第6話 高野長英(1)

 高野家の祖である高野佐渡守勝氏は、上杉謙信に仕え、のちに伊達政宗の重臣留守政景に客事する。それから七代目元端(氏安)に至って医術を以て君侯に仕え、元端の嗣子玄斎(氏信)は杉田玄白に入門し、のちに長英の養父となっている。元端の第三女美也が後藤家に嫁ぎ、長英ら兄弟を生む。長英は三男であり、文化元年五月五日奥州水沢に生まれた。現在は高野長英記念館がある。後藤氏も仙台領陸中水沢の武士であり、藤原鎌足を祖とする。幼名は悦三郎で名は卿斎けいさい。郷斎と伝えられるのは誤りという。悦三郎は九歳の時に父と死別し、母美也は後藤家を去り高野家に復籍したので、祖父元端と養父玄斎の薫陶を受けた。元端も玄斎もともに玄白の元で蘭学を収め、玄端は塾を開いて後進の育成にも力を注いでいた。


 十七歳の時に兄の湛斎とともに医学修行のため江戸に上った。先ずは陸中一関出自の戸田建策の世話になることになった。戸田健策は大槻玄沢の弟子であったというが、裕福な生活ではなく、まもなく杉田伯元はくげんの門に入ることになったが、杉田家の書生としては受け入れられず、通学により蘭学を学んだ。杉田伯元は、陸中一関の建部清庵の第五子であり、十六歳にして大槻玄沢と江戸へ出て、杉田玄白に入門し、蘭医術を習得した。玄白には子がなかったので、伯元を養子にしたのである。


 長英は生活に困窮していたので、身につけていた按摩術で家計の足しにして支えた。兄は漢方志願であったので、浅草で開業していた川村右仲の門に入ったが、その手蔓から和蘭内科の創始者として名高い吉田長叔ちょうしゅくの門に入る機会を得た。


 吉田長叔のことを「大日本人名辞書」の記載から見ると

「蘭方医、徳川幕府の先手同心馬場兵右衛門の第三子、名は成徳、字は直心、駒谷また蘭香と号す長叔は其の称、長淑出でて叔父吉田長粛の嗣となり其の氏を冒す長淑人となり沈静深慮にして幼より学を好み幕府の医官土岐長元の門に入りて漢方を学び後桂川甫周に従いて蘭学を受け専意研究して一理も通ぜるあれば即ち寝食を廃して以て究む長叔嘗て内科選要を読みて感を起し之を実地に試みんと欲し乃ち之を原書に徴し研覈けんかく茲に年あり当時蘭科と称するものは皆な専ら外治を主どりて傍ら内治に及ぶのみ然るに長叔独り和蘭内科を以て業を中橋上槇坊に開き物議の為に動揺せず益々力を其の業に尽す既にして果して治を乞うもの門に満ち名声大に起れり適々金沢候疾あり衆医之を治して未だ験あらず乃ち治を宇田川玄真に請う時に玄真は津山候の世臣たるを以て之を辞す候終に長淑を聘し俸二十口を賜うて翻訳の資金となす是より長叔益々訳術を勉めて泰西熱病論七巻を撰み後また其の後編五巻を撰み並びに当時に行わる

長叔また当時蘭医の或は奇を好み或は新に誇りて之を麤鹵そろに失するを病いまた和漢沿習する所の医術の誤謬を更ためんと欲し心を西洋の医書に潜め焦思苦慮十余年を経て内科解環十五巻を著す後文政七年夏金沢老候国に在りて病に罹り急に長叔を召す即日途に上り程を兼ねて之に赴き行きて越後高田に至り尚お疾に因む強いて金沢に至り竟に八月十日を以て没す年四十六(後略)」


 この頃は露国の南下騒動により我が国の北門は多事となり、さらに文政五年七月五日には英国船が常陸の海岸に現れ、いわゆる異国船の騒動が慌ただしくなり、長英も海外に興味を持った一人だった。長叔の下で才能を認められ、長英の偏名かたなをさずかった。この時十九歳。蘭和辞典「訳鍵やくけん」を手に入れ、訳述に邁進した。

