第3話 渡辺崋山(1)

 渡辺崋山は寛政五年(一七九三)九月十六日江戸三宅坂の田原藩邸に長男として生まれた。母は河村氏(河村彦左衛門の娘)、幼名虎之助、のちに登と改める。諱は定静さだやす。父は市郎兵衛定通。


 父の定通は十五歳の時に江戸に出て鷹見星皐たかみせいこう(筆者註、田原藩家老鷹見爽鳩そうきゅうの孫に当り、細井平洲に学ぶ儒学者)の門に入り、学力が認められて田原藩主三宅備後守康友の側用人兼物頭へと抜擢されている。登二歳の時、父母と共に巣鴨にある藩候の下屋敷に在り、またその冬には半蔵門外にある上屋敷の邸に帰る朝夕、藩候の内庭に出入りして、藩主康友と夫人の寵愛を受けた。五歳の頃より藩主康友が田原へ帰城する毎に随伴したという。


 寛政十二年八歳の時、嗣子亀吉の御伽役に挙げられ、毎日午前十時に出で正午に下り、午後二時に登り日暮に下り、風雨寒暑の故を以て一日も怠らず、亀吉とともに謡曲や舞踏を習い、その技大いに磨きあげられた。正午より午後二時迄の余暇の時間は、同役の子らとともに漢籍を学びその熱心さに驚愕するばかりであったという。

 

文化元年(一八〇四)十二歳の春、日本橋を過ぎた辺りで、誤って備前藩主池田候の先駆を冒してしまう。先駆の武士は登を捕えて散々に打ちのめしてしまう。この汚辱に十二歳の童ながらその悲憤の情を抑えることができずに、将来の志を新たにに一世の儒家となり、三〇万石の大名たりとて我が門に礼を執らしむる地位を得んと欲した。


 翌年、登は鷹見爽鳩の門に入り、日夜寸暇惜しまずに学芸を修めた。その間嗣子亀吉が文化三年に早逝したため、次子元吉の御伽役を命ぜられ、父定通も元吉の師伝となり、奥向用掛を兼務したが、小禄の藩の財政ゆえに、一家十一人の生計は困窮した。登が長男であり、その下に男子四人、女子三人があり、老祖母もいた。父定通も持病が日々悪化し、勤務も思うようにできない状態になっていた。薬料も足らず、その窮状は骨髄にまで達する状況であった。ついに父母は意を決し相議して次男と三男を寺奉公にやり、女子は旗本へ召し出した。

 登の心友にして祐筆だった高橋文平は登に対し、

「今や君が家は、飢餓旦夕に迫れり。かかる時、生活の資を得るに縁遠き儒者とならんとするは、誤れるに非るか。しかず君が天稟の才を展して画家となり、もって家計を補い両親の慰安を計るべし」

 とさとしたというが、それからまもなく文化五年(一八〇八)師鷹見爽鳩の紹介にて、芝の画家白川芝山しざんの門に入る。時に十六歳である。

(筆者註・白川芝山 南画家、書家で通称は芳介。淡路国洲本金屋の賀集家に生まれる。賀集家は代々醸造業を営み裕福だったようで、書を学び絵を学んだといわれ、俳句も堪能であったようで、玉蕉庵の号を持つ。天明二年(一七八二)二十四歳の時に上京し、白川宮主催の席画会で賞賛を受け、白川性を許されたという。嘉永三年(一八五〇)没す)

 

 同年、登は藩主康友の近習となったが、加俸は僅かで、月謝の滞納で破門となった。次に沈南蘋しんなんぴんの画風を好む金子金陵きんりょうの門に入る。

(筆者註・金子金陵 名を允圭、通称平太夫。旗本の大森勇三郎の家臣で、花鳥画の沈南蘋の画風を好んだ。この画風は丸山応挙、若冲、与謝蕪村にも影響を与えたという)

 金陵は義侠心に富んでいた様で登の貧困に憐れむとともにその才を認めて指導を惜しまなかった。

(筆者註・谷文晁 通称文五郎又は直右衛門。十二歳の頃狩野派の画を学び、大和絵から朝鮮画、西洋画も学ぶ。二十六歳で田安家に仕え、三十歳にて松平定信に認められ近習となり、定信が隠居するまで仕えた。旅好きでもあり、三十歳までに全国津々浦々を旅し、「日本名所図絵」を刊行している。崋山は文晁四哲の一人である)


