第1話 モリソン号事件

 さて、どこから話を始めるか迷った。多くは黒船から始まることが多い。私も最初は黒船からと思って構想を練っていたが、よくよく幕末の歴史を眺めていると、幕末には異国船たる諸外国の船が日本近海に現れ事件として記録されている。その中で目立って日本国内に影響を及ぼした一件はモリソン号の事件である。内容は過去に起因した外国船の事件と何ら変哲も無い事件である。しかし、ことはある勘違いから起こり大きな事件へと発展してしまうのだ。開国への起爆剤となった事件でもあるかもしれない。一度しっかり調べてから取り掛かろうと思った。そして、ちょっと調べただけで興味ある事件であることが判ったのだ。よし、このモリソン号事件からこの物語を始めようと思いたった。


 モリソン号の話の前に、この頃の世界状況を今一度簡単に見ておくことにしよう。その方が読者もわかりやすいだろう。


 日本はオランダとのみ出島を通じて交易をしていた。当然、出島のオランダ商館より海外の事情は多少は入ってきたが、それはオランダにとって有利なものだけに限られたことは当然のことである。

 ロシアはロマノフ朝ピョートル大帝以来東方開拓と遠征、そして黒海への南下を促進していた。その触手は北千島、樺太に及び蝦夷地に対しても調査の姿を現していた。クリミア戦争での敗北も東へと進出する速度を加速させた。ロシアも貿易に対しての関心から太平洋側に当然不凍港を確保しておく必要を感じた。当然、日本は脅威を感じることになる。事実、北方ではロシアからの圧迫を度々感じていた。

 英国は一時十七世紀に平戸に十年ほど商館を設置していたが、思うように成果が上がらず閉館した。が、しばらくして以後東印度会社は対日通商の復興を期したが実現することなく時は過ぎ、インド、シンガポールの植民地化後再び日本への通商計画が積極性を帯びてきた。

 産業革命により大幅な経済改革が起こったことと、英国にとって東アジアへの進出は必要不可欠なものとなってきた。英国はインドからビルマへと触手を伸ばし、中国の上海広東に進出し、のちにはアヘン戦争を起こす。これはのちに日本も危機感を覚えることになる。


 フランスの東アジア進出は英蘭に比べ勢力が及んでいなかった。インドシナ半島を植民地化するにとどまっていた。国力としては、英仏戦争以後弱体化したことは確かで、ナポレオンが席巻していた頃の勢いはフランスにはなかった。

 それよりも勢力が拡大してきたのは太平洋を隔てた米国であった。


 新大陸を西へ西へと進むうちに太平洋に乗り出し、その行き着く先に日本があった。

 遠く太平洋に乗り出せば、食糧や飲料水、船舶の補修など必要な事項が提起されるのは当然といえ、それがあるがために日本に対し開国させ港の解放を認めさせ、ひいては通商をもしたいと江戸幕府の門戸を叩くべく動き出したのである。


 鎖国政策を続ける日本にとって、露、英、米国の船が来航して通商を求める行為は徳川幕府を揺るがし始めたのである。

 露国のラクスマン、レザノフ、ゴローニンの事件、そして英国フェートン号事件はそれぞれ問題を提議したわけだが、いずれも交渉を認めず収拾を見ていたのである。

 しかし、モリソン号事件は、ひょんな形で論議が再燃し拡大し蛮社の獄へと大きな問題となったのである。


 では、モリソン号の来航とはどんなものだったのであろうか。モリソン号が浦賀に姿を表す五年も前のことであった。


 現在の知多半島小野浦海岸は、夏場の海水浴場として賑わっているが、当時は廻船業を営む人たちで、江戸と大阪を結ぶ中継地として繁栄していた。


 樋口重右衛門の所有する「宝順丸」は全長十五メートルほどの廻船だった。その船に十四歳なる音吉なる『炊』と呼ばれる見習として乗り組んでいた。

 天保三年(一八三二)十一月三日、江戸へ運ぶ積荷を乗せて、小野浦を出港し鳥羽を経由して遠州灘に乗り出した。

 しかし、暴風雨により帆を失い太平洋を漂流した。その漂流は十四ヶ月も続いた。十四人いた乗組員は一人、二人と生き絶え、音吉、久吉、岩吉の三人だけがかろうじて生き残っていた。そして陸地に流れ着いた。その流れついた先がアメリカ西海岸北部のケープ・アラバであった。よく生き残っていたものだった。


