第7話 高野長英(2)

長英は尚歯会にて、評定所におけるモリソン号の対応のことを知り、このまま捨て置くわけには行かぬ思いを抱き、十日ばかりのうちに「夢物語」を書き上げた。


      夢物語

冬の夜の更行くままに、人語もようやくに聞えず、履声げきせいも稀に響き、風の音、妻戸を叩き、もの思う身は、殊更にねむりもやらで、独り机により、燈火ともしびをかかげて、書を読みけるに、夜いたく更けぬれば、いつしか眼もつかれ、気も倦みて、夢となくうつつとなく、恍惚こうこつたる折ふし、ある方に招かれ、いと広き座敷に至りければ、碩学鴻儒せきがくこうじゅと覚しき人々、数十人集会して、色々の物語りしはべりける。

(著者註・履声は履物の音で下駄の音か。碩学鴻儒は、儒家の大家や学問に深いこと)

其の内に、甲の人、乙の人に向いて言いけるは、近来珍しき噂を聞けり、イギリス国のモリソンというもの頭となりて、船を仕出し、日本漂流民七人を乗せ、江戸近海に船を寄せ、是を餌として、交易を願うよし、和蘭人、申出でしとなん、そもイギリスというは如何なる国に候哉。

乙の人、答えけるは、イギリスと申す国は、和蘭陀の北にあたり候島にて、和蘭陀の王都アムステルダムと申所より、陸上百十八里計りを隔て、順風の時は一日一夜位にて、船通行いたす所にて、国の大きさは、日本ほどもこれある由にて候得共、寒国故か、人数は日本よりは少く、総括して人口一千七百七十万六千人と申候。国人勇健、諸事に勉強して倦怠けんたいせず、好んで文学を勤め、工技を研究し、武術を練磨し、民を富し国を強くするを専務と仕り候て、浜海州灘暗礁多く、外寇入がたく候に付き、近年欧羅巴大乱の時に当っても、イギリスは孤立して、国民干戈かんかの災を免れ申し候。国都ロンドンと申所は、至て繁昌の地にて街方がいほう美麗、人口稠密しゅうみつにして、人口凡百万人計り居り申し候。海運の都合宜しき所にて、専ら諸方に交易をいたし、諸国に航海仕り不毛の地を開き、人民を蕃殖はんしょくし、夷人いじんを教導して、是を服従仕らせ、此節に到ては、外国領分の人数は、七千四百二十四万人と申し候。

(筆者註・浜海州灘暗礁多く、は浅瀬が広がり暗礁が多い)

左候得ば、本国の四倍にも至り申し候、其の国々の名は、一は北亜米利加と唱えて、南亜米利加の西側に御座候、二は西印度と名付けて、南北アメリカの間の島にこれあり候、三はアフリカ州の内にて、天竺の西南に当る所に候、四は新和蘭陀と申候て、日本の極南に当り候内に領し申し候、五は南亜米利加と申候て、ブラジリイ、コイネア(南米ベネズエラの東にあるガイアナ共和国)、及びカリホルニヤ辺にて、日本の東に当り候所に御座候、六は天竺の内モコル(ムガール)など唱え候国の内にて、雲南、暹羅シャムの南にて、天竺の地に御座候、七は東天竺と申候て、日本近海、南洋の諸島、無人島(小笠原諸島)近所より南の島々に御座候。以上の国々にて、夫々諸役人ども差向け、支配致され候故、其者共の乗り候船は軍艦にて、一艦に石火矢四五十門宛も備え申し候ものを造り、差遣わし候由に御座候。其船の数、二万五千八百六十四艘とか申候、其船に乗り候上役人、都合十七万八千六百二十人、下役人は四十万六千人、水主かこ崑崙奴こんろんど炊奴かしき等取集め、総括百万人程もこれあるべく、誠に似て広大なる事に相聞え申候。右故、自然航海の術、並に水軍には、殊の外熟練仕り候、外国出帆の所、次第に広大に相成り、交易の道も漸々だんだん旺盛に相成り、凡そ五大洲の内、比駢ひへいこれなき様に相成候に付、諸国の者共、これを恐れ羨み申し候由に御座候。

(筆者註・崑崙奴はアフリカ系黒人、比駢は匹敵すると同意)

