第5話 渡辺崋山(3)

 崋山と長英は、モリソン号の風聞により幕府の目を覚まさせねばならると思い、崋山は「慎機論」を、長英は「夢物語」を記していくが、崋山は「慎機論」をいっきに書き始めたが、どうも途中から思うように書けず、そのまま書斎の函に置いたままになってしまった。

 しかし、のちにこの稿は幕府に接収され、のちに日の目を見ることとなる。その内容は、決して不完全ではなかった。しかし、崋山自身は出せる代物ではないと、お蔵入りだった。その内容を紹介しよう。


    「慎機論」

我田原は、三洲渥美郡に在て、遠州大洋中へ迸出へいしゅつし、荒井より伊良虞いらぐに至り、海浜凡十三里の間、佃戸農家のみにして、我田原藩の外城地なければ、元文四年の令有りしよりは、海防の制、尤厳ならずんばある可らず、然れども、兵備は敵情をつまびらかにせざれば、策謀の由て生ずる所なきを以て、地理、制度、風俗、事物は勿論、里巷猥談りこうわいだん、戯場、瑣屑さくずの事、其浮説信すべからずと云えども、見聞の及ぶ所を、記録し置かざるはなし。近くは好事浮躁こうずふそうの士、蝶々息ちょうちょうやまざる者、本年七月和蘭陀甲比丹カピタン秘奏せる事あり、英吉利斯イギリス国のモリソンなる者、交易を乞わん為、我漂流民七人を護送して江戸近海に至ると聞く、按ずるにモリソンなる者は、英吉利斯龍動ロンドンの人にして唐山広東の濛鏡墺もうきょうおうの商館に留学すること凡十六年、頗る唐山の学に通じ、予が観る処、其の著述せるもの尤も多し、五車いんぷは三年の刻にして、周易、通鑑要目、東華録、西域碑文、地理志の類、皆洋学を以て訳せるものなり、又支那史を著作せるよし聞く、近来和蘭刻する処の書に、支那を言う条には、モリソンが語を證とすると有ければ、蓋しその志を云うなるべし。

右の著書を以て考うれば、千八百十七年我文政元年にあたれば、今を距ること凡二十一年なり、モリソン英敏の質と云えども、洋人の漢学をすること最も苦渋にして、成し難きこと推知すべければ、此書二十歳の著として年齢を計るに、五十五六歳の間なるべし、其人英万敏達にして、其国に於ては品級尤高く、威勢盛なるべし、和蘭陀人往々称する所、十年シーボルトと共に来りし書記ビュルゲルと云者、長崎より爪哇ジャワへ帰帆の時、台湾辺に及てはやてに遇い、ほばしら折れ裂け、広東に瓢蕩ひょうとうせしとき、適々たまたまモリソン留学の時に逢いたり。

此ビュルゲルは陰謀ある者にて、モリソンが名勢あるを知り、佞諛ねいゆし、モリソンが周旋陰扶いんふを以て、妻を英吉利斯より迎え、又抜擢せられ、去々年長崎へ来りしとき、これが為に富豪に至れるとぞ。ビュルゲル長崎に在りしとき一子あり、蘭館出入商人藤吉英重と云者に是を付託して帰りしが、去る未年長崎に至り、越えて申年の春英重に申せしは、我今秋は帰るならば、唯此兒このこの後来を思うに忍ばず、かく云うは、リュスランド日本に垂涎すいえんすること最も久し。必ず日本の憂、北陸にあるべし、長崎は相去ること遠しと云えども、一支のいたみは、全身のうれいなり。是英吉利斯の風説、ビュルゲル日本に至るに依て、其妻に告げたるなり。英重、驚聳きょうしょうに堪えず、此旨水府の吏に密に告げたる処右の如し。

此ビュルゲルは、モリソンが恩蔭を深く蒙りたる者なれば陰謀有るも知るべからず、されども波羅尼亜パラニアぬきしは、明證めいしょうあること也。波羅尼亜は、職方外記しょくほうがいき坤与図こんよず説諸書に見えたる国にて、払郎察フランスのボナハルテに属したるゆえ、欧羅巴諸国に忌まれ、千八百十五年国主卒し、無国主となり、南は独逸、北は孛漏生プロシャと云国に蠶食さんしょくされ、東隅より内地は皆鄂羅斯オロシャの国に属せり。(文化九年風説)然れども、其は臣属共にて治め、鄂羅斯オロシャより唯奉行を置て、其政を聴のみなりし。国人復国の念止まず、千八百二十九年文政十二年、ひそかに党を結び、鄂羅斯オロシャ奉行と戦争に及び(文政十三年風説、ヲロシャ国に対し、ボーレンの族徒、一揆を起せしよし告げ来る)千八百三十年(天保三年風説)全く此国を抜き、鄂羅斯の領となせり。其戦争、払郎察フランスにて上刻せる者、已に来舶して、予是に皆写せり、然れば、ビュルゲルが申事、全く虚説にあるべからず。

