第六章

第六章

今日も仕事を終えて、由紀子は製鉄所にやって来た。仕事しているときは、ほんとに気が重いけれど、終わったあとは、軽妙と言っていいほど軽くなるのである。

インターフォンのない、製鉄所の玄関の引き戸をがらっとあけて、ごめんください、水穂さんいますか?と、いつも通りに挨拶をする。気がついた利用者が、由紀子に、いつも通りに寝てますよ、なんていってくれるけれど、そんなこと聞いている暇もなく、四畳半に行ってしまう由紀子であった。

四畳半にいってみると水穂さんは、布団のなかで寝ていた。ただ、眠っているわけではなさそうだ。なぜかひゅうひゅうと、息をしている。

「水穂さん大丈夫?」

声をかけるととりあえず気がついてくれる余裕はあったらしい。そっと由紀子の方をみてくれた、そこまではよかった。

「大丈夫?」

もう一回聞いてみると、水穂さんは苦しそうに息をしながら、

「吐き気が。」

とだけ答えた。

由紀子は、それならば、と思いつき、よいしょ、と彼の体にてをかけて、そっと起き上がらせてやる。そして、口元に枕元にあった手拭いをそっと充ててやった。

「いいよ、水穂さん。」

そういわれて、水穂さんは三回咳き込んだ。持っていた手拭いが、いつの間にか赤い色に染まっている。由紀子は、吐き出しやすくするように背中を撫でたり、叩いたりしてやった。痰取り機のお世話には、どうしてもなりたくなかった。

幸い、このときは詰まってしまうこともなく、出すものはしっかり出してくれたらしい。水穂さんはもういいから、といったけど、由紀子は、そのまま水穂さんの体をつかんでいた。

「由紀子さん。」

水穂さんはそういうが、

「ダメ。このままでいて。」

由紀子は、いつまでも水穂さんを抱き締めていたかったのだ。とにかく、口でいくらいっても通じないのなら、態度で示すしかないじゃないか。それを伝えたかった。

「今度、ペースメーカーの埋め込み、やるんでしょう?そうすれば、すこしは、楽になれるかなあ?少なくともこないだみたいに苦しむことは、なくなるかしら?」

そう問いかけても水穂さんは答えない。

「もし、また動けるようになったら、もう一度水穂さんの演奏を聞かせてね。あたし、ピアノなんてなんの知識もないけど、聞くことだけはできるから。」

由紀子は、水穂さんにもう一度頑張って欲しかった。またピアノを演奏してほしかった。それが彼女の切なる願いだった。

「由紀子さん。よしてください。もう放してくださいよ。」

「ダメ。あなたが納得してくれるまで離れないから。」

納得とはなにに?と思われるが、由紀子は、そのままでいた。なんで自分の思いに応えてくれないのだろう。一生懸命伝えようとしているのに。

不意に頭上から咳き込むおとがする。由紀子は、我に帰って、すぐに口元へ手拭いを持っていったが、このときは時すでにおそく、由紀子の洋服に吐瀉物がついていた。

「気にしないでいいわ。こんなもの、すぐに落ちるはずよ。」

由紀子は、水穂さんが、返事を出してくれるまでずっとそのままでいたかったが、もう苦しそうなので、やめることにした。水穂さんの咳き込むおとが小さくなると、そっと口元を拭いてやり、布団に寝かせてあげたのであった。

そのまま、水穂さんは、静かに眠ってしまった。多分疲れてしまったのだろう。結局、今回の逢瀬では、気持ちは伝わらなかったことは確かだ。どうしたら伝わってくれるものだろうか。

なんとか気持ちを伝えたい。由紀子は、そう思った。でも、こんな状態では、本人に気持ちを直接いうのも無理かと思われた。それでは、スマートフォンの、ラインかなんかで気持ちを伝えればいいだろうか。と、思い付いたが、そこでまた衝撃的なことがわかる。

ああそうか!それも使えなくなるのか!ペースメーカーを埋め込んでしまえば、スマートフォンは禁止なんて、沖田先生から宣言されるのではないか!ああ、そこをわすれてはならない!