支那にも、前々より交易仕り候に付、広東のかたわらに地所を給わり、商館を営み、右へ総督並に諸下役差遣したやくさしつかわし置き、年々南海諸島、並にアメリカの産物を集め、数十艘に積籠つみこみ、広東へ輸送致し、専ら茶と交易仕り、右を本国へ送り候事に御座候。然る処、イギリスは雲南、暹羅等に領分これあり、支那の属国に境を接し候に付、辺民ども擾乱じょうらん仕り、界を越え互に闘争接戦仕り候事、時々これあり候故、支那人、イギリス人を疎んじ申し候。加之しかのみならずポルトガル和蘭陀人等も、広東へ同様交易仕り候に付、イギリスの交易、盛んに相成候得者えば、自然各自己の衰微にも、相成候故、色々讒言ざんげんを構え、種々誹謗ひぼう仕り候に付、元よりポルトガル、和蘭陀は、清朝革命の頃、大切もこれあり、夫々広く地面を給わり、外ならず親受を受け候ものの儀には、右讒言を信じ、猶々なおなおイギリスは忌憚いみはばかられ、交易物取捌方さばきかたも宜からず。既に乾隆けんりゅうの末は、貸のみ日に増し多く相成、交易方、立行き申さず様に至り候。之に依り本国にても色々評議致し以来広東交易、相休み候方然るべしなど申候説もこれあり候処、近来イギリスにて、茶、殊の外流行仕り、人々相用い候儀に付、支那交易、相休み候はば、右欠乏致し、人々迷惑に相成り、且又、イギリス領南海諸島、天竺及アメリカあたり茶も多くこれあり候得共、其品、支那産には遥に劣り宜しからず、其上一旦に右間に合候程、沢山には、とても産じ申さず候に付、交易相休み候事も相成り難く、依て猶又評議致し候処、右交易方、取捌けざるの儀は、広東下役人の所爲にて、全く支那帝の意に出でたるにはこれなき様考られ候に付、其頃嘉慶帝(乾隆帝の代継)誕生これあり候得者、右誕生を賀し、貢物を北京に呈し候を名として、使節を遣わし、直に帝へ愁訴仕り候方然るべしと申す事に、一決仕り候て、本国より人物を撰出、ロルドマルテネーと申す者、其撰に当り、正使に仕り、天文、地理、医術、物産は、支那にて未熟の由に付、右に熟練上達仕り候者を撰み、同船仕らせ、右に関係仕り候書籍は勿論、諸器物に至る迄、一切相整え、其外、支那通訳の者迄も相撰み、正使副使の船各一艘、兵粮船、案内船、都合四艘にて、本国より乗出し、其序そのついで、日本、朝鮮へも交りを結びたく、国王の書翰相添え、遣し候由相聞え申し候。右にて広東交易の様子、よろしく相成り候て、近来にては、広東の西洋諸国の商館中、イギリス館尤も巨大に、相聞え申し候。

甲の人、又問うて曰く。モリソンと申す者、名の聞え候者に御座候哉、承りたく候。

乙の人曰く。随分聞き及び候者に御座候、右は元来イギリス人にて、碩学宏才せきがくこうさいの者に付、彼国学校の教授に撰まれ、俸禄五六千石に当り候程の者に御座候。此者、イギリスの支那に、嫌忌卑蔑けんきひべつせられ候を嘆き、右は全く言語文字、相通じ申さざる故と存じ、右相通じ候様仕り度存意にて、二十余年前より、広東へ態々わざわざ罷り越し遊学仕り、既に五車韵府きんふなども、イギリス語に翻訳いたし、開板仕り、漢学出精仕り、可なりに、文章も、書け候様に相成り、近年にては、余程高名に罷り成り候に付、官位も進み、職も重く用いられ、広東交易吏の総督とかに相成り、南海中の諸軍艦、一切支配仕り候由に付、少くも水軍二三万位は、撫育仕り候様、相聞え申し候。去候得者、此方の四五万石の大名位の事にこれあるべくやと存ぜられ候。

甲の人、又曰く。元来、漂流人の儀は、和蘭陀に托し送り遣し候様、仰せ渡らせ置き候事にて、イギリスも、和蘭陀隣国の儀には、右も心得おり申すべく、既に先年、備前の廻船イギリス領の天竺島へ、漂流致し候処、イギリス人是を和蘭陀に渡し、送り遣し候迄に候得者、船頭は何者にても然るべきの処、右様高官重職のモリソンと申す者、頭取仕り候て、送り来り候事、一向合点行き申さず候、御高見も候はゞ、御腹蔵ふくぞうなく、御話し聞せ下され度候。