(著者註・「訳鍵」は藤林普山の著書であり、約三万語が収められている)


 これから順調に進み一人前の医師と認められたが、兄湛斎は川村の門を辞して江戸において開業したが、病に冒されて、長英は昼間は町医として働き、夜は兄の看病にあたったが、看病虚しく湛斎は没した。長英は兄の亡骸を抱いて故郷の母の元へ届けた。江戸の戻った長英は再び吉田塾に戻ったが、今度はその師である長叔自身が加賀前田老公の病気の治療のため召されて金沢に向かったが、途中病を得て、そのまま客死してしまった。

 さらなる蘭学の取得を目指す長英は、長崎にシーボルトなるドイツの医学博士が赴任してきたことを聞き、当時の蘭学を目指していた医師たちが彼の医術を一目見んと長崎に集まったように、長英も長崎に遊学することを決めた。そして、文政八年(一八二五)シーボルトの鳴滝学舎に入った。この塾には熟生数十人が在籍しており、その中には江戸の湊長安、阿波の美馬順三、通詞の吉雄権之助、楢林鉄之助、医師の高良斎、戸塚静海、岡研介ら秀才連中が集まっていた。

 

 湊長安は天明六年(一七八六)陸奥国牝鹿郡湊村(現宮城県石巻市)生まれ。吉田長叔の門下生、大槻玄沢にも師事をうける。文政六年(一八二三)シーボルトの門弟となる。

 美馬順三は寛政七年(一七九五)阿波国羽浦(現徳島県羽ノ浦町)生まれ。長崎にて蘭学を学び、文政六年(一八二三)シーボルトの門弟となり、塾頭を命じられる。

 吉雄権之助は天明五年(一七八五)生まれ。鳴滝塾でシーボルトの通訳を務める。我が国最初の英和辞書「諳厄利亜アンゲリア語林大成」の編集、蘭日辞書「ズーフ・ハルマ」の訳編にくわわる。

 楢林鉄之助は吉雄と同じ通詞であるが、詳細は不明。

 高良斎は寛政十一年(一七九九)徳島生まれ。眼科医であり、文政六年シーボルトの門弟となる。

 戸塚静海は寛政十一年(一七九九)遠江国掛川生まれ。シーボルト門下生となり蘭医学を学ぶ。のちに江戸の三大蘭方医の一人。

 岡研介は寛政十一年(一七九九)周防国平生村(現山口県熊系郡平生町)生まれ。最初漢籍を学び、医学を志し、広瀬淡窓らの師事をうけ、文政七年シーボルトの門下生となる。


 この塾の研究科目は、医学は勿論のこと、動植物、鉱物、人類学、地理、歴史、法制、経済学など多義にわたり、博識の山であったので、長英の研究の熱は、火に油を注ぐが如くものとなっていった。元々蘭学に長じていたので、シーボルトの研究助手も務め、半年ほどでドクターの称号を許された。このことは、シーボルト著書の「江戸出府日記」(異国叢書 第二巻 呉秀三訳註)の文政九年二月二十六日に次のように記されている。


「二月二十六日、長門及び之に隣接する周防の国より門人・知人訪い来りて、その友人・病人を携え、贈物及び稀有の天産物をもたらせり。此等門人中優れたるものと面接するは前々よりの約束なり。彼等は余を師として学び、郷里に帰りなば、対策的論文を著わして余の江戸旅行の際に来リテ、それを手渡すべしとの条件にて、立派なるドクトルの許状を得たるなり。かかる人にはそれぞれ問題を授けしが、そは毎常日本並びにその近国・属国の国土学・国民学又は万有学に関して従来余り欧西人の知らざる有益なる事共に就きてなり。今日受取りたる論著は河野かわのコサキの「長門・周防地理学的統計学的記述」、杉山ソウリウの「海塩の製造法」、ブンキョウの「多く用いらるる染料及び織物の染方に就いて」、高野長英の「鯨魚及び捕鯨に就きて」、某の「日本に於ける稀有なる疾病の記述」、某の「日本に最もよく用いらるる薬剤の品目」等なりき。