然れば是等を證とし、推してモリソンが事考え察すべし、かかる顕名の士、首として護送せる事なれば、本国の命を領し来れる事疑うべからず、殊にモリソン唐山の学を学び(按ずるに五車韻ごしゃいん瑞瑞の序は、俗文にして意味通じたる者なり、正文なる者あるべきか知らず)亜細亜の人情も、解し居る者なれば、極めて其人を撰みたるも、又意あるが如し。

そもそも、我国外交の厳なるは、海外諸国の熟知する処にして、其證は諸地誌、また鄂羅斯オロシャ人たるクルウセンの記(奉使日本記事)ゴローキンの記(遭厄そうやく日本記事)につまびらかなり、然れば、漂人を媒酌とし、交易を乞うも行われざるは、固より解して来ることなれば、レサノットの旧轍を踏まざること必定なるべし。然る処、朝議、鄂羅斯オロシャ使節の例に随い、彼国の故を以て、御国政御変違なきこと、縦令たとい是より事生ずるとも、動く可からざる大道なるべし。

但西洋諸国の道とする処我道とする所、道理に於ては、一有て二無しと云えども、其見る処の大小分異なきにあらず、是能これよく彼を審にする者にあらざれば、盲瞽もうこ想象の如く、一尾一脚も象は即ち象なり、若し尾を撫で象を説かば、垂鼻長牙すいびちょうが又いづくにあるや、それ西洋各国制度の汚隆おりゅう風俗の美劣、人物の賢否けんぴ一ならずと云えども、大抵性質沈忍(按ずるに地球中人質五種に分つ、ダルだリス、アチオビア、モンゴル、カウリス、リニウスと云う。是を七種に分かっても概するに諸種中、ダルダリス、カウカスを最とす、西洋はカウカス種、我国はダルクリの種に属す)なるを以て、一国法を以て治め、君あり、師あり、君は子に伝え、師は賢に伝う。故に政教二道に分つ、下にあるも芸術又二学とす、其天賦の気質に就き、道芸二学に就かしむ。故に其の芸術精博にして、政教の羽翼うよく鼓舞を為す事、唐山の及ぶ所非ざるに似たり。是を以て天地四方をつぶさにして、教を布き、国を利す、又唐山の及ぶ所に非ざるべし。

今天下の五大州中、亜墨利加、烏斯答羅利亜オーストラリア、亜弗利加三洲は、已に欧羅巴諸国の有となる。亜細亜州と云えども、僅に唐山、我国、白爾西亜ペルシャの三国のみ。其内、西人と通信せざるものは、只我国存するのみ。万々恐れあることなれば、実に杞憂に堪えず。論ずべきは、西人より一視すれば、我国は途上の遺肉の如く、餓虎渇狼がこうかつろうの顧みずを得んや。

若し英吉利斯イギリス、交販の行わざることを以て、我に説いて云わん。貴国永世の禁堅く改むべからず。我国を始め、海外諸国航海の者或は漂蕩ひょうとうし、或は疾病有る者、地方に来り急を救わんとせんに、貴国海岸厳備にして航海に害あること、一国の故を以て、地球諸国に害あり、全く天地を戴踏たいとうして類を害う。あに之を人と云うべけんや。貴国に於て能く此大道を解し、我天下に於て望む処の報を聞かんと申せし時、彼が従来疑うべき事実を挙げ、通信すべからざる故を論ずるより外あるべからず。斯る瑣屑しょうしょうの論に落ちて窮まる処、彼が貪婪どんらんに名目生ずべし。

西洋戎狄じゅうてきと云えども、無名の兵士を挙ることなければ、実に鄂羅斯オロシャ英吉利斯の二国、驕横きょうおうの端となるべし。(ボナパルテ厄入多エジプトを攻るとき、二根を書し、一は地中海航海の害、一は旧年の恨み)鄂羅斯は東漸して、東北西伯利より、北亜墨利加の西岸におよび、地の方積、三千余里、地球四分の位置を併せてり。英吉利斯は西漸して、北亜墨利加の東岸より内地加那拿カナダに至り、亜細亜諸島、谷羅利ヤラリの一部を略し、地の方積合算するに、二千里に及ぶべし。英吉利斯は智謀ありて海戦に長じ、鄂羅斯は仁政にして、陸戦に長ず。其長を挟み、私利を求む。是を以て、英吉利斯、我国に事を生ずるは急鄂きゅうかくに在り。和蘭、其間に介り、偽詐ぎそ百端、終に内地の害を生ずべし。

