ばれた赤髪の目立つ男子と山田を筆頭に、盛り上がり始めたクラスの雰囲気に、呆然としたまま動けない。

「いいじゃんクイーン」

「初日からこれとか、このクラスやばー」

「ちなみに俺はこの学校のヒーローになる男だから、よろしく!」

「キャラ濃過ぎー」

「クラス全員に二つ名つけるか!」

「じゃあ俺【此方ヶ丘のプリンス】な」

「山田は【勘違いプリンス】」

「プリンスならいい!」

「いいのかよ」

 既に私のことなど眼中にないようで、全員ほぼ初対面とは思えないほどに和気藹々とした仲の良さで、一年三組は再びクラス全体を巻き込んで騒ぎ出した。

 ちょうどそのタイミングで、光臣が教室に戻って来た。

「ただいま。わあ、三組賑やかだね」

「……うるさ」

 意図せず少しだけ上がってしまった口角を隠すように、頬を手に乗せて肘をつく。

「どうしたの?」

「なんでもない」

 逸らした顔は光臣からは見えない角度な筈だが、光臣が暖かく微笑んだ気がした。

 このクラスは、私を拒絶しない。

 光臣から離れる事なく、自立できる気がする。いつか私がもっと素直になれたなら、光臣にちゃんと気持ちを伝えよう。




 SIDE 子犬


 きっかけは、自分と親友に投げかけられたある一言だ。

「なんでお前ら、いつもひっついてんの?」

 そう言った友達に悪意があったのかどうかは知らない。何せ小学校低学年の頃の話だ。少年が好奇心で発した何気ない一言が、俺と親友にのとっての亀裂となってもおかしくはない。

 昔から、人の温もりが好きだった。手で触れて、重さを感じて、時には抱き締めて体温や質量を感じる。

 人のパーソナルスペースに入り込むことは、互いに心を許している事の証明だと思っていた。手を伸ばせばすぐ近くにいると安心できる行為だった筈なのに、今ではそれが怖くて仕方がない。

 俺と親友の距離は確かに近かった。休み時間は彼の膝に乗っかっていたし、話しかける時には俺が大抵後ろから抱き着いた。

 親友はそれを許していたし、それが当たり前のことだと信じて疑わなかった。

 けれど、友達同士で抱き着いたり、撫であったりすることはおかしいと、距離が近いのではなく、近過ぎるのだと、自分たちの異質さを他人から教えられた。

 その事実が、幼い俺には衝撃だった。

 そういうことは、恋人同士がするのだと教えられた。しかし俺も親友も男だ。中学では側から見たら同性愛者だとからかわれた。

 過剰な偏見はないが、俺の恋愛対象は当然異性だ。初恋は隣のクラスのショートヘアの似合う女の子だったし、流行りのアイドルを可愛いと思ったりもする。

 恋人同士のする触れ合いではなく、愛慾を含んだ意味合いでもなく、友達としての優しい戯れ合いが好きだった。人の温もりが好きだった。

 クラスメイトの女子達が似たような触れ合いをしている姿を頻繁に見かけた。やはりそれは可笑しな事ではないと安心した。

 けれど、俺の親友は俺から離れて行った。

 高校に入学してそれなりに時間が経ったある日、俺はうっかり家の鍵を忘れて、親が帰宅する時間まで教室でゲームをして暇を潰していた。

 なんとなく、人との接触を避けるようになって、一人でいることにも慣れてきている。

 出席番号二番の俺は、廊下側の前から二番目の席で、教室の扉のすぐ近くだ。

 唐突にガラリと開いた扉に思わず肩をビクつかせてしまう。

「うお、犬山か。なにしてんの?」

 平均的な身長をした、平凡な顔立ちの、これといった特徴のないクラスメイトだ。失礼な話だが、入学して一ヶ月ほど経っていても、名前はなんとなくしか覚えていなかった。

「暇つぶししてる。ええと、うさぎ…? 兎の人」

 彼とはほとんど話したことはないが、話しかけられたので一応礼儀としてゲーム機を置いてイヤフォンを外した。

 苗字の字面だけ曖昧に記憶していたので、あだ名でもつけてごまかそうかと思ったが、無理があった。

「兎の人ってなんだ。兎林だよ。と、ば、や、し」

 その人は特に不満そうな顔もせずに吹き出して、俺の前の席に後ろ向きに跨って腰かけた。頬をかきながら苦笑して、復唱するように促されたので、彼の変わった苗字を口にした。