かくの気負いたる人々が、余の依托に心を籠めて、師を慕う濃情と学に励む篤志とあること余を感激せしめたり。余は此の人々に対し短き演説をなし、今後とも余の万有学的其他の研究を益々増進すること、欧羅巴の学問を日本国に普及することを求めて、之を奨励し、自分も人々のためそのることに協力し、之を支持すべきことを約したり。

上に云いたる如く、医師たちは各々其地方より病人を伴ない来りて、その数も多かりし故、混雑せぬ様、くじを引かして、診察・手術の順序を定めたるが、黴毒ばいどく・万病の恐ろしき程の症・癌腫・瘻孔ろうこうの如き症・治療をゆるがせにせし症・種々の眼病・悪液症等は毎日見る所なり。幾多の手術は奏功して、門人への教訓隣、又居並ぶ人々を驚嘆せしめたり」


 長英が鯨についての論文でドクターの称号を受けていたのも興味深いものがある。この論文を著すことはシーボルトに指示されたらしく、西洋の捕鯨事情からも参考にしたかったのではないかと言われている。

 長英はまた同じ塾生である和蘭通詞であった吉雄権之助の塾にも通い和蘭語の勉学に没頭した。吉雄は仏語をドーフに、英語をブロムホフに学び、特に蘭語に就いては比類なき通詞であり、英語、蘭語の対訳辞典に尽力した人物で、此の人なくば、のちのペルー来航の際にも交渉に苦労したであろうと思われる。


 長英は蘭学に没頭して学資に窮していていたが、松浦候の援助を得て、平戸藩邸に入り生活費の支給をうける事ができた。此のあと長英は分離術の翻訳に着手する。長英は徐々に西洋文明と日本文明の差を感じるようになった。文政十一年十月二十八日父は奥州の地で生涯を閉じたが、幕府を揺るがすシーボルト事件が発生した影響で、帰郷する暇などなかった。

 シーボルト事件の詳細は省くが、シーボルトがもたらした蘭学をはじめとする洋学の普及に大いに貢献したし、シーボルトが日本に赴任しなければ、これほどまでに洋学に対する理解はなりえなかったかも知れない。それはまた、日本の世界レベルまでの近代化を遅らせたかもしれない。機会があれば、シーボルトの件も別稿で著したいと思う。

 

 長英は長崎を出て、広島、京都、名古屋などで講義をしながら、江戸に向かっていた。名古屋では、往年長崎で鳴滝塾で共に学んだ伊藤圭介の元を訪ねている。伊藤圭介は本草学(植物学)の大家であると共に、蘭方医でもあった。伊藤圭介のことは「大日本人名辞典」に次のように記されている。

