「1件の未読メールがあります」

人工知能を搭載したタブレットからメールの到着を知らせるアナウンスが流れた。誰だろうか。チャットの知り合いか、それともバーチャル居酒屋(部屋全体に機械より映像をおとしこみ、部屋全体が居酒屋のようになる。同時に同じソフトウェアを使用しているものがいた場合、まるで居酒屋にいるように会話ができるのだ。もちろん酒もバーチャルであるが人間の脳は騙され、酔う)で知り合ったものか、それとも旧来からの友人か。


「読み上げて」

私がそうタブレットに言うと「うぃーん」という機械音を立てながら読み込み始めた。どれだけ技術が進歩しても機械音はなる。その妙にアナログな感じが私にはおかしかった。メールは妻からだった。

「今日晩御飯はカレーがいい」

それだけのシンプルな内容。そうだ、そういえば今日の当番は私だった。カレーは簡単で助かる。何せお湯の中にカレーのキューブを入れ煮るだけ。私は椅子から立ちあがり台所に向かう。棚に掛かっているカレーのキューブが入った袋を取り、フライパンに水を入れ、キューブを放り込む。瞬間沸騰ボタンを押せば後は10分待つだけ。世の中便利になったものだ。


私はカレーができるまでの間暇つぶしに再びテレビをつけると、ニュースがやっていた。そこでは政治家の虚偽発現に関するニュースが流れていた。この人は権利を行使しなかったのだろうか。捕まるぐらいなら権利行使すればいいのにと心の中で思う。嘘をつかなくしかし、嘘を一度しかつけないという事はどういう影響を及ぼすのか。哲学者である私は、考え事をするときのいつもの癖で顎に手をやった。


逆説的な事だが私には、この法律ができる前よりもより人々の心に猜疑心が植え付けられているように感じる。なぜか。この法律ができる前、人々はいちいちコミュニケーションを取る際に相手が嘘をついているかどうかなど疑いもしなかった。しかし、嘘が「法律的に」認められることになるとその存在感が増す。すなわち「今相手は嘘の権利を行使したのではないか」と疑い深くなるのだ。当然とりとめのない会話ならよい。しかし、ほかのさまざまな重要な場面においては別である。本当の事を相手が言っているのか、そう疑ってしまうのである。しかも嘘の権利を行使したことがあるかどうかは他の人には一切分からない。相手の発言が嘘かどうかわからずリアリティを失いバーチャルなものに感じる。発言だけに限らない。社会学者ジャンボードリヤールも言っていたが、オリジナルなきコピーが席巻すると世界はバーチャルなものだけになり、リアルとバーチャルの境界が分からなくなる。彼の発言はまさにこの現状を予期しているようである。相手の発言はドラゴンのようなものだ。バーチャルだとは分かりつつもしかしそのリアリティが妙に感じられるドラゴンの様なものに私には感じられた。幼少期のころから好きだったドラゴンが低い咆哮を上げていた映像を思い出した。



「高温注意、高温注意」

コンロの方から機械的な音声が聞こえた。いつもの悪い癖だ。考え事が始まると他の事を忘れてしまう。

火を止め、カレーの出来具合を見る。グリーンカレー味がたしか妻は好きなはずだった。妻が戻ってくるまで、私は仕事を続けることにした。


「ただいま」

「おかえり」

いつものように彼女は疲弊しきった顔で帰宅した。この彼女だって本当は、アンドロイドに入れ替わっていて、それと分からないようになっているのかもしれない。アンドロイドだって今となっては、一見して分からないレベルにまで進化しているのだ。チューリングテストなど過去の問題であり、今となっては教科書の片隅を占めるだけなのだ。むしろ問題はJ.サールの「中国語の部屋」のような物かもしれない。我々は中国語の部屋の外から中をのぞけないまま、コミュニケーションをするしかない。しかも、その中国語の部屋は嘘をつくかもしれないのだ。科学は進歩しても、哲学の問題は山積みだなと、益体もないことを考えながら、彼女に風呂に入るように促し、自身はリビングに向かった。


器にカレーとご飯を装い、机の上に置いた。テレビのニュースはつけっぱなしで芸能人が虚偽の陳述に関し謝罪をしていた。結局のところ、虚偽の申告にしてみても、罰金100万円または懲役5年であり、執行猶予も付く。そのためリスク換算をして嘘をつくものもいる。そう、うそをついたとしても、うその内容は個人情報保護の観点から明かされないのである。これもまたバーチャルな世界に拍車をかける。彼や彼女は嘘をついた、しかし、嘘をついたことが分かってもそのうその内容が分からない。つまり何が嘘だったかはわからないのである。不気味だ。科学は霧を払うかと思ったが、むしろその濃霧を巻き散らかしているようである。

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