第2話 モリソン号の波紋 

 翌年の天保九年六月のことである。蘭船が長崎に入港してきた。新任のキャピタル、エドワルド・グランドソンの渡来に際して、前任のキャピタン、ヨハンネス・エルディウイン・ニーマンと連署して、内密の書を長崎奉行久世伊勢守廣正まで提出してきた。

 通詞が翻訳をして奉行に提出した。その内容は次の通りである。


エゲレス国之うち、シンガポーレ島の日記に、去る九月七日(天保八年八月八日)唐国広東よりの書状に記し有り。之モリソンと申すエゲレス船日本へ向け出で候始末申上げ候。右の主意、第一漂流の日本人七人、御当地江帰国致したきとの趣候得共おもむきそうらえども、商売願のため、船出仕り候、右漂流人七人の内、三人は以前アメリカ州の西手渚にて難船に及び、同所よりロンドン(エゲレス国の都府)へ送りそれよりアマカワ に送らるる者にて、外四人の者はロソン島の港にて難船に及びイスパニアの船にて、アマカワ送られおり候は、右出仕いでつかまつるの船は、エゲレスの商館より江戸へ向け、出仕いたし琉球の内ナバケアン(那覇港)と申所の辺りを通船し、江戸近海は至り候処、右火矢を打懸うちかけ候得共、場所を見繕みつくろい碇を入れ滞在致しおり候うち石火矢四挺浜辺に備これあり、暁に至り本船に向い放出の内一丸は船にあたり得共えども、幸にして一人も手負これなく去ながら直に碇を揚げ、薩州へ向け出帆いたし候処、同所にては、漂流人を以て都合も致すべき処、船繋の儀、同所役人より鹿児島へ懸合かけあい相成り候か、其間は三四艘の番船本船を取囲み、乗組の者上陸致せざるは勿論、其他の人々も近き候儀を禁じ相守罷りあり、其後二三日を経候えば、鹿児島より軍卒百人余も出張これあり鉄砲石火矢等を打ち放ち候得共、少も船中に別状これなく候、右船は軍船にこれなき故武器等の備もこれなく候処、右様理不尽の振舞大難渋、右の趣かひたん此の節渡来の者より承り申立候付、後内々書取を以て申上げ候。

                       以 上

   古かひたん

     よはねす、るてうゐん、にいまん

   新かひたん

     ゑとわると、がらんでそん

右の通り和解仕差上げ申し候     以上

   戌六月 

                    通 詞 日 付


 オランダ館長より送られた文書に英米の漂流民を護送して通商を迫る意志を知り、左記に掲げる意見書を添えて幕府に提出した。


この度入津阿蘭陀船古かひたん、横文字封書差出し候間、和解仕るとして候処、漂流の日本人七人乗組、モリソンと申すエゲレス船を仕立て、右の漂流人差し越し候趣には候得ども、内実は商願い候ため出船の由にて、江府近海へ至り候仕末等委細に申立て候、右は去る六月入津の説、風説者一同申立べく筈の処、認め置き候横文字、此節見出候に付、内密に申立て候段、両かひたんこれを申し候、右の通異国へ漂流罷りあり候趣に付、手寄もこれあり候はゞ、重て入津の節、連れ渡し候様仕るべき旨、当秋阿蘭陀船出帆の砌、申渡し候様仕るべきや、此段御内慮に伺い奉り候  以上

    戌六月               久世伊勢守


 この長崎奉行久世伊勢守の意見書と阿蘭陀かひたんの文書は江戸に到着するや、大老水野越前守忠邦は、その阿蘭陀キャピタンがいう英米が通商貿易を強要していることを重大視し、林大学頭や勘定奉行の内藤隼人正矩佳のりとも明楽あけら飛騨守茂村、勘定吟味役中野又兵衛、村田義三郎、根本吉左衛門らを集めて、大評定を行なった。


 当然議論は、異国船打払令の国法に則り、即追い払うべきである。英国船はしばしば我が沿岸を犯し狼藉を働き、なおかつ国禁のキリシタンを奉ずる彼らを近づけるは非なり、真に貿易を乞うものであれば、長崎にて命あるを待つべきに、江戸近海に現れるは礼を知らざる者である。