 又、佐藤一斉の門下に入り儒学も修めた。

(筆者註・佐藤一斉 美濃国岩村出自の儒学者。通称は捨蔵、岩村藩家老の佐藤家の次男として生まれる。寛政五年(一七九三)藩主松平乗薀のりもりの乗衡が林家に養子として迎えられ、林述斎と名乗り、一斉も近侍し門弟として昌平坂に入門、大成者として認められ述斎の没後、昌平坂の総長を命ぜられた。朱子学も陽明学も学び多くの弟子を育てあげた。弟子には山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂ぶつどう、池田草庵、東沢瀉、吉村秋陽、安積良斎、中村正直ら多数ある。有名な著述には「言志四録」があり、西郷隆盛の愛読書だったという。この書に関しては別に記したいと思う)


 崋山の腕技は上がり鷹見爽鳩の撰によって号を華山と称した。崋山と改めたのは三十一歳の時である。

 文化十一年(一八一四)二十二歳にして納戸役に進み、翌年刀番兼務を命ぜられる。父の定通は同時に加俸され知行八〇石となった。前藩主康友は文化六年に逝き、元吉が相続して対馬守康和となった。


 文政元年(一八一八)元旦江戸詰田原藩士集会の席にて崋山は藩政改革の意見を発表した。しかし、この意見を排斥されることが発生し、致仕を決意した。父定通は年寄役末席に列し、家老格としては役料共百石四人扶持を給せられることとなった。翌年六月崋山は致仕して閑赦の地にたったが、まもなく再び召されて江戸城和田倉門関の役を督せられその任に五年間ついた。同年日本橋浮世小路百川楼にて書画の会を開く。翌三年使番格に進み、月俸五人扶持となる。


 文政六年三十一歳とき、田原藩士和田伝の女たか子を娶る。たか子十七歳であった。翌年藩主康和逝き、弟橘三郎が封を継いで康明となった。同じ年に父定通も没している。この頃から洋学に興味を持ち始めたようである。

 同九年取次役を命ぜられ、江戸城一橋門関番頭となる。翌十年藩主康明逝去する。世子友信は廃せられ、姫路の酒井忠実の第二子を迎え、土佐守康直とし、崋山は側用人となり、友信の傅役をも兼務した。君臣関係も密になり藩政の刷新も実施された。

 

 天保三年(一八三三)四十歳の時に年寄役末席に列し、海防軍事を司った。また佐藤信淵の門に入り農政経済の研究をもしている。これは凶作により貧困に喘いでいたからその窮状を打破するためにである。同九年期するところがあって藩候に退役願を提出しており、モリソン号事件の前にオランダのキャピタンニーマンが江戸に来た時の問答を記したことものが「鴃舌或問」を草し其の中でモリソンのことを書いている。その前提知識がかえって誤りを生じている。そして、モリソン号事翌年「慎機論」の作成に取り込むが、未完成のまま過ぎ、のちに幕府方の探索により発見され、これが元で罰せられることとなる。天保十年五月町奉行大草安房守役所へ召喚、揚屋入(牢屋敷)を命ぜられ、十二月判決が下り、翌年正月田原へ護送され謹慎の身となり、十月十一日午刻自刃して果てた。四十九歳であった。自ら「不忠不孝渡邊登」と書していた。

 画家としての崋山で著名なものは、「孔子像」(田原市蔵)「夜景山水の図」(個人蔵)「蘆汀双鴨ろていそうおう図」(常葉美術館蔵)「猛虎図」(個人蔵)「福禄図」(個人蔵)「一掃百態図」(渡辺家旧蔵)「名花十友図」(個人蔵)「高士観瀑図」(田原市博物館蔵)「牡丹図」(田原市博物館蔵)など多数ある。


 以上が崋山の略歴である。画を学び、儒学を学び、洋学(蘭学)を学び、農政を学び、多才な人物であるが、蘭学に興味を持ちだしたのは、かなり年齢を重ねてからだったので、蘭語の翻訳はせず、もっぱらそこからえる外国の話を頭に叩き込んだようだ。

