第2話 モリソン号の波紋
翌年の天保九年六月のことである。蘭船が長崎に入港してきた。新任のキャピタル、エドワルド・グランドソンの渡来に際して、前任のキャピタン、ヨハンネス・エルディウイン・ニーマンと連署して、内密の書を長崎奉行久世伊勢守廣正まで提出してきた。
通詞が翻訳をして奉行に提出した。その内容は次の通りである。
エゲレス国之
以 上
古かひたん
よはねす、るてうゐん、にいまん
新かひたん
ゑとわると、がらんでそん
右の通り和解仕差上げ申し候 以上
戌六月
通 詞 日 付
オランダ館長より送られた文書に英米の漂流民を護送して通商を迫る意志を知り、左記に掲げる意見書を添えて幕府に提出した。
この度入津阿蘭陀船古かひたん、横文字封書差出し候間、和解仕るとして候処、漂流の日本人七人乗組、モリソンと申すエゲレス船を仕立て、右の漂流人差し越し候趣には候得ども、内実は商願い候ため出船の由にて、江府近海へ至り候仕末等委細に申立て候、右は去る六月入津の説、風説者一同申立べく筈の処、認め置き候横文字、此節見出候に付、内密に申立て候段、両かひたんこれを申し候、右の通異国へ漂流罷りあり候趣に付、手寄もこれあり候はゞ、重て入津の節、連れ渡し候様仕るべき旨、当秋阿蘭陀船出帆の砌、申渡し候様仕るべきや、此段御内慮に伺い奉り候 以上
戌六月 久世伊勢守
この長崎奉行久世伊勢守の意見書と阿蘭陀かひたんの文書は江戸に到着するや、大老水野越前守忠邦は、その阿蘭陀キャピタンがいう英米が通商貿易を強要していることを重大視し、林大学頭や勘定奉行の内藤隼人正
当然議論は、異国船打払令の国法に則り、即追い払うべきである。英国船はしばしば我が沿岸を犯し狼藉を働き、なおかつ国禁のキリシタンを奉ずる彼らを近づけるは非なり、真に貿易を乞うものであれば、長崎にて命あるを待つべきに、江戸近海に現れるは礼を知らざる者である。
漂流民を囮として、通商を申し出る英の謀策であるゆえに、断固として打ち払うべきし。護送される漂流民には不憫ではあるが、国家の大事に
は変えられぬ、との意見が多数であったが、林大学頭のように
「
と、イギリスとの交易は途絶えているが、漂流民は受け取るべきだが、その受け取りはあくまで出島を通した方が良いだろうと穏健的に意見している。
結論として水野忠邦は、長崎奉行に対し、
「漂流人手寄も御座候はば、入津の節連れ渡す候様阿蘭陀人へ申し渡すべき旨仰渡され存じ奉り候」
と申し渡している。
オランダからの情報も来航したモリソン号は英船と理解されており、米船という理解ではなかったことだ。これが後に誤解を生む。江戸幕府に入ってくる情報はオランダからもたらされるもので、当然、イギリス、イスパニア、フランスの事が主体であり、まだアメリカの事は余り知られていなかったのも事実である。
この時節柄、江戸では蘭学や西洋文化に興味を持つ人々が多数いた。
顔ぶれも高野長英、渡辺崋山をはじめ、田原藩の若隠居三宅友信、田原藩士鈴木春山、高松藩士赤井東海、佐藤信淵、水戸藩士立原杏所、紀州藩士遠藤勝助、寄合松平外記、評定所属吏芳賀市三郎、細戸口番花井虎一、明屋敷番伊賀の内田弥太郎、増上寺代官奥村喜三郎ら多彩であった。彼ら蘭学者はそれぞれ事績を残しているが、長英や崋山以外は余り知られていないので、それぞれ後述したいと思う。その方がこのころの外国事情の情報やいかに日本のことを彼らがどう考えていたか理解できるからである。
天保九年十月十四日、それは尚歯会の定例日であった。会は友信の邸で行われたか、崋山の邸で行われたかは明らかでないが、会のメンバーはそれぞれ集まり話し合いをが終わり帰ろうというところで、遅れて長英がやってきた。体の具合が思わしくなかったようで、休みと思っていたところに無理して顔を出したようだ。それで、またしばらく話しが始まったが、陽もかげろうとしてきたので、そろそろと帰り出した。残ったものは、高野長英、渡辺崋山、遠藤勝助、芳賀市三郎、内田弥太郎、奥村喜三郎の六人が残っていた。
芳賀が皆の突然帰るのを
「今日のお勤めで意外なことを聞きだしたのですが、余り人が多いのはどうかと思いあまり差し控えておりましたが、・・先ずは両先生に、お目にかけたいものがありまして、こういうものを持って参りました」
