ただ生きた、私


 幼い私はある日、夢を見た。

 

 螺旋階段から突き落とされてハッと息をのんで目覚めた。暗闇の中の白い螺旋階段から、何者かに突き落とされた。

 その夢を繰り返し何度も見ていた。いつも一体誰が突き落としているのか気になっていた。そして怖かった。



 ある日、ついに顔が見えた。見えてしまった。

 


 突き落としたのは母だった。


 顔が見えてからは一度だけ同じ夢を見たが、それからはもう見なくなった。



 確か、保井育園〜小学生くらいの時期に見ていた。

 幼い私は、それが母だとわかったときにひどくショックを受けた。

 「お母さんのこと嫌いじゃないのに」と申し訳なくて、バレたらどうしようと、罪悪感を抱いた。




 私は子供の頃の記憶があまりないのだが、怖かったことや苦しかったことをたまに思い出す。人間とは切ない生き物で、悪い記憶ばかりよく覚えていてしまうものだ。



 高校生になる頃まで、私は怒られる時いつも叩かれた。母は身長が高いし、強いので、とにかく怖かった。

 母の、恐ろしいほど怒り狂った顔や声は、脳裏に焼き付いている。世の中で一番怖いものは母だと、ずっと思っていた。

 いつかナイフで刺されると本気で怯えていた時期があった。だから母がキッチンに立つのが怖かった。

 母からすると私の羽目のハズし方がありえないらしく、抑えが効かないらしかった。「どうせクソババアと思ってるんだろう」「お母さんがいじめてるとか言うんじゃないだろうね」などとも言われた。一度も思ったことがなかったし、怖すぎて友達に母のことを悪く言うことも一度もなかった。


 私は昔からおてんばで、男の子みたいにやんちゃで、目が離せない子だった。母とは真逆の性格だと思う。

 なので母からすると毎回ありえないことを私はしてしまうのだ。そしてそんな私は、母の憎んでいる”ばば”と重なってしまったのだろう。


 今でも覚えているのは、中学生の時の出来事だ。

 まだ携帯なんて買ってもらえなくて、親の携帯である男の子と連絡を取っていた。その子はあまり素行の良い子ではなくて、あの子とは連絡を取るなと言われていたが嘘をついて連絡を取った。ある時、送られてきた写真にタバコが写っていた。

 ある朝登校前にご飯を食べていたときだった。手に抱えていたご飯茶碗が、背中を蹴られた勢いで宙を舞った。

「あんた嘘ついたやろ。」

 尋常じゃない怒りを感じて、私は「終わった」と思った。

 あのタバコの写った写真から嘘をついて連絡をとっていたことがバレたのだ。そこから何回往復ビンタされたかわからない。怖くて、泣き叫んで壁まで逃げた。狭い家ではすぐに逃げ場がなくなった。何度も叩かれるうちに爪が当たっていたようで顔が数箇所切れた。髪を引っ張られて、何度も蹴られた。部屋にあった物たちは散らばった。

 流石に、あまりにも腫れて怪我した顔で登校したため、友達が心配してくれた。学校だけが救いだった。割といつもそうだったが、学校が、私にとって「また怒られる」という恐怖に怯えなくて済む場所だった。

 あの日以上に家に帰りたくなかったことはそれまでなかった。

 帰ってからも叩かれた。自分が悪いことをしたのだから、もうどしっと構えて、叩かれて罵声を浴びるのを耐え抜くしかなかった。

 私は叩かれている途中から、「物」になった。



 これ以外でも、1日に一回は必ずといっていいほど怒られていた。

 何を言っても悪い方向に勘違いされるし、何も信じてもらえないし、「おまえは何でこんなにもできないんだ」と、毎日のように自分ができないやつであることを教えられた。

 私は母に好かれている気がしなかった。兄に対する怒り方と、私に対する怒り方が違うなと思っていた。


 ある時から、「あんたはお母さんのことが嫌いなんだろう」というふうに怒られ始めた。それは違うと何度言っても信じてもらえなかった。辛かった。どうしてこんなに、何を言っても分かり合えないのだろうと焦れったかった。