「兎林」

「そうそう」

 よくできました。

 口に出してはいないけど、頭頂部に乗せられた掌から彼の言葉が伝わってくる。

「え?」

「ん? あっ、悪い悪い」

 思わず漏れた驚きの声に、兎林もハッとして手を引っ込める。それを少し残念に思ってしまうあたり、俺は昔となにも変わってはいない。

「なに?」

 少し冷たい声が出た。

「いや、なんか」と前置きして、前髪の間から困り眉を覗かせてまた頰をかきながら言う。

「お前が、撫でて欲しそうにしてたからさ」

 爽やかな笑顔を向けられて、開いた口が塞がらない。自分から触れることはあって、それに返すように触れてもらうことはあっても、俺の気持ちを察して自分から触れてきたのはこの人が初めてだった。

 俺よりも大きくて、優しい手だった。

「もっと」

「ん?」

「もっと撫でて」

 引かれたり、驚かれるかなと思ったのに、兎林はなんでもないように「ははっ、いいぜ」と笑って、先ほどよりも髪の奥の方までしっかりと撫でてきた。

「よーしよしよし」

 頭のてっぺんを撫でていたと思ったら、俺の長めの髪の毛に手を差し込んで梳くように触れる。

 終いには、耳やうなじまで撫で回してきた。

 頰の筋肉が緩むのが自分でよくわかる。無意識に兎林の手に擦り寄ると、急に撫でる手が止まった。

 しまった。流石に気色悪がられたか。今度は自分の顔が青くなるのを感じる。

「なんかお前」

 離れていく宙を浮いたままの彼の手が、やたらとスローモーションに見えた。

 昔、友人に言われた言葉が、頭の中をリフレインする。

 嫌だ。こうなるから、人との接触は避けていたのに、どうして無闇に触ったりしたの。

 今の今までそこに居た彼の優しそうな目が、急に恐ろしいものに変貌してしまった気がした。

 その先を言わないで、そう口にするより前に、彼は言葉の続きを辿った。

「なんかお前、犬みたいだな」

「いぬ?」

 予想もしていなかった単語に、随分と間抜けな声が出た。

 そこへ、部活帰りのクラスメイトたちがぞろぞろと教室に入って来た。

「兎林悪りぃ、待たせた」

「いーよ」

 なるほど、兎林は彼らを待っていたのか。

「お? なにやってんの兎林」

「と、犬山?」

「おつかれ、ねえ見て、なんかこいつ犬っぽくない?」

 ぽす、とまた頭に手を乗せられる。

「なんだそれ」

「犬山だから?」

「撫でてみ、わんこにしか見えなくなってくるから」

 目を輝かせて言う兎林に便乗して、他の奴らも俺の頭を撫で始めた。

 なんだこれ。どういう状況だ。

「うわ、髪サラサラ」

「あはは、気持ち良さそう」

 わしゃわしゃと髪を乱されて、流石に鬱陶しくなって首を振ると、また犬っぽいと笑われた。

 けれど、それは決して嫌な笑われ方じゃなかった。

 その日を機に、俺は兎林と積極的に絡むようになり、なんだかんだ気があって同じ部活に入った。

 今ではすっかり親友で、二年に進級しても同じクラスのまま、俺は教室で兎林の膝に乗ったり、撫でられたり、時にはチョップで叱られたりもする。

 クラスではすっかりそういうキャラなんだと複雑な認識をされ、個性的な位置付けの俺が兎林の普通さに緩和されて絶妙な組み合わせとなって教室の片隅に馴染んでいる。

 女子も男子もよく俺の頭を撫でてくれる。それにしても、なんとも順応性の高いクラスだ。

 でもやっぱり、兎林の触れ方が一番気持ち良くてあったかい。




 SIDE 凡人


 六月半ば、高校二年の一学期定期テストの成績は見事に学年の平均値を叩きだした。可もなく不可もなく、強いて言うなら現代文の小説単元が得意で、それを調整するかのように古典と漢文の分野が壊滅的だった。