 

 天保の飢饉に際して、崋山は田原領の領民および士に対しての布告があるが、他の領では見られない崋山の政治的資質が現れているので紹介しておこう。


   領中のものへ申渡し

領中のもの、我等を殿様とのみ、心得居り候か、殿様とは天子より重き位を下され、公儀より大なる所領を下され、万人の上に居り、広き城内に住居り候故、それを仰ぎてしもよりとなえ候名目にて、我等の心に取て実に領中のものどもの父母にて候、然る上は役人どもは、領中のもの共の兄にて候処、領中のものは多く重き殿様、重き役人とのみ心得、かりそめにも実の父母まことの兄と、わきまえざるは、我等の心とは相違いたし候、已来いらいとも我等を親、役人共を兄とかに思い申すべく候、今年も凶年に逢い、領中のもの難渋いたすべしと、親たる我等が心、昼夜安からざる儀、領中子たるものも、深く察すべく候、ついては領分今年の凶作にて、諸色しょしきまで払底ふっていかたがた嘸々さぞさぞ難渋致すべく候、其処痛心かぎりなく候、尤も我等家督以来、食物衣服を始め、見廻りの品より、内外すべて非常の倹約を致し、昨年報民倉を立て候も、領中のもの共、平生の耕作、丹誠にむくい度心入たきこころいれにて候得共、わづか一年の積立、其上今年収納莫大に減じ候得ば、十分の事出来兼ね候半そうろわんと、痛心致し候得ば、此度役人どもへ、厳しく申付け、一人いちにんたりとも餓死離散いたし候えは、我等親たる心、如何に安かるべき様、これなきゆえ、必至に救い遣し候はずに調置き候間、一同安心いたし、役人共申付けかた、堅く相守り申すべく候、右の通難渋の中に候得ば、兄たる役人共も甚だ難渋致すべく候、之に依て弟たる其方ども、兄の苦労をふかく相察し候て、みづから相成るべくだけ、食物の工夫、倹約のいたし方、上下共力を尽し、取続き候様致すべく候、かかる一統困難の中にて候、私欲を企て候か、悪事を勧め候か、すべて領法に害あるものは、領中のもののかたきに候間、厳科に申付くべく候、其節必ず怨み申すまじく、尤も父兄弟は勿論、親類縁者等に厚く致し、善事を尽し候もの、又は人の危難を救い、ほどこしをいたし候ものは、誠にく我等の志を汲み分け候ものにて、是亦領中のもの兄とも申すべく、あるいは天道に叶い候善人に候間、格別に賞美遣すべく候、右罪科の事は、親たる我等が心にては、甚だ忍びがたき事に候間、何卒我等に、苦労をかけざる様、心懸け申すべく候、偖又さてまた親の身と相成候ては、朝夕身を近く居り候子供よりも、遠方に居り候子供は一入ひとしお心を痛め候ものにて候えば、我等も折々廻村いたし候間、難渋のものあらば、遠慮なく申出づべく候、父にも母にも我等一人を頼み候其方共の事に候えば、決して饑餓きがいたさせまじく候、必ず安心いたし役人共の申付け相そむかず、領法かたく相守り申すべく、これもかれも、皆其方共の為を思い候よりの心に候間、此心を深く相わきまえ申すべく候

右の通り奉行小役人をはじめ、村々役人組頭相心得、領中一統、子供に至るまでよくよく申し聞せ申すべく候

 天保七申年十二月七日


 さて、崋山は、オランダキャピタンのニーマンが江戸に来た際に問答した内容を残している。それが「鴃舌或問」だった。当時の西洋の事情を知る手がかりでもあるし、崋山が得た知識である。


  鴃舌或問げきぜつわくもん

(筆者註・鴃舌とはモズの啼き声から外国人の話す意味のわからない言葉で、或問は仮の質問を設けてそれに答える形で自分の意見を言う)


