「先生、何だかどんどんお洒落になっていきますね」

彼女が声をかけてくれた。私は内心ドキリとした。うまく表情は作れただろうか。そんな不安を隠しつつ私は応答する。

「そうかな。年も年だからどんどんみっともなくなる一方だろう?だから出来るところから整えようと思ってね」


これは嘘になるんじゃないかと一瞬ひやりとした。しかし、彼女によく思われたいがために整えているわけだし嘘じゃないだろう…結局リストバンドはブザーも鳴らさず、私の下に警察官が来ることもなくなった。嘘もろくにつけない世の中じゃ恋愛もろくにできないんじゃないかとこの年になってやっと気が付いた。

「でも先生ブランドがばらばらだけど、なんかこだわりとかあるんですか?」

盲点だ。そうか、普通のひとはブランドを統一するのか。

「いや特段意味はないよ。はは、あまり服には詳しくないものでね。あ、もし良かったら今度授業前にでも、服を見るのを手伝ってくれないかい?」

私は顔に心の緊張が出ないように必死だった。

「はい、いいですよ」


恋愛をする人は大変だ。嘘か嘘じゃないか微妙なラインの発言に充ち溢れているじゃないか。彼女と約束を取り交わした後、私は近くの革製のソファーに深々と座り込んだ。かねてよりカント倫理学に深く傾倒していた私は自身の思想に、疑念が湧いた。バタイユの侵犯する思考ではないが何がよくて何がよくないのか、よくわからなくなる。疲弊しきった私は、しかし、悪い気分ではなかった。いやむしろ私の中に何か脈打つ感情があるのが分かった。恥ずかしい話だ。50にして初めて恋愛などと言うものを経験するのは。枯山水にも花は咲くのだろうか。

その時の彼女の笑みを私は忘れない、いや忘れられないだろう、私は彼女を殺したのだから。


そのあと私たちは逢瀬を重ねた。一応は大学の教授と生徒だ。違法ではないにせよ、周りに知られてあまり気分がいいことにならないのは容易に想像がつく。いろいろな場所にいった気がする。一緒にご飯を食べたり、服を買ったり。彼女の好きなブランドを教えてもらった。妙な色をした食べ物苦手だというのも聞いた。その間、彼女がゼミ生の他の男子生徒と付き合っているなどという噂も聞いた。そのせいで一時は何も手につかなかった。彼女と会っているときでも上の空だった。この目の前にいる彼女が他の男の腕の中で眠っているのかもしれない。それは一週間前か、それとも、昨日か、いや今朝がたかもしれない。そういえば、いつもと匂いが違う気がする。私の頭はおかしくなりそうだった。


そのゼミ生の男は成績も芳しくなかった。発表も適当で、知識も曖昧、引用文献などろくに読まずネットサーフィンで得たであろう知識のパッチワークを恥ずかしげもなく私に提出するような男だった。にもかかわらずその男はもてた。同性の私からしても男前だった。それに話もうまく、お洒落で、なにやら香水のにおいをいつもさせていた。私は平気で生徒がダメであるならば単位を落とし、留年をさせる。それこそが誠実さであり、それもまたカントの考えに沿うものであると私は考えていたからだ。しかし、その男の単位に関しては判断しかねていた。大学4年生の夏の時点でバイオ系の大企業からの内定を得ていたので、単位欲しさにでも真面目にゼミに取り組むかと思ったら、そんなことはなかった。相変わらずの体たらく。単位取得当落線上にいるのに暢気なものだと考えていた矢先、彼女との関係の噂を耳にした。私の中の悪魔がささやいた。ここで彼の単位を落とせば、留年し、大企業の内定は取り消し。そんな男を彼は見捨てるんじゃないかと。ここで本当ならば彼女に真相を確かめ、場合によってはあきらめ、場合によっては自身の気持ちを伝えることが全うだったのだろう。しかし、初恋の私にはそんな発想はなかった。いや無かったというより無理やり抑え込んでいた。


しかし、そんな私にも良心があった。やはり公平に判断しなければという良心だ。この良心と利己心は葛藤を繰り返した。そして下した結論はこうであった。

「なあ」

私は授業のあと彼女と大学の食堂で昼食を取っていた。

「なんですか?」

彼女はいつもの笑みで私に返答をした。そんな顔で見つめないでほしい。今から私は卑劣な行為を行うのだから。

「ほら、彼いるだろう。大企業から内定をもらっている彼」

「あぁ、はい。いますね。あれまたなんか提出忘れとかしてました?もう、ちゃんと出すように言ってるのに」


心がずきりと痛んだ。しかし、踏ん切りがつく。

「いや提出忘れとかじゃなくて本当は単位取得させるかどうか悩んでいてね…出席率はそこまで悪くないんだが、あまりに発表がひどかったものだから」

そうつまりは、ここで彼の将来が暗いものだと彼女に伝え、別れさせ実際には彼には単位を取得させ卒業をさせるという事にしたのだ。実際問題嘘をつかず、そして角を立てることなく、そして私の望みをかなえるにはこの方法が一番であるように感じられた。

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