 狭い家の中、思い思いの場所で寛ぐ子供達が、キッチンで動き回る俺に間髪入れずに話しかけて来る。

「大和兄ちゃんお腹すいたー」「大和兄ちゃん、靴下破けた」「大和兄ちゃん見てみて!」「大和兄、保護者会のお知らせ」

「はいはい順番な。飯はもうちょっとで出来上がるよ。あとで見てやるから、大人しく待ってろ。靴下とプリントは机の上に置いといて」

 親は共働きで、五人兄弟の長男の俺は、昔から四人の弟の面倒を見て育ってきた。聖徳太子よろしく彼らの言葉を聞き分けて捌く作業にも貫禄が備わってきた気がする。

 その他にはこれと言った秀でた特徴もない、普通の男子高校生だ。

 趣味は読書、推理小説が好きで、親友の犬山を誘ってミステリー研究部に入部した。

 類は友を呼ぶとは言うが、平凡な俺の周囲には何故か奇人変人が揃っていると思う。そういう人達と一緒に居ると、余計に自分の凡庸さが浮き彫りになって行くようで、時折どうしようもない居心地の悪さに襲われる。

 自分を無個性だとは思わないが、非日常性に憧れる気持ちが人一倍強く、野次馬根性はそれなりに豊富だ。

 そんな思春期特有のジレンマに陥り、自己の肯定を求めて、我が心の癒しである大親友の犬山晃紀に相談した。

「キャラを濃くしたいってこと?」

「うーんまあ、そうと言えばそう。違うと言えば違う?」

 若干異なる気もするが、首を傾げて聞き返してきた犬山の言うこともニュアンスはあっているので曖昧に肯定した。

「じゃあ、大和はそれでいいと思う。普通の大和」

「普通ねえ。まあ、下手にイメチェンしたところで、人柄が変わるわけでもないしな」

 犬山は大きく首を振る。揺れて広がる長めの髪が、犬の毛のようで庇護欲を掻き立てられる。

「そうじゃなくて、大和はそのままで十分大和だから」

「ん? どういうこと?」

 単に俺の理解力不足なのだろうが、犬山は豆柴のように短い太眉を寄せ、目線を彷徨わせながら言葉に迷う。眉間の皺が気になって人差し指でグリグリと軽く刺激すると、犬山は目を細めて今にもクゥンと鳴き出しそうな表情をする。

「大和は優しい」

「おう、ありがとな」

「フツーに、当たり前に人に優しくするのって、実は結構ムズイ」

 言葉を選び終わった犬山は、俺の目を真っ直ぐに見つめて来た。こういう時のこいつの目は、相手の目を奪う魔力を秘めていて、全く逸らせなくなる。

「みんながフツーにやろうって思うことを、大和はいつも当たり前にできてる」

 そう言って、今度は犬山は俺の頭をそっと撫でた。

 胸の内に込み上げて来るものを感じる。いつも甘えたがりな癖に、実は人を甘やかすのが誰よりも上手い。こいつが親友で良かったと、思わされる瞬間が比較的短かい付き合いの中で何度あったことか。あ、やばい。涙出そう。