 漂流民を囮として、通商を申し出る英の謀策であるゆえに、断固として打ち払うべきし。護送される漂流民には不憫ではあるが、国家の大事に

は変えられぬ、との意見が多数であったが、林大学頭のように

畢竟ひっきょう取扱方六ケ敷むつかしき訳にて御座候」

 と、イギリスとの交易は途絶えているが、漂流民は受け取るべきだが、その受け取りはあくまで出島を通した方が良いだろうと穏健的に意見している。


 結論として水野忠邦は、長崎奉行に対し、

「漂流人手寄も御座候はば、入津の節連れ渡す候様阿蘭陀人へ申し渡すべき旨仰渡され存じ奉り候」

 と申し渡している。


 オランダからの情報も来航したモリソン号は英船と理解されており、米船という理解ではなかったことだ。これが後に誤解を生む。江戸幕府に入ってくる情報はオランダからもたらされるもので、当然、イギリス、イスパニア、フランスの事が主体であり、まだアメリカの事は余り知られていなかったのも事実である。


 この時節柄、江戸では蘭学や西洋文化に興味を持つ人々が多数いた。尚歯しょうし会なる集まりがあった。江戸では蘭学を志す人は山の手組と呼ばれる派と下町組と呼ばれる派が存在していた。下町組は蘭学を学び蘭医として塾を開き、医者として患者の診察や治療を施していた。杉田立郷、宇田川玄真、坪井信道、竹田玄洞らがいた。これに対し、山の手組は蘭学を学び、医学の研究もするが、その蘭学の研究によって得た新しい知識を経済や政治や外交まで生かして考えていこうとしたもので、この山の手組がのちに尚歯会と呼ばれるようになる。尚歯会とは、その言葉から歯をとうとぶ会で、敬老会の集まりをいうが、秘密結社的存在で在り、蘭学を通して、世上の向上を果たすための寄り合いであった。今で言えば、有識者会議のような存在であるが、あくまで私的存在であった。


 顔ぶれも高野長英、渡辺崋山をはじめ、田原藩の若隠居三宅友信、田原藩士鈴木春山、高松藩士赤井東海、佐藤信淵、水戸藩士立原杏所、紀州藩士遠藤勝助、寄合松平外記、評定所属吏芳賀市三郎、細戸口番花井虎一、明屋敷番伊賀の内田弥太郎、増上寺代官奥村喜三郎ら多彩であった。彼ら蘭学者はそれぞれ事績を残しているが、長英や崋山以外は余り知られていないので、それぞれ後述したいと思う。その方がこのころの外国事情の情報やいかに日本のことを彼らがどう考えていたか理解できるからである。

 

 天保九年十月十四日、それは尚歯会の定例日であった。会は友信の邸で行われたか、崋山の邸で行われたかは明らかでないが、会のメンバーはそれぞれ集まり話し合いをが終わり帰ろうというところで、遅れて長英がやってきた。体の具合が思わしくなかったようで、休みと思っていたところに無理して顔を出したようだ。それで、またしばらく話しが始まったが、陽もかげろうとしてきたので、そろそろと帰り出した。残ったものは、高野長英、渡辺崋山、遠藤勝助、芳賀市三郎、内田弥太郎、奥村喜三郎の六人が残っていた。


 芳賀が皆の突然帰るのをさえぎり、

「今日のお勤めで意外なことを聞きだしたのですが、余り人が多いのはどうかと思いあまり差し控えておりましたが、・・先ずは両先生に、お目にかけたいものがありまして、こういうものを持って参りました」