それでは、公園にいこうとか、そういう約束も、できなくなってしまう。なるべくなら、青柳先生にばれることはないようにしたかった。もし、製鉄所の固定電話を使って連絡をとるのであれば、青柳先生が管理しているわけだから、もう、すぐにばれてしまって、またげんこつを食らわされても、おかしくなかった。

そうか、生きるという保障を与えられる代わりに、便利さというものは全部失う。スマートフォンばかりではない。杉ちゃんがいっていたように、電気炊飯器にも触れられなくなるし、盗難防止装置がついた店にも、出入りできなくなってしまうだろう。それ以外でも、使えなくなってしまう、電化製品はいっぱいあるだろう。それらが使えなくなったら、どうなるだろう。最悪の場合それでは、文字通り、ただ、息をしているだけの状態になってしまう。

そうなったらどうしよう。

それでも、それでもいい。

と、由紀子は思った。

あたしは、水穂さんが生きていてくれさえすればそれでいいんだ。思いをつたえる手段がなくなったとしても、こうして逢瀬を重ねていけば、きっと伝わるはずだ!だって、水穂さんの事がすきだから、いつまでもずっと生きていてほしい!由紀子は、そんなことを頭の中で考えながら、一生懸命反芻していたのだった。

それでよかった。もし、スマートフォンが原因で、水穂さんがもし、ペースメーカーに悪影響を及ぼすことになれば、あたしは捨ててしまおう。由紀子は、そうちかった。便利だと思っていたスマートフォンは、こういう場合は、凶器になってしまうのだから。

由紀子は、自宅にかえったら、スマートフォンをゴミ箱に捨ててしまおうと決断した。それは、それでいいと思った。

また、咳き込む音がした。今度はさっきよりも音が大きく苦しそうだった。由紀子は、大丈夫?と、水穂さんに声をかける。返答はない。ただ、何か喉の奥に引っ掛かったものを、無理矢理吐き出そうとして、咳き込んでいるように見える。由紀子は、もう一度水穂さんの体を持ち上げて、背中をさすってやってあげたけれど、出すべきものはでない。

ああ、どうしよう、困ったな、何とかしてやらなくちゃ、と思っていると、

「由紀子さん、あとは俺たちがしますから、由紀子さんは帰っていただいて結構ですよ。」

と、先日医療関係の専門学校に通っていると言っていた、利用者が声をかけた。

「な、なによ。」

いきなりそういわれたので、由紀子が、びっくりしてそういうと、

「ダイジョブ?あたしも手伝うよ、健ちゃん。」

いかにも今風のおしゃれをした利用者が、やって来た。どぎつい厚化粧に、寒い中でもミニスカートという格好であるが、彼女も看護学校にいっている。見かけで判断してはいけないというが、由紀子は、彼女のようなおしゃれが、大の苦手だった。そういう人と接するのも苦手だった。

「おう、頼むわ。ちょっと気道確保してくれる?」

健ちゃんと呼ばれた利用者が、彼女にそういった。

「オッケー、任せておいて。」

彼女が、健ちゃんの指示にあわせ、水穂さんを由紀子から引き離し、布団に横向きにして寝かせてやる。健ちゃんは、背中を叩く方が早く喀出できるが、それでは、不快でつかれてしまうからな、と呟きながら、水穂さんのせなかをなでてやるのだった。水穂さんは、あの女性にしてもらったことにより、やっと楽になってくれたのだろうか、何回か咳き込んで、やっと出すものを出してくれたのだった。

よし、これで大丈夫。と、健ちゃんたちは、互いに顔を見合わせて、安心しあっているようだ。

「少し、眠りますか?」

健ちゃんがきくが、答えはない。もう疲れきって眠ってしまったのが、その答えだった。健ちゃんは、水穂を静かに布団に寝かせた。

これにて、一件落着と二人は掛け布団をかけてやる。

由紀子にも、もう大丈夫だから、と、二人はいうが、由紀子は、二人にありがとうという気にはなれなかった。そんなこといったらなんだか敗けのような気がしたのである。そう、負けではなく敗けであった。

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