天保戊戌年三月、喎蘭オランダ貢使こうし江戸に來る、甲比丹カピタン名は「ヨハンネス、ウエルテウィン」姓は「ニユイマン」、書佐名は「ゲルロウヤンデ」姓は「デフリース」医師某も亦、例に依て従来したがいきたるべき所、発出前、甲比丹の命に背くに付、にわかに止む、大通辞岩瀬弥十郎、小通辞森源左衛門


一、ニュイマンは、紀元千七百九十七年(寛政十年)喎蘭国都アムステルダムに生る、今年四十二歳と云、十六歳の時、軍艦計司となり、又都府の勘官と成る、後芸学の為に、ゴロート・ブリタニヤ(即英吉利)の国都、龍動ロンドンに留学する事凡五年、払郎西フランス国都把理斯パリィスに十一年、独逸ドイツ国都勿能ウエーネンに一年計り、後又、亜細亜諸島に官遊し、蘇門太刺スマトラ爪哇ジャワに至り、抜太比亜バタビアの甲比丹の職に使われ、位階リットルとなれり。ついでゼネラル(奉行職)に進べかりしを、固く辞して、我朝に来りしとぞ。ニュイマンの志は芸学に厚く、仕進に薄し、常に云、官にされ候えば、志遂げ難し、帰国の時は、天竺より陸行し、物理人情を、きわめ知らんとせし由、ニュイマンの学は、アルゲメーネ・アールド・レイキス(総槩地理)にて、和蘭を去て、二十三年になれり。

(筆者註・計司は経理係、リットルは騎士、ゼネラルは総督、仕進は出世、官に羈されは役職に束縛されて、総槩は総じて大まかなから一般という意)


一、ニュイマン、身の七尺三寸、豊肥、牛の如し、紅毛碧眼へきがん(或は云、和蘭人多くは赭眼しゃがんなり、偶々たまたま碧眼成る者は、必他稟たりんなりと云)面桃紅おもてとうこうほかす、人となり真率りちぎなれども、少し執拗かたきなる由、書を読み陰を惜む事、客座飲食の為と、肩輿溷厠けんよこんしの中も、手書をく事なし、三月十五日登城、帰路、彦根候の邸に至り、通辞つうじ某に申せしは、大老の賓館を一覧せしかば、其他は推して知るべし、明日の廻勤はたのしみなし、願くは旅宿にありて、書を看るに、如ずと、輿中さらに読書して、他を見ずとぞ。

(筆者註・赭眼はあか土色の眼、碧眼は青色系の眼、他稟とは出身地が異なる、面桃紅を暈す は顔立ちは紅のくまのようである、真率は真摯のこと、肩輿溷厠はかごに乗っている時トイレの時、釈く事は手から離すこと)


一、人に逢えば、江戸の町数、橋数、戸口の多少、御城の狭広、寺社、邸宅等を問う、江戸の広大無辺なるを以て、誰知るものなければ、学問に深切しんせつならざるとて、笑いたりとぞ。


一、ケンプルの著せし日本志をかたわらに置て、読むこと怠らず、云く、後来日本志の著、あまたあれど、此物に及ぶ者なし、今此板亡はんほろびたれども、終に其声価を減ぜざるは、哲人たる所以なり。

(筆者註・声価は名声)


一、途中にて、諸侯、諸官の儀制を見て、驚て申けるは、従者の夥しきは、世界第一なり、西洋諸国に夢見する所に非ず、されど雑冗ざつじょうに堪ずして、益あるを知らず、我国軍議の会ならでは、かかる人は費さざる也、ゼネラルは、奉行職なれども、従者僅に十二人、皆止むことを得ずして、具せるなり、日本制度の意、おして計られきと申き。

(筆者註・儀制を見 は大名旗本らの供回りの制度、夢見する所に非ずは 想像できることではない、雑冗は煩雑で無駄)


一、西城炎上の時、火楼ひのみのぼらんとせしかば、諸吏、押止てみだりゆるさず、ニュイマン云う、我国古来より日本の御恩を蒙り、非常の時は、忠勤致すべき身分にて、返事の如何をも、存ぜずありては、如何にも易かるべき様やはあるとて、強て乞求こいもとむれども、遂に免さず。