「ああもう! 俺お前のせいで犬派になったんだからな!」

「ええ、俺犬苦手、なんかめっちゃ吠えられるし」

「犬って道で他の犬に会うと凄い吠えるもんな。それと一緒なんじゃね」

「俺は吠えないもん。ていうか、そもそも犬じゃないし」

「部活行くかあ」

「昨日の謎解きの続きする?」

「あれ難し過ぎだろ。あっ、一年共を試してやろうぜ」

「後輩いびり良くない」

 俺の悩みは解決していないけど、一先ずはこのまま、普通の兎林大和でいようと思う。

 部室に移動し、謎解きゲームをしていると、頭を使って疲れた犬山がゴロゴロと俺の膝に転がり始めた。その様子を見ていた辰巳が、折り畳み机を片しながら言った。

「兎林先輩って、なんか安心感ありますよね。包容力というか、お母さんみたいな」

「お前、先輩に向かって何言ってんの」

「え、あ、ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃないっす!」

 相変わらずのキツイ言い方だが礼儀を弁えた烏丸の言葉に、他意はなかったのであろう辰巳が慌ててフォローを入れようとする。

「あはは、お母さんかあ。よっしゃ、お前らまとめて甘やかしてやる」

 変わった褒められ方をされたからか、俺はついつい調子に乗って一年生二人と犬山をまとめて抱きしめて頭をぐしゃぐしゃにしてやる。

「わ、ちょ、先輩、これセクハラじゃないですか」

「あはは、姫ちゃんちょっと嬉しそう」

「嬉しくないし!」

「お! 楽しそー! 俺も混ざるー」

「何事ですか」

「猪木も混ざれって!」

 ノリのいい無邪気な部長の乱入で、その下敷きになって倒れ込んだ俺達が暴れ、カーペットが本来の位置から大幅にズレて埃立つ。

 個性的な先輩と後輩がいて、弟達に慕われて、親友が認めてくれる。

 普通って、意外と悪くないかもしれない。




 SIDE 王子


 王子様みたい。格好良い。イケメン。背が高い。男らしい。紳士的。

 私にかけられる褒め言葉は大体こんな感じだった。

 人に褒めてもらえるという事は誇らしいし、ましてや容姿を認めてもらえるというのは喜ばしい限りだ。しかし見た目だけならまだしも、内面まで男性的な高評価される事もあり、私は理解に苦しんだ。

 いい加減自覚すらある私の無愛想っぷりと言ったら、一時期は表情筋のマッサージを試みた程だ。

 身長はクラスの男子のほとんどよりも高く、当然女子の中ではダントツで、中学の頃はソフトボール部に所属していたという要因も大きく、ロングヘアーよりもショートヘアの方が楽という固定概念が抜けきっていない。

 スカートを履いていても、性別を間違えられることが多々あった。中性的を通り越して男性らしいのだと、自分の特異な容姿を改めて認識させられる。

 そんな私を女の子扱いしてくれた唯一の人が、牛月忠さん、私の『恋人』だ。

 高校一年生、体育祭準備に追われる六月の学校の廊下で、体育委員の女子数名でポスター張りの作業をしていた時のことだった。高い位置に掲示をするのは、必然的に長身な私の仕事となっていて、私も役に立てるのならそれで構わないと思っていた。

「ありがとう明!」

「流石、格好良い!」

「顔だけじゃなく性格までイケメンとか、そこらの男子とは比べものにならないよね」

 二段の脚立に乗っているので、いつもよりも更に下の方に見える女子達の自分を持ち上げる声が少し照れ臭く感じた。私は彼女らを半ば追い払うようにして、残りのポスターが入れられた段ボール箱を取った。

「これ、あっちの廊下に貼ってきてくれるかな。低いところだけで大丈夫だから、ここは自分に任せていいから早く終わらせて一緒に帰ろう」

 要件をまとめて簡潔に言い放った筈が、女子達は興奮気味に黄色い悲鳴をあげてダンボールを運び去って行く。

 そういえば、あの頃はまだ一人称も「私」ではなく「自分」だった。周りからのレッテルやイメージのままに、求められる通りの振る舞いをしていた。

 一人きりになった下駄箱前の掲示板に、もう一つの重いダンボールを抱えながらポスターを貼っていく。脚立が少々グラつくが、床と大した距離でもないので、着地は容易だろうと舐めてかかったのが仇となった。