と芳賀は風呂敷包の沢山ある書類から、何十枚か綴り込んだものを取り出し、崋山に手渡した。
市三郎は評定所でのやり取りを国家の一大事と考え、記録係りであったことから、その文書を必死に写しとり尚歯会の席に持ち込んだのであった。
崋山はそれを手に取り開いて見た。長英は横から覗き混んでいる。しばらくすると、二人の顔付きが変わってきた。
「芳賀さん、これは大したものだね」
長英は、この書付がただならぬ存在だと感じとった。
「かような書類は、評定所の御記録方である芳賀さんでないと手に入らぬ。普通見せていただくことすら儘ならぬもの」
と崋山は言い添えた。
それを聞いて芳賀は言った。
「今日の評定所は、これがために議論甚だしく、聞いていても面白くございました」
「そうであろう。これは幕府にとっては大問題のこと。・・評定所の議はどうなったかね」
崋山は尋ねた。
「色々と議論は出ましたが、つまりは二念なく打ち払えという、先の布告に従い、武力をもって追い払うべしと決まりました」
それを聞いて長英は、
「大馬鹿者の寄合じゃからのう。それくらいの事は決めたであろうが、井中の蛙天を知らずで、無知の輩は恐ろしくも在り、可哀想でもある」
「長英君は、簡単に片付けてしまうが、これは天下の一大事であろう。傍観してはおれぬ案件ぞ」
崋山は長英に対して言った。
「そうですね。まさしく一大事」
内容をまだ知らぬ遠藤、内田と奥村は呆然とわからぬまま立っているだけだ。
「遠藤さん。これを見てください。驚きますよ。他の者もよく見てくださいよ」
と崋山は書類を遠藤に渡され、三人はそれを読んだ。皆興奮をかくしきれない様子であった。
その内容とは、少し長いが紹介する。
天保九年蘭人上申の大意
当秋、長崎入津の阿蘭陀船主より風説の内に、日本人七人漂流仕り候を、
評定所論議の顛末
当秋、阿蘭陀船入津の節、カピタン共
一 漂流の日本人乗組なし候異国船、渡来致すべくやの風説書、阿蘭陀カピタン差出し候に付、
右書付写並に別書通り共二冊、五通添え、越前守、田中休蔵を以て、
一座へ渡され勘定奉行遠山左衛門尉受取り
一 去る五日評議致し申上ぐべき旨仰せ聞かされ御渡しなされ候久世伊勢守相伺い候書面、一覧
戊十月 評定所一座
芳賀が言うには、両説が入り乱れ論争に及んだ結果がこのように決まったことを聞いて、長英が漏らした。
「モリソンというのは、人間の名であって船の名ではない。第一にイギ
リスがどういう国であって、その実力はいかなるものか分からずに、研
究することもなく、旧式の武器を以て対抗しえると考えておるのだから、その愚たるもの及ぶべからずじゃ」
遠藤も興奮した口調で言った。
「愚か者には、賢き者が教えて遣わすしかないであろう。ねがわくは両兄のお力を以て、幕府の連中を戒めくだされるならば、この上もない事と思いますが、どうでしょうか」
崋山がこれに応えた。
「うむ。戒めるとか、教えるとか、長者の立場から致すことであろうが、兎に角に自分の知っていることだけは、発表してもよかろう。長英君、君はどう考えるかね」
「わしが今言うタノは、幕吏の愚を嘲笑したのであって、それが為にこの問題を等閑に付すのはどうかと存ずる。遠藤さんの言い分尤も至極なれば、御同意申しあげる」
「長英君、我らの智をして幕吏に注進状を認めてみてはどうかな」
崋山が言った。
「それは良いお考えです。早速やってみましょう」
尚歯会の議論は深更にまで及んだ。崋山と長英は帰宅すると、筆を走らせていた。
ここで長英も崋山もモリソンを人の名と勘違いしたことである。それは船がアメリカ船でなくイギリス船となっていたことにも起因する。
なぜモリソンを人の名と間違えたというと、オランダ人ニーマンから中国にて活動する宣教師ロバート・モリソンの事を聞いていたからだった。モリソンは宣教師であるとともに支那語に精通し、英漢対訳辞書を著し、新旧聖書を支那語に翻訳もしている東洋学者でもあった。其の人物がいる事を聞いていたから、崋山はてっきり彼が漂流民を乗せて日本に来たと思い、長英も同じく信じていた。このモリソン自身はこの時もうこの世になく、天保五年(一八三四年)に病没している。
次話にて渡辺崋山について書きたいと思う。
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