 と芳賀は風呂敷包の沢山ある書類から、何十枚か綴り込んだものを取り出し、崋山に手渡した。

 市三郎は評定所でのやり取りを国家の一大事と考え、記録係りであったことから、その文書を必死に写しとり尚歯会の席に持ち込んだのであった。

 崋山はそれを手に取り開いて見た。長英は横から覗き混んでいる。しばらくすると、二人の顔付きが変わってきた。

「芳賀さん、これは大したものだね」

 長英は、この書付がただならぬ存在だと感じとった。

「かような書類は、評定所の御記録方である芳賀さんでないと手に入らぬ。普通見せていただくことすら儘ならぬもの」

 と崋山は言い添えた。

 それを聞いて芳賀は言った。

「今日の評定所は、これがために議論甚だしく、聞いていても面白くございました」

「そうであろう。これは幕府にとっては大問題のこと。・・評定所の議はどうなったかね」

 崋山は尋ねた。

「色々と議論は出ましたが、つまりは二念なく打ち払えという、先の布告に従い、武力をもって追い払うべしと決まりました」

 それを聞いて長英は、

「大馬鹿者の寄合じゃからのう。それくらいの事は決めたであろうが、井中の蛙天を知らずで、無知の輩は恐ろしくも在り、可哀想でもある」

「長英君は、簡単に片付けてしまうが、これは天下の一大事であろう。傍観してはおれぬ案件ぞ」

 崋山は長英に対して言った。

「そうですね。まさしく一大事」

 内容をまだ知らぬ遠藤、内田と奥村は呆然とわからぬまま立っているだけだ。

「遠藤さん。これを見てください。驚きますよ。他の者もよく見てくださいよ」

 と崋山は書類を遠藤に渡され、三人はそれを読んだ。皆興奮をかくしきれない様子であった。


 その内容とは、少し長いが紹介する。


   天保九年蘭人上申の大意

当秋、長崎入津の阿蘭陀船主より風説の内に、日本人七人漂流仕り候を、諳尼利亜いげりす船洋中にて救い申し候、右を蘭人見受け候間、日本国の儀は、鎖国の禁ある国に候えば、他外国より直に送り届け候事は、出来申さず、阿蘭人の請取うけとり候て、相届け申すべき旨、兼て申し渡しこれあり候間、此方へ渡し然るべき旨、申し候処、諳尼利亜いげりす人申し候は、此方より直に江戸へ届け申すべく、其方の世話には相成り申さずと、申し断り候由に候えば、来春は浦賀に参り申すべきや。送り来り候ものは、ヒヂマンホンと申すものにて、東洋十六島の総督の由、人数も多く召連れ申すべき由、諳尼利亜いげりすは近来、他国を切取、天竺も南の方悉く奪い取り申し候、その外、亜細亜海の諸島、亜墨利加あめりか国をも、追々切取候由にて、近来は支那、魯西亜ろしあにも抗し候強国に候、日本総人数は、三千万人に御座候処、諳尼利亜いげりすは八千七百万人に候えば、日本よりは三倍に御座候。


   評定所論議の顛末

当秋、阿蘭陀船入津の節、カピタン共書出かきだし候風説書の様、長崎奉行久世伊賀守伺いに付、

一 漂流の日本人乗組なし候異国船、渡来致すべくやの風説書、阿蘭陀カピタン差出し候に付、取計とりはからい方の儀、文化度松前表へ、ヲロシャ船渡来の節、仰せ渡され候御書付の趣意、今般評議方の様に付ては、不分明にこれありや、取調べ申上ぐべき旨。