「あ」

 ダンボールからはみ出したポスターを拾おうと体幹を崩した瞬間、一層脚立が揺れて空を蹴り、自分の足場がなくなったような感覚に陥った。いや、私が足を踏み外したのだ。

 咄嗟に抱えていたダンボールから手を離して頭を庇おうとするが、床に叩きつけられるはずのポスターが空中で静止した。それどころか、私の身体も同時に誰かに支えられたようだ。

「大丈夫か? 女子一人で危ねえな」

 私の肩は大きな手で力強く握られ、こめかみには固く厚い胸板が当たっていた。少し上を見上げると、ワックスでガチガチに固めた髪が特徴的な男子生徒が中腰の状態で私を支えていた。はだけまくったワイシャツの隙間に覗くデコルテラインがセクシーで、柄にもなく見惚れてしまったのを覚えている。

「すみません」

 ポスターは彼が上手いこと片手でキャッチしてくれたようで、破れたり折れ曲がることなく無事に回収することができた。

「ん? いいっていいって、これそっちに貼るのか? 任せろ」

 そう言って脚立の一段目に足をかけた彼の広い背中が逞しくて、心臓の音は鳴り止まなかった。吊り橋効果ならぬ脚立効果だろうか。

 彼は危なげなく脚立に上ると、手際よくポスターを掲示板に貼ってくれた。

 お礼を言うと、軽く手を振って去って行ったその人の背中や、歯をむき出しにして笑う無邪気な笑顔が目に焼き付いて離れなかった。それが恋だと気づくのにそう時間は要さなかった。

 悶々と考え込むのも、恋煩いに悩まされるのも自分の柄ではない。

 告白を思い立ってから実行する迄にかかった時間はわずか一日、校舎裏に呼び出して誰にも邪魔されずに気持ちを伝えようと決めた。テンプレートと言われようが構わない。

「突然の呼び出しに応じて頂きありがとうございます。自分は一年二組の猪木明と申します。先日は危ないところを助けて頂き、どうもありがとうございました」

「え?」

 キョトンと目を丸くした牛月先輩は、やはり一度邂逅しただけの私のことなど記憶に留めていなかったようで、予想の範囲内とはいえ少し残念だった。

「わざわざお礼言いに来たのか? 律儀な奴だな」

「それもありますが、主な要件は告白です」

 アーモンド型の丸い目を更に丸くさせて、牛月先輩は私を見つめた。

「貴方に私を好きになって頂きたいので」

 そのまま勢いに乗った私が追い討ちのようにそう言うと、彼の頰は瞬く間に紅潮して、手をバタバタとさせて慌てていたのが少し可愛らしかった。久々に自分の事を私と言った違和感も相まって、少し言葉に詰まった。

「えっ?! お、おう! マジか!」

「はい。マジです。貴方のことが好きです」

 思わず返事をしたが、最後に改めて好きと言葉にする必要はあったのだろうか。いや、羞恥を高めただけだったように思える。外面のテンションの起伏が激しくない為か、内心の焦りと緊張が半端ではない。

 返事が怖い。

 目を逸らしてはいけないと思うのに、首が勝手に俯いた。

 しかし、私の不安を他所に彼は即答した。

「うおお、俺告白とかされたの初めてだ! ありがとな! 俺もお前のこと好きだ」

 好きだと言ったら、好きだと返された。

 至極当然な流れにも思えたが、あまりにもあっさりとした想い人からの返答にひどく驚かされた。

 何を言うかは考えてきたが、答えを頂いた後のことを考えていなかった。

 唐突に風が吹いて、私の短く切り揃えた髪が少し暴れた。鼻腔をくすぐった風の香りは普段より爽やかで、牛月さんの背後に見える青空は一層眩しく見えた。

 思考はとっくに停止して、言葉など出て来ないのに、そんなことよりただこの光景を一生目に焼き付けておきたいと願った。目に見えるものだけではなく、匂いも、温度も、気持ちも、全部忘れたくないと思った。