一、炎上僅に二時許なるを以て、甚疑い申けるは、払郎察フランス失火の時、王城の烟火えんか、十二日にして止む、一薪火しんかの度を以て計るに、如何にも狭隘の宮殿ならんか、或答云く、我邦の人屋じんおく、皆土木にて、宮殿といえども土木なり、其上に二百年来、祝融の災にかからず、故に地板下ゆかいたした焔硝サルベイトルの気多く生ぜしに由るか、西洋金石の結構を以て、計るべからざると申せしかば、去るにても有らんかとて黙しぬ。

(筆者註・一薪火の度は炎焼の時間、金石の結構は石造りの構造)


一、閭閻救火りょえんきゅうかを見て申けるは、火衣の窄袖しぼりそでにして、長く手を過ぐる物は、救火ひけしに便なりとて感じぬ、去れど綿帽は宜しからず、我国にては、三角の鉄鉢を用ゆ。また、水龍りゅうどすいの制も、精からず、我国にて、ワートル・スポイドと名付る物、数十丈の皮渠ひきょありて、水を引くこと、いと容易になん有ける、去らからに、井水の浅深は更なり、江河の遠近、山沢の高低と雖も、蜿蜒えんえん起伏にして、達せざることなし、そもそも、其皮製剛柔ごうじゅう度を得たるを以て、其上を車馬の往来するとも、損壊するうれいなし、もし人群雑沓ざっとう、水道を妨る事あれば、架を設け、高く掲げ、或は屋上を渡しなどして、心の儘にせるなり、又龍水の製の、一言に尽すべきに非ざれども、大様たいよう、水槽を腹とし、水口をくちばしとし、一人此嘴を司り、小引すれば近く低く、満引すれば、遠く高きを射ること、大凡五六丈に及べり、日本の水龍は、瀉水しゃすい間断ありて、高射すること能わず、水槽に蓋を覆たらんには、水勢の増ことも有なん、又用るには、順風に射らでは益なし、逆風には、中々火気を激し、勢い猛に延焼するなり、はた我器は、日用の事ならで、軍中放火を受けし時、備を旨とせるなりとぞ。

(筆者註・閭閻救火はまち火消しのこと、皮渠は皮製のホース、蜿蜒起伏は長距離を上り下り、剛柔度を得たるは適度の弾力をもっている、龍水は水鉄砲、瀉水間断は放水にきれめがある)


一、江戸の府の火に比しては、川少し、日官てんもんかた山路、渋川、足立の三氏及其生徒、天文御用を以て、質問の事願えりと、ニュイマン申渡されしは、三君は上職にて、生徒一同にては非礼なれば、先づ生徒より先に面会せんと、同月十二日、堀、小関など云える人々をむかえたり、さるからに、町方、御勘定、長崎の三奉行の下吏、審査として立合せる由を聞て、検使は罪人吟味の時ならでは、あるべき様なし、学芸質問の上に、何の御疑のあるべきや、左様の御疑の有べき人々に、質問仰付られざるが宜きなりと、通辞とも様々にすかし諭せども聞入れず、デフリース、殊更に申せし由、其日は終に暮たり、其翌、堀氏(堀専次郎、長崎通辞今天文台に出役せし人の由なり)ニュイマンに申けるは、甲比丹申されしは、道理は即ち道理也、されど質問に答られ候に、検使有無によるべき様やはある、斯ばかりの事にて、大政をさまたげん事の今更出来べけんや、甲比丹道理に明にして、此言を出し候は、必ず執拗とならでは聞え申さず候、我国に来り申されんには、我邦の法に随い申さるべきなり、若し執拗の聞えあらんには、甲比丹の言、理なりとも通らざる事もあるべし、去れば一旦の事にて、後々の障にならんには、必ず安かるべき様なりと申ければ、ニュイマン黙しぬ、堀の言葉に従い、同月十九日、皆質問の事おわり候由、旅情を養んと候や、質問の事を最も喜び、内々酒肴など設けしなりとぞ。

 右洋人性情を伺う一班なれば、人々の伝聞を、聞たるまま記しぬれば、誤りも推量おしはかりも打混りて、空語そらごとこそ多かるべけれ。

(筆者註・大政は幕府の定めた掟)


 ここまではニーマンのことと、日本の印象を問うている。

 此の先の問答は海外のことに及んでいる。(次話へ)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る