 右書付写並に別書通り共二冊、五通添え、越前守、田中休蔵を以て、

 一座へ渡され勘定奉行遠山左衛門尉受取り

一 去る五日評議致し申上ぐべき旨仰せ聞かされ御渡しなされ候久世伊勢守相伺い候書面、一覧つかまつり候処、此度入津仕り候阿蘭陀カピタン差出候様文字書付、和解致せさせ候処、漂流の日本人七人乗組なし候モリソンと申すヱケレス船、漂流人送り越し候様、右は内実商売相願い候ため、江府近海に至る風説の由、右の通り日本人異国へ漂流罷り在り候趣に付、手寄たよりもこれあり候はば、重て入津の節、連れ渡り候様、当秋阿蘭陀人出帆の砌、申し渡すべきやの段、御内意相伺い候様に御座候、此度林大学頭並に神尾山城守、水野舎人とねり、御勘定奉行、吟味役等、取調申上げ候書面共へ、夫々それぞれ一覧の上、勘弁評議仕り候処、元来異国へ漂流の日本人連れ渡し候儀、兼て阿蘭人にも得心罷り在り、殊に今般カピタン申立候風説書の儀を以て、右漂流人連れ渡し候様、阿蘭陀人へ申し渡し候はゞ、漂民を憐み救い候儀と、彼国の者共、推考致す間敷共まじくとも申し難く、左候ては外国へ対され候趣意に触られ候筋に付、漂流人連れ渡し候儀は、阿蘭陀人へ申し渡し候に及ばざる旨、仰せ渡されて然るべし、且前書の次第を以て、此後エケレス船、江府近海へ渡来の程も計り難く候えば、異国船打払の義に付ては、文政八酉年の御書付に、エゲレス船先年長崎に於て狼藉に及び、近年は処々へ乗寄せ、薪水しんすい食料を乞い、去る寅年に至り候ては、みだりに上陸致し、或は廻船の米穀、島方船、野牛奪い取り候段、追々横行の振廻ふるまい、其上邪宗門勧め入れ候致し方と相見え候に付、かたがた捨置き難き事に候、一体エゲレスに限らず、南蛮西洋の儀は、御制禁邪教の国に候間、以来何れの浦方に於ても、異国船を見受け候はば、其所に在合せ人夫を以て、一図いちずに打払、逃延び候はゞ、追船等差出すに及ばず、其分に差置き、押て上陸致し候はゞ、搦取り或は打留候ても、苦しからず候、本船近寄り候はゞ、打潰し候共、是亦時宜じぎ次第、取計うべき旨、仰出されて然るべく候、尤も唐船朝鮮琉球などは、船形人物も相分るべく候得共、阿蘭陀船は見分相成り兼ね申すべく、右等の船万一打ち誤り候とも、御察度これある間敷候間、二念なく打払を心掛け、図を失わず、取計い候処専要にこれあり、況や交易の願望の趣意を含み、信義を唱え、漂民を囮に乱を謀り候段、猶更なおさら不届の仕方に付、大学頭申上げ候様にもこれ在り候得共、右体蛮夷みぎていばんい奸賊かんぞくに対し、接対の礼を設くべき筋似てはこれある間敷、仮令たとい漂民連れ渡し候共、山城守申上げ候文化度長崎表へ渡来致し候魯西亜船、日本人連れ渡し候節、仰せ渡され候様等思いわきまえ候ても御仁恵施しなされ候は、平常にこれあるべく義にて、御国の災害を除きなされ候為、賎民の存亡に拘らず、御取計これあるべくは、御国政の大事、一時摧蛮さいばんの御処置に付、敢て君徳を薄し候道理は、これある間敷候間、向後いよいよ右書付の趣を以て、二念なく打払候義勿論にこれあり、尤も海岸御備え向の儀は、兼々向々に於て心得罷り在り候得ば、今般風説の様、別段右の向へ御沙汰には及び申す間敷と存じ奉り候、右評議仕り候趣、書面の通りに御座候、書付五通返上仕り候、以上。

  戊十月                評定所一座



 芳賀が言うには、両説が入り乱れ論争に及んだ結果がこのように決まったことを聞いて、長英が漏らした。

「モリソンというのは、人間の名であって船の名ではない。第一にイギ

リスがどういう国であって、その実力はいかなるものか分からずに、研

究することもなく、旧式の武器を以て対抗しえると考えておるのだから、その愚たるもの及ぶべからずじゃ」

 遠藤も興奮した口調で言った。

「愚か者には、賢き者が教えて遣わすしかないであろう。ねがわくは両兄のお力を以て、幕府の連中を戒めくだされるならば、この上もない事と思いますが、どうでしょうか」

 崋山がこれに応えた。

「うむ。戒めるとか、教えるとか、長者の立場から致すことであろうが、兎に角に自分の知っていることだけは、発表してもよかろう。長英君、君はどう考えるかね」

「わしが今言うタノは、幕吏の愚を嘲笑したのであって、それが為にこの問題を等閑に付すのはどうかと存ずる。遠藤さんの言い分尤も至極なれば、御同意申しあげる」

「長英君、我らの智をして幕吏に注進状を認めてみてはどうかな」

崋山が言った。

「それは良いお考えです。早速やってみましょう」


 尚歯会の議論は深更にまで及んだ。崋山と長英は帰宅すると、筆を走らせていた。

 ここで長英も崋山もモリソンを人の名と勘違いしたことである。それは船がアメリカ船でなくイギリス船となっていたことにも起因する。

 なぜモリソンを人の名と間違えたというと、オランダ人ニーマンから中国にて活動する宣教師ロバート・モリソンの事を聞いていたからだった。モリソンは宣教師であるとともに支那語に精通し、英漢対訳辞書を著し、新旧聖書を支那語に翻訳もしている東洋学者でもあった。其の人物がいる事を聞いていたから、崋山はてっきり彼が漂流民を乗せて日本に来たと思い、長英も同じく信じていた。このモリソン自身はこの時もうこの世になく、天保五年(一八三四年)に病没している。


 次話にて渡辺崋山について書きたいと思う。

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