「マジで、嬉しい」

 牛月さんの満面の笑顔が私に向けられるという幸せに浸り、世界にすら感謝した。

 その後余韻に浸る間も無く、当時ミス研の副部長だった牛月さんに勧誘され、忙しい日々を送ることとなった。名前の通り素直で自由奔放な牛月さんに振り回されて、副部長を引き継いだ今でも牛月さんへの想いは薄れることなく、交際は順調に進んでいる。いや、一年経ってもキスの一つもしていないこの状況を、進んでいると言うか否か、判断に戸惑うところだが、私は幸せなので良しとする。




 SIDE 部長


 一年前、高校二年の七月の始め、人づてに呼び出しをくらった俺は、人気のない旧校舎の庭で、ミス研の先輩から託された知恵の輪に悩まされていた。複雑に捻れた金属の塊は、ほんの少しだけズレたと思いきやすぐに元の位置に戻ってしまう。

 硬くて細い花壇の淵に座っていたので、尻が痛くなってしまった。四つに割れたら大変なので、知恵の輪をポケットに突っ込んで立ち上がり、生い茂る青々とした草花を足で踏みながら、整備されていない雑然とした地面をウロウロとして、まだ来る気配のない待ち人のことを考えてみる。

 俺の中の校舎裏のイメージといえば、心霊スポット、タイムカプセルを埋める場所、背後から襲われる、上から何かが落ちて来る。ミステリーマニアの想像は膨らむばかりだ。

 程なくして彼女はやってきた。結局解けることのなかった知恵の輪は再度ズボンのポケットに押し込んで、俺から少し距離を開けて立ち止まった彼女の方を向き直した。

 俺が用件を訪ねる前に、彼女は予め用意していたのであろう言葉の羅列を読み上げるように一息で言い切った。

「突然の呼び出しに応じて頂きありがとうございます。自分は一年二組の猪木明と申します。先日は危ないところを助けて頂き、どうもありがとうございました」

「え?」

 綺麗に伸びた背筋を崩すことなく、腰を曲げてお手本のような丁寧なお辞儀をした猪木に、呆気にとられた俺は思わず情けない声を出してしまった。

 女子にしては長身で肩幅も広いが、俺のようなガタイのいい男と比べるとやはり華奢で、凛々しい切れ長の目にかかる睫毛はとても長く、形の良い眉は一見すると気難しそうに見えるが、顔のパーツの一つ一つが絶妙なバランスを保ち、可愛らしさよりも大人っぽさが目立つ妖艶な雰囲気すら感じさせる美麗な顔立ちの少女だった。

 一度目は一瞬しか顔を合わせなかったが、改めて正面から見つめると、彼女の洗練された美しい容姿には感嘆すら覚える。

 一目惚れならぬ、二目惚れというやつだった。

 息を飲んで見惚れていると、彼女は俺が先月の件を覚えていないと思ったのか、丁寧に捕捉してくれた。

 そのまま一言二言交わすと、どうやらわざわざその件の礼を言いに来てくれたようだ。

 真面目で律儀、顔も性格も良い子だと人格にも好印象を抱いていたところで、彼女の口から予想だにしていなかった言葉が出て来た。

「貴方に私を好きになって頂きたいので」

 それは顔を赤らめることすらせずに堂々と告げられた。

 淡々とし過ぎた告白に、俺は何故か心臓が爆発しそうなほどに興奮したのだ。

 テンションが上がりに上がって、その後は何を口走ったのか覚えていないが、殆ど二つ返事で交際を始めたと思う。

 その後も何も考えず、俺は浮かれた衝動に身を任せて気持ちを口に出していた。

 大輪の花が咲く瞬間を見たら、こんな感動を覚えるのだろうか。

 満面の笑みというほどの大きな変化はない。

 それでも口元を綻ばせて、ほんのりと桜色に染まった頬と、細められた黒曜色の目が、俺の心と意識を掴んで離さなかった。

 全身の血液が沸騰して、早鐘を打つ鼓動が猪木まで聞こえてしまいそうだ。

 好きだ。

 俺は彼女を心から愛おしく想った。

 その時知った感情は、少し時を経た今でも変わることはなく、俺の心の隙間を埋めていた。

「先輩の名前って、ただしではなく、すなおと読むんですね」

 付き合い始めてしばらく経った頃、猪木にそう指摘されたことがある。段々と距離感も掴めて来て、自分の話やその日の出来事を報告し合ったり、一緒に帰宅するようになっていた。