乙の人、曰く。何様是には、深き仔細もこれあるべく候、但イギリス人に面会し承り申さず候事に候得者、其事情、確知仕り難く候得共、先づ愚見を以て臆裁おくさい仕り候に是迄数十年前より、頻りに日本へ交易を願い度趣も相聞えせめては、海上通船のみぎり薪水しんすい欠乏の節は、右のみも願い度趣たきおもむき、種々工夫仕り候由に候得共、もとより言語文字通じ申さず候方より、申上げ候事も相成り申さず、且御宥免もこれなく、唯イギリスと唱え候得者、有無の御沙汰もなく、鉄砲又は大砲にて、御打払と相成り、凡世界中、かくの如き御取扱方これなき方に候。いづれ是は蘭人私利の為、申立候て、イギリスは海賊とのみ、讒奏ざんそう仕り候故の儀と存じ奉り候、此度は、漢文自得仕り候者に命じ罷出でさせ候て、右の趣、巨細に訴訟申上げ候事と存じ奉り候。又直に罷出で候ても、御取合せもこれなく候得者、漂流人を送り来るを名目に仕り候義と察せられ候、又前以て蘭人に伝言仕り候趣にて考え候処、近き内、江戸近海に船と寄せ候者は、即ちモリソン船との儀を御知らせ申上げ候て、御打払と免され度存慮の外、他事なき様に存ぜられ候、又長崎へ罷り越さず直に江戸近海へ船を寄せ候儀は、右に申上げ候乾隆の未年、貢船のみぎり貢物殊の外手重ておもにて、広東より陸地運送相成り難く、依て北京近隣に船を寄せ度段願い候て、広東諸付役人を避け、直に其下役人の悪行等愁訴仕り候事と、一般の心組にて長崎に罷り在り候蘭人の邪魔、並に讒奏を避け候存意と考えられ候。

甲の人、曰く。当御代の初より、蛮国交易は、和蘭陀のみにて、他には御ゆるしなく、鎖国の御政道には迚も交易御免の儀は思いもよらず、兎角近付候ては、面倒に候間、打払候事に、御定めこれあり候得者、此度も、御打払これあるべくと存ぜられ候。左候はゞ先方の者共如何心得申すべきや。

乙の人、曰く。西洋諸国にては、殊の外、人民を愛憐仕り人命を救い候は、何よりの功徳に仕り候事にて、既に先年、デネマルカと申す国とイギリス戦争の砌、イギリス水軍、デネマルカの都コーベンハーカーと申す所へ、押寄せ候処、同都防禦の備、甚だ厳重にて、イギリス人大いに敗北仕り候、其節、一軍艦、石火矢の為に、大いに破損仕り、既に覆没溺死に臨み候処、イギリス人急に一詭計を考え出し、船中にてデネマルカ人数数十人捕え置き候間、右差出申すべく候に付、暫時ざんじ砲攻見合呉みあわしくれ候様、頼み入候処、デネマルカ王、是を承り詭計と存ぜられ候得共、一軍艦を殺し尽し候とて、始終全勝利と申す事にもこれなく、若し又其内一人なりとも、自国の者船中にこれあり候得者、骨肉をそこない候儀に、相当り候間、態と見合せ、石火矢を放ち申さず候内、イギリス人軍艦をつくろい逃去り候よし、相聞き申し候、右等の振合にて、考え見候得者、西洋の風俗は、たとい敵船に候共、自国の者、其内にこれあり候得者、みだりに放砲仕らざる事に御座候、然る処、イギリスは日本に対し、敵国にはこれなく、謂わば付合もこれなく他人に候処、今般漂流人を憐れみ、仁義を名として、態々わざわざ送り来り候者を、何事も取合せ申さず、直に打払に相成り候はゞ、日本は民を憐まざる不仁の国と存ずべく候。若し又万一其の不仁不義を憤り候はゞ、日本近海にイギリス属島も夥しくこれあり、始終通行致し候得者、従来海上のあだと相成り候て、海運の邪魔に相成り候やも計り難く、左候はゞ、自然国家の大患にも相成り申すべく、たとい右等の事これなく候共、右打払に相成り候はゞ、理非も分り申さざる暴国と存じ、不義の国と申し触らし、義国の名を失い、是より如何なる患害、きざし生じ候やも計り難く、或は又頻りにイギリスを恐るる様にも、考え疲れ候はゞ国内衰弱仕り候様にも推察仕り、恐れ乍ら国家の御武威も、損じ候様にも相成り候わんかと恐れ多くも考えられ候。

