第7話 高野長英(2)
長英は尚歯会にて、評定所におけるモリソン号の対応のことを知り、このまま捨て置くわけには行かぬ思いを抱き、十日ばかりのうちに「夢物語」を書き上げた。
夢物語
冬の夜の更行く
(著者註・履声は履物の音で下駄の音か。碩学鴻儒は、儒家の大家や学問に深いこと)
其の内に、甲の人、乙の人に向いて言いけるは、近来珍しき噂を聞けり、イギリス国のモリソンというもの頭となりて、船を仕出し、日本漂流民七人を乗せ、江戸近海に船を寄せ、是を餌として、交易を願うよし、和蘭人、申出でしとなん、そもイギリスというは如何なる国に候哉。
乙の人、答えけるは、イギリスと申す国は、和蘭陀の北にあたり候島にて、和蘭陀の王都アムステルダムと申所より、陸上百十八里計りを隔て、順風の時は一日一夜位にて、船通行いたす所にて、国の大きさは、日本ほどもこれある由にて候得共、寒国故か、人数は日本よりは少く、総括して人口一千七百七十万六千人と申候。国人勇健、諸事に勉強して
(筆者註・浜海州灘暗礁多く、は浅瀬が広がり暗礁が多い)
左候得ば、本国の四倍にも至り申し候、其の国々の名は、一は北亜米利加と唱えて、南亜米利加の西側に御座候、二は西印度と名付けて、南北アメリカの間の島にこれあり候、三はアフリカ州の内にて、天竺の西南に当る所に候、四は新和蘭陀と申候て、日本の極南に当り候内に領し申し候、五は南亜米利加と申候て、ブラジリイ、コイネア(南米ベネズエラの東にあるガイアナ共和国)、及びカリホルニヤ辺にて、日本の東に当り候所に御座候、六は天竺の内モコル(ムガール)など唱え候国の内にて、雲南、
(筆者註・崑崙奴はアフリカ系黒人、比駢は匹敵すると同意)
支那にも、前々より交易仕り候に付、広東の
甲の人、又問うて曰く。モリソンと申す者、名の聞え候者に御座候哉、承り
乙の人曰く。随分聞き及び候者に御座候、右は元来イギリス人にて、
甲の人、又曰く。元来、漂流人の儀は、和蘭陀に托し送り遣し候様、仰せ渡らせ置き候事にて、イギリスも、和蘭陀隣国の儀には、右も心得おり申すべく、既に先年、備前の廻船イギリス領の天竺島へ、漂流致し候処、イギリス人是を和蘭陀に渡し、送り遣し候迄に候得者、船頭は何者にても然るべきの処、右様高官重職のモリソンと申す者、頭取仕り候て、送り来り候事、一向合点行き申さず候、御高見も候はゞ、御
乙の人、曰く。何様是には、深き仔細もこれあるべく候、但イギリス人に面会し承り申さず候事に候得者、其事情、確知仕り難く候得共、先づ愚見を以て
甲の人、曰く。当御代の初より、蛮国交易は、和蘭陀のみにて、他には御
乙の人、曰く。西洋諸国にては、殊の外、人民を愛憐仕り人命を救い候は、何よりの功徳に仕り候事にて、既に先年、デネマルカと申す国とイギリス戦争の砌、イギリス水軍、デネマルカの都コーベンハーカーと申す所へ、押寄せ候処、同都防禦の備、甚だ厳重にて、イギリス人大いに敗北仕り候、其節、一軍艦、石火矢の為に、大いに破損仕り、既に覆没溺死に臨み候処、イギリス人急に一詭計を考え出し、船中にてデネマルカ人数数十人捕え置き候間、右差出申すべく候に付、
甲の人、曰く。然らば如何取扱い然るべきや、尤も是は御政事に響き候事にて、容易ならざる大事には候得共、御存入も候はゞ、御遠慮なく御咄見下されたく候。
乙の人、曰く。是は国家の御政事の事、中々愚昧の賎民などの申上げ候も、恐れ多き事に候得共、
(筆者註・蒭蕘の言も採る所ある、は賤しい者の意見にも聞くべき所があるという意。蘇武張騫、蘇武と張騫は前漢の忠臣で匈奴の捕虜となる)
文化年中魯西亜の使節レサノフ、日本へ罷り越し候て、交易を願い叶わず、東国へ罷り帰り候て、申訳けこれなきを嘆き、自殺仕り候に付、其下役人ホシーウ是を恨み憤り、只一般の船にて蝦夷の騒動を生じ、国家幾多の御物入を掛け奉り候、此度のモリソンは近年、広東に罷り越し、其上軍艦を数多支配仕り、殊に日本近海に続島多く魯西亜レサノフの類にはこれなく、非法の御取扱これあり候はゞ、後来如何なる患害出来候や、実に恐るべき儀と存じ奉り候。猶又此度漂流人と唱え候は、舟方
(筆者註・蠢愚は能力を隠し持っている事。忠膽は忠誠心。木柝は拍子木をさす)
この「夢物語」は回るうちに書写されてさらに広まっていったよう
だ。これに続けとばかり、何人かが建白書を幕府に対して提出もしている。その紹介は次話にしたいが、この蘭学からくる勃興を儒者らは脅威に感じたし、老中の水野越前守忠邦や大目付の鳥居耀蔵も蘭学を抑えたいと思っていた。それを実行する機会が間もなく来るのである。
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