 怒られた後に笑ってみた日があった。反省はしていたが、怒られた後、子供的にどうすればいいか分からなかったのだ。笑っていたら、「あんた反省してないやろ」とまたさらに怒られた。それから私は笑わないようにした。


 中高のとき、友達と遊んで帰った後は、必ず怒られた。もう何で怒られたかも覚えていないのだが、「あんたはいいよね、遊んでいればいいんだから。」と言われた。私は遊びに行くのが嫌になってきた。クリスマスにも言われたことがあったので、クリスマスの日はもう絶対外に出ないと決めていた。

 そして、家の中で母より幸せに見えないようにしなければいけないと思い、楽しかったことを話したり、笑ったりできなくなった。


 私が中高校生の時、母はとても疲れていた。毎日毎日ずっと「疲れた」と言って、口を開けばため息をついていた。それが私に伝わって毎日どっと疲れた。お腹がいたんだし、毎日体が痒かった。

 あるとき私が「疲れた」とつぶやき動かなかったら、「あんたの何が疲れてるの。」と言われた。私はその日から絶対に家で「疲れた」と呟かないと決めた。


 私は小さい頃から、基本的に家に一人のことが多かった。母が朝から晩まで私達を育てるために働きに行っていたからだ。学校などから家に帰るたび、何回かに一回は、母がトイレやお風呂で自殺しているのではないかと不安にかられ、恐る恐るトイレとお風呂を除いて、ようやく家で落ち着くことができていた。何故だかは分からないのだが、母の精神が疲れ切っているのを感じていたのだと思う。


 小学五年生の頃から、私は、嘔吐恐怖症になってしまっていた。

 そのきっかけとなった日は、雨でどんよりとじっとりとしていた。大好きな文房具屋さんに行く日だった。行きがけから気分が悪かったが、我慢していた。そして、文房具屋さんをすませ、帰りに家電屋さんに寄っているとき、気持ち悪さはピークに達していた。そうすると、「またこの子は、むすっとして。」と母と兄に呆れられた。気分が悪いと言ったら怒られそうでいえなかった。

 ようやく家に帰った。その瞬間ついに嘔吐した。そして数時後、ありえないくらい何度も続けて嘔吐した。私は目をぎゅっとつぶって、涙を流しながら必死に吐いた。

「外に出たい、外の空気が吸いたい..!!」と震えながら玄関のドアを開けた。夜だったので、「何してんの!早く入りなさい!」と言われた。

 その日の嘔吐がトラウマになってしまって、毎日毎日目をつぶるとフラッシュバックして眠れなかった。ご飯を食べたらまた吐くのではないかと思って、ご飯も食べれなくなった。夢にまで出てくる。

 もともと家族との外出や外食は苦手だったが、その日からそれは更に不安なものになり、「あんたのせいでいつも雰囲気が悪くなる」と言われるようになってしまった。

 ”吐く”という行為が怖くて怖くてたまらないのだ。

  その時から私の怖いものは母と嘔吐になった。

 

 私は病院に連れて行かれた。その時は気づかなかったが精神病院だったと思う。そういうものに疎かった私は、何も考えずについていった。お医者さんから、「家族と一緒にお話するか、私と二人でお話するか、どっちがいい?」と言われた。私は「家族と。」と答えた。本当の私の答えは「家族のいないところで。」だったと思う。

 

 私は独りでいることでトラウマやパニックを随分抑えることができた。家族や他人といると不安が募り、結局パニックになったり、「気分が悪い」「吐きそう」と言ったりする。


 私は次第に暗くなっていった。

 今写真を見返すと、とても暗い目つきをしているのが多かった。体のなかは空っぽのような顔をしていた。「自分は幸せになったらいけないんだ」という感情がいつもあった。不幸なほうが安心できた。


 いつも誰かに助けを求めていたと思う。辛いことに気づいてほしかったし、誰かに甘えたかった。おばけでもいいから本音を話せる相手がほしいと思っていた。

 その、誰かもおばけも現れること無く、私はやっとの思いで大人になっていった。

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23歳の私の中には母がいた 緑野仙人掌(みどりのさぼてん) @yon_

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