 按ずるに鄂羅斯禍心を包蔵し、我きんに乗ぜんと欲する者の如し。

 然れども其実、彼がよだれを流すものは、我にあらずして、唐山に

 あり。

それ唐山は陸戦に長じ、海戦につたなし。其せつよりして是に乗じ、海よりして其首を苦しめ、又陸よりして、其背を撲たんと欲す。我国の禍せらるるは、唐山にありては、舌亡腨寒ぜつぼうたんかんの憂なり、英吉利斯、能く之を知り、委曲蜿蜒えんえん、其牙を磨く。然れば英吉利斯の我にもとむる所、たんの蝿を逐うが如く、払えば必ず来るべし。嗚呼天下の理勢い、乗除じょうじょ相代り、物極れば則ち欠け盛なれば則ち衰う、古は政経隆盛の地、皆北狄ほくてきに併せられたり。

唐山は固より論ぜず、仏隆生の国、今即ち錫蘭セイロンは、英吉利斯にられ、天竺は昔蒙古兒モンゴルに併せられ、今は西洋諸国商館となれり、また回々生誕の亞刺比亞アラビア、ヨーケン宗の盛なりし厄入多エジプト英斯エイス生誕の蘇西斎亜スウエシア、西羅馬ローマと称せし公斯当知コンスタンスは、皆度爾格トルコに食有せられ、全世界と称したる羅馬ローマ雅典アデン、変じて驕慢奢惰きょうまんしゃだとなれり。古の隆盛恃むに足らず、今の無事、亦ゆるがせにすべからず。夫唯其人に在るか。

西洋諸国の地を考うるに、大抵北極出度七十度に起り、四十五度に終利り、其間五十五度以下を多しとす。是を我国に比すれば、奥蝦夷以下の地にして、人多きに非らず、土地広きに非らず、耕すも食うにたらず、織るも着るに足らず、肉を食い、皮を被り、労労に習、衆を恐れず後来南下北移して、終に英達の君出で、今隆盛に及べり。

然れば則ち、土地の豊富、恃むべからず、人の衆多も喜ぶべからず、唯其勤惰きんだに在らんか。凡せいは據る処に立、禍は安ずる処に生ず。今国家據る処の者は海、安ずる処の者は外患、一旦恃むべき者、恃むべからず。去れば安んずべき者安んずべからず、然るに安頓として、徒に太平を唱

うるは、固より論なし。三代綏服いふくの制、秦漢禦戒ぎょかいの論を以て、今を論ぜる者も、亦膠柱鼓琴こうちゅうこきんの如し、如何ともなれば、唐山の地たる、重山復嶺ちょうざんふくれい、南北を界とし、渺々びょうびょうたる沙漠、其西に囲む。大寇推挙襲来すと雖も、一方の地のみ。是に加うるに、世皆ゆるがせにせざるの地にて、屯田守戦、逸を以て労を待たず、尤も防ぎ易き者あり。且其徒も亦、慓悍驕横ひょうかんきょうおうなり。北狄ほくてきの利は、北塞に居て、南侵し易きべし。

今我四周、渺然びょうぜんの海、天下万国據る所の界にして、我にありて世に不備の処多く、彼が来る、本より一所に限ること能わず。一旦事あるに至ては、全国力斎りきせいせんと欲するとも、鞭のけ短うして、馬の腹に及ばざるを恐るるなり。況んや西洋膻腥たんせいの徒、四方明かにし、万国を交治し、世々擾乱の驕徒、海船火技に長ずるを以て、我短にあたり、方に海運を妨げ、不備をおびやかし、逸を以て労を攻め、百事反戻はんれいして、手を措く所なかるべし。

維昔いせき、唐山滉洋こうよう恣肆ししの風転伝して、高明空虚の学盛なるより、終に光明蔽障へいしょうせられ、自ら井蛙いせいの管見に落るを知らざる也。況んや明末、典雅風流をたっとび、兵才日にいましむと云えども、いやしく酣歌かんか鼓舞して、士気益々かん薄に陥り、終に国を亡ぼせるが如し。嗚呼今夫れ是を、在上の大臣に責めんと欲すれども、固より紈袴がんこ子弟、要路の権臣を責めんと欲すれども、賄賂の倖臣、唯是心ある者は儒臣、儒臣亦望浅うして、大を措き小を取り、一々皆不痛不癢ふようの世界と成れり、今夫此の如し束手して寇を待たんか。

                 (崋山全集より編集)

「慎機論」が日の目を見るのは、幕府探索により没収されてからだが、なぜか写本が多くあるらしい。崋山が誰かに見せていて筆写したのか、没収した後に、参考として筆写したものかわからない。

 今では高野長英の「夢物語」と共に著名になっているが、当時は長英の「夢物語」だけが広まったようだ。


 だが、これだけの内容を聞いたことで覚えており、世界情勢に明るいことはどうだろうか、である。崋山が欲していたことは何なんだろうかと云うことになる。画家として名を馳せている崋山は、蘭学に興味を持ち、違う文化に心を馳せただけなのか。日本と外国との交流を望みたい気持ちも現れている。

 のちに崋山は切腹することになるが、その最期は長英とともに、将来の日本にとって重要な人物を亡くしたことである。

 それが元になった蛮社の獄の件はのちに記すが、人の嫉妬心が起こした事件でもある。そのことを考えると何と情けないことであろうか。

                  

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