「おう。爺ちゃんがつけたんだ。文字通り素直とか、真心とか誠意って意味があるらしいぞ」

「名は体を表すと言いますが、ここまでの人は初めて見ました」

 相変わらずの真顔だが、大好きな祖父が付けた自分の名前をそんな風に褒められて悪い気はしない。

「そうか? 明ってどういう意味だ? 明るい?」

「はい。自分らしくはないかもしれません」

「すげえ! ぴったりじゃん!」

「そうですか? あまり明朗快活な性格ではないと思うのですが」

「性格っていうか、空気?」

 確かに彼女は活発ではない。

 けれど俺はしばらく彼女を見ている内に、確かに明るいという印象を受けた。それはとても形容し難い、強いて言うなら彼女の纏う独特の雰囲気に照らされているような感覚で、不思議そうに首を傾げた猪木にどうにか伝えようとする。

「煌々とした明るさっていうか、お前の周りっていつも人がいっぱいで、みんな楽しそうだろ? それを見ていると、なんか眩しいなって思う」

 少しだけ表情筋を動かした彼女は、俺の言わんとしたことが伝わったのか、「馬鹿な人ですね」と前を向き直して少しだけ微笑んでくれた。

 三年生になって進路と共に将来を具体的に想像した時、俺は二人でずっと一緒に居る未来を願った。

 先を見据えて行動ができる猪木は、年下とはいえ俺の何倍も色んな事を考え、様々な可能性を夢想するだろう。それでも、彼女は選んでくれると信じている。迷う事なく俺に想いを告げてくれた彼女なら、馬鹿正直だけが取り柄の俺を選んでくれる。

 彼女と俺との二人で生きる未来、はっきりと見えたそのビジョンに、俺は何の疑いも抱いてはいなかった。

「猪木」

 それなのに何故、猪木は動かない。目を開かない。俺の声に応えない。

 彼女の決して豊かではない表情を、ちゃんと読み取れるようになった筈なのに、俺には今、彼女の端正な顔からは何の感情も伝わってこない。

 窓際の天井のダクトに捻れた布が巻かれ、部室の中央の天井に固定されたスクリーン用のカギ状の釘に引っかけられた縄と固く結ばれていた。その先にぶら下がるように宙を浮いた彼女が現実の世界の存在だと信じられるまでに、俺はどれだけの時間静止していたのだろう。

 やっと足が動いた時、目の前にある机の上の、猪木の足元に晒されるように置かれた紙に気がついた。


『私を殺したのは誰でしょう』


 すっかり見慣れた、猪木の丁寧な筆跡だった。

 猪木、お前は何を伝えようとしたんだ。

 俺はお前の言う通りちょっと馬鹿な奴だから、言ってくれなきゃ分かんねえよ。

 俺の咆哮の如き叫び声に、校舎中から人が集まって来た。

 俺はただただ泣き叫んでいた。猪木に触れることもできず、誰かを呼ぶこともできず、冷静さなどカケラもなく、現実を受け入れられずにいた。

 いつか事件に遭遇したら、名探偵やベテラン刑事の如く颯爽と捜査して解決してやる。そう豪語していた俺は、なんて考えなしだったのだろう。

 俺の中で、神様は皮肉げに笑った。お前の大好きなミステリーだぞって、ケラケラと笑っていた。

 恐ろしい事に、その神様は猪木そっくりの姿をしていた。

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