「博物家、最も植物に委し錦窠きんかと号す、幼名を西山左仲と云う名古屋の医西山玄道の次子にして享和三年正月二十七日生る、兄存眞大河内氏を嗣を以て圭介乃ち家を嗣ぎ父の命に依り旧姓伊藤に復す、幼にして父兄に従て儒学と医学を講習し傍ら植物を好み水谷助六に従て植物学を学ぶ、又文政四年十九京都に游び洋学を藤森泰助に学び十年江戸に出て宇田川榕庵に従い植物を研究す、屡々諸先輩に従て諸国に遊び山川を跋渉して動植鉱物を採収す、是より先独逸人シーボルト長崎に来り、文政九年将軍に謁するの途次熱田駅に水谷助六、大河内存眞及圭介と会見し互に裨益ひえきする所多し。十年三月望、圭介の宅修養堂に同志を会して薬品会を開く、出品中虎頭、象皮、象歯、犀皮、木綿莢等あり、諸物産家の真蹟あり、是後年博覧会の嚆矢こうしなり、圭介つとに長崎に遊ぶの志あり、父母に乞うて終に許され年廿五の九月長崎に遊ぶ蘭館に出入しシーボルトに就て医と本草を学ぶ、同窓に高良斎、高野長英、岡研介、賀来佐一郎、林洞海等数十人あり、翌年春辞して帰るに臨みシーボルト贈るにツンベルグの日本植物書を以てす、ツ氏は林娜氏の高弟にして天明四年我が国に来り調査せし所を著述せしものなり、圭介後に此の書と林娜氏の二十四綱を参照して我が植物の羅伺名を知り二十四綱を訳し泰西本草名疏を著したり、名古屋に帰るや蘭法医を開業す、然れども未だ行われず、天保八年凶歉きょうけん圭介救荒植物便覧を著す藩主之を見て有益の書となし版木を圭介に借りて数千冊を印刷し領内に頒つ又種痘の法を唱え先づ自家の小兒に種ゑ又貧人に銭を給して之を試みしに皆避痘の効あり藩の世子亦之を種ゑんと臨時に藩医格に進め施術を行わしむ、是より漸く洋法の隆盛を見るに至れり、嘉永中海防論盛に行わる、四年圭介遠西硝石考を訳し又三百目加農砲を鋳て藩に献ず、題して丹心報国と云う、安政六年藩の寄合医師に命ぜらる、文久元年九月幕府の命を以て江戸の蕃書取調所物産学出役を命ぜられ二十人扶持金十五両を給せらる、文久三年十二月病を以て辞して郷に帰る、是より先シーボルト独逸に帰るの際に禁を犯して再渡を禁ぜラル、是歳特に赦命あり再び来朝して横浜に来る、圭介に面せんことを乞う、圭介幕府の命を以て横浜に出張し応答する所あり、時に虎列刺病流行す、圭介暴潟病素人心得書を刊行し之を世間に頒つ、慶応元年藩の奥医師に擢でらる、明治三年朝廷藩に命じて圭介を召す、同十二月大学出仕を命ぜられ少博士準席となる、四年七月文部省出仕となり六年編集課に入て官版日本産物志の編輯へんしゅうに従事し漸次各国の部を落す、十年九月東京大学理学部員外教授となり又小石川植物園に於ける植物取調を担任し同園草木目録及び図説を編す、十四年七月教授に任じ同年内国博覧会の審査官となり以後屡々しばしば審査官を命ぜらる、十二年三月東京学士会院会員と推選せられ十五年従五位に進み二十年勲四等に叙し二十一年理学博士を授けらる、二十五年九十賀寿の博物会を名古屋に開く、二十六年従四位に叙す、卅四年一月廿一日男爵に叙し勲三等に叙し大学名誉教授に任ぜらる同日没す年九十九(後略)」


 天保元年江戸に帰った長英は、塾を開く。天保三年には吉宗によって洋書の禁令が緩和されると、長英らの研究はますます盛んになっていった。しかし、天保四年から八年に至るまで大飢饉に見舞われ、長英はその救民にもあたり、学術を以て食料問題の指導にあたり、疾病の防止にも尽力にあたった。

 そして、異国船に登場が相次ぎ、さらにモリソン号事件のことで、国の将来のことを憂いた長英は、「夢物語」を著した。

 長英は「夢物語」までに六十一に及ぶ翻訳や著書がある。(「高野長英伝」による)

 それはドクターの称号を受けた前掲論文から、多義に亘るものがある。例えば、「活花の技法に就て」や「日本婦人の儀礼作法及婦人の化粧並に結婚風習に就て」「琉球島に関する記述」「京都に於ける神社仏

閣の記述」「京都より江戸への旅行案内記」「鮫の記」「稲作に就て」「江戸アンコウの形態に就ての和文解説」「牛痘接法」「外科薬剤秘録」

「験温管略説」「眼目究理編」「病学編」などジャンルは多彩であり、まさに博物学を修得していたようである。

 では、次の七話で「夢物語」を紹介する。

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