 インディアンのマカ族に助けられ体力を回復した後、英国のハドソンの毛皮会社に引き取られ、南方のフォート・バンクーバーに送られ一年ほどそこで過ごす。彼らはそこで英語とキリスト教に出会うことになる。この地で一人の青年に彼らの存在は影響を与えたようだ。その人物ラナルド・マクドナルドという少年であった。


 余談ではあるが、ラナルドは一八二四年二月三日スコットランド人アーチボルド・マクドナルドを父に、インディアン・チヌーク族の大酋長の次女コアール・クソアを母として生まれた。

 少年時代に彼ら日本人の噂を聞いて、インディアンと同じ顔つき体型をしている話を聞いて、興味を抱き、太平洋の彼方への憧れを感じていたらしい。ラナルドは二十三歳の時に捕鯨プリスマ号の船員となり太平洋に乗り出し、翌年報酬の代わりに船を譲り受け、ついに憧れの日本目指すことになる。そして、日本の鎖国のことも耳にしていたこともあり、利尻島の近海で遭難を偽装して上陸に成功する。

 だが、密入国者として捕縛され、長崎に送られ座敷牢に監禁される。彼は牢の中で日本文化や日本語を学びたいことを訴えたのが奏したのか、出島のオランダ語通詞らが彼の元に通い出し、通詞は英語を学び、彼は日本語を学んだという。

 日本最初の英語教育であった。この英語教育は後に若干ではあるが役に立つ。ペルー提督が来航した時、その通訳の任務を果たしたのが、その時英語を習っていた一人森山栄之助だった。

 ペルー一行とのやりとりは蘭語と船に在籍していた蘭語と英語の通訳とを介してというのが教科書では書かれているが、森山は少しは英語を理解しており、交渉に一役かっていたのは間違いないだろう。

 二百年近い前に日本に憧れを抱いたアメリカの少年が果たした夢は、果てしなく大きなもので困難であった。しかし、その結果成し遂げた結果もまた大きなものであったが、その事実はあまり知られていない。


 音吉ら三人はロンドンに送られたが、イギリス本国では彼らを交渉の政治的道具として利用することもなく、ただ日本に帰国させるためマカオに送られ、ここでドイツ宣教師グッツラフの扶養を受け暮らしていた。その後、肥後住人庄蔵、寿三郎、力松、熊太郎の四人がフィリピンに漂着してイスパニアの官憲に救助され、マカオに送られてきたので、七人の日本人がマカオにあった。


 広東で東洋貿易に従事する米国のオリファント会社は日本の漂流民がマカオに来たのを見て、重役チャールズ・キングは彼らを日本に護送する機会があれば、通商を開始する絶好の機会と計画し、社船のモリソン号を派遣することに決め、モリソンの武装も全部武装解除して船から下ろし、日本への献上品や自然科学の研究器具や専門家も積み込み、日本人七人を乗せ、天保八年六月一日(一八三七年七月三日)マカオを出帆し六月二十八日早朝(当時の暦で天保八年六月二十八日)に浦賀沖に到着したのである。


 浦賀奉行太田資統は、モリソン号の入津を見るとともに、文政打払令の趣旨に従い直ちに砲撃の準備を整え、幕府に異国船来航の旨を報じ、川越、小田原二藩に兵の応援を招じ、号砲を以って対岸に備えたる富津の砲台にも通告した。そして準備がなると資統はモリソン号に砲撃を加えた。モリソン号は普通なら反撃する所であるが、平和の使船でもあることを証明するため非武装にして出航してきたため、驚き野比浜の沖に退いた。夜になり資統は兵を野比浜に進め再び砲撃を加えたため、モリソン号は目的を達成することは困難と悟り退去していった。


 モリソン号は西に向かい薩州の山川港に船を寄せた。そして、今度は乗船していた漂流民の庄蔵と寿三郎の二人を上陸させて様子を探索させた。二人は薩摩藩の藩吏二人を伴い、藩吏は上官の沙汰があるまでは滞在をするよう命じた。だが、薩摩藩は家老島津和泉を派遣して砲撃を加えたため、モリソン号は同港を脱出してマカオに帰ることに決めた。乗船していた漂流日本人七名は日本に戻ること叶わず、結局はマカオ、香港に残る運命を選択せざるを得なかった。


 ここまでは、それほどの事件ではなかったのである。

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