甲の人、曰く。然らば如何取扱い然るべきや、尤も是は御政事に響き候事にて、容易ならざる大事には候得共、御存入も候はゞ、御遠慮なく御咄見下されたく候。

乙の人、曰く。是は国家の御政事の事、中々愚昧の賎民などの申上げ候も、恐れ多き事に候得共、蒭蕘すうぎょうの言も採る所あるの古語も候得ば、恐れ多くも愚存申上ぐべく候、先づ唯今イギリス人の底意は兎も角も、彼仁義を唱え、漂流人を送り来り候とも、江戸近海は御要害の地にて着岸御免成り難く候はゞ長崎なりとも、何方なりとも、着岸御免仰せ付けられ、右漂流人御請取遣わされ、右の御挨拶として厚く御褒美、御恵み下し置かれ、まづ第一愚案には、当時和蘭陀人は、外国の耳目官に仰付けられ候得共、彼等は支那、鞭靼だったん、天竺、其の他諸国に通商仕り、何方も俗に申す得意場とくいばは旦那にて候得者、彼是に格別利害これなき儀は、御注進申上ぐべく候得共、支那、朝鮮、魯西亜、其外諸国、通商の国の動静、日本に係り候事など、申出で候得者、一方には大功これあり候得共、一方には大害これあり候事にて、他日彼が為に宜しからざる事故、右等の大事は決して申上げざる様にも考えられ候得者、今度イギリス人罷越し候こそ、幸の時節には、当時清朝、朝鮮、魯西亜其外近国の事情、御尋ね仰付けられ候はゞ、彼れ此度、一廉の功を立て候て、交易を願いたく存位十分に候得者、定めて的実詳細に言上仕るべく、左候はゞ、坐して当分、外国の真実なる事情を詳かにし、労せずして蘇武張騫そぶちょうけんを得るが如く、願ってもこれなき、国家の御大幸に候。然して彼より願上げ候儀は、一旦御聞き届け遊ばされ候て、扨交易と云う所に至り候て、国初めより彼規定の処、厳しく仰渡され、断然として御制禁の旨仰渡され候はゞ、我に於て仁義の名も失わず、彼に於ても又如何とも致すべき様これなく、恨みも憤りも仕るまじく、万事穏に相済み申すべくと、存ぜられ候。

(筆者註・蒭蕘の言も採る所ある、は賤しい者の意見にも聞くべき所があるという意。蘇武張騫、蘇武と張騫は前漢の忠臣で匈奴の捕虜となる)

文化年中魯西亜の使節レサノフ、日本へ罷り越し候て、交易を願い叶わず、東国へ罷り帰り候て、申訳けこれなきを嘆き、自殺仕り候に付、其下役人ホシーウ是を恨み憤り、只一般の船にて蝦夷の騒動を生じ、国家幾多の御物入を掛け奉り候、此度のモリソンは近年、広東に罷り越し、其上軍艦を数多支配仕り、殊に日本近海に続島多く魯西亜レサノフの類にはこれなく、非法の御取扱これあり候はゞ、後来如何なる患害出来候や、実に恐るべき儀と存じ奉り候。猶又此度漂流人と唱え候は、舟方蠢愚しゅんぐの者に候や。但又、佳成かなり文才これある者に候や。詳かならず、何様いかさま此度、モリソン罷り越し候事は、尋常の事とは存ぜられず、但し右申上げ候儀も、方今文明の御世、名君賢相、かみにましまし、御良策あらせられ候得者、申上げ候迄もこれなく候処、至愚の我輩、忌憚らず其の職にあらずして、国家の御政事を論ずる様相聞え、其罪軽からぬ事に候、強いて仰を蒙り候故、申上げ候事に御座候。尤も是は国を思う忠膽ちゅうたんより出で候儀故、深く御咎おんとがめ下さるまじくなどと、咄すを聞きいたるに、木柝ぼくたくの音にとどろき、夢覚めて見れば、今まで集会の席と思いしは、我寝室にて我に対する人もなく、燈の影いと暗く、鶏の声遥に聞え、夜もはや明なんとする有様なり、左思右想するに、是はさむるに似てさむるにあらず、夢に似て、真の夢にあらず、奇怪不思議の事にあれば、筆を採り覚えし事共を記し置きぬ。

(筆者註・蠢愚は能力を隠し持っている事。忠膽は忠誠心。木柝は拍子木をさす)

   戊戌つちのえいぬ冬十月夷日ついじつの明日


 この「夢物語」は回るうちに書写されてさらに広まっていったよう

だ。これに続けとばかり、何人かが建白書を幕府に対して提出もしている。その紹介は次話にしたいが、この蘭学からくる勃興を儒者らは脅威に感じたし、老中の水野越前守忠邦や大目付の鳥居耀蔵も蘭学を抑えたいと思っていた。それを実行する機会が間もなく来るのである。

 

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