第五章

第五章

本当は、自分の気持ちなんて話したくない。それでも由紀子は、今日は苦しくてしかたなかった。なぜか、頭の中に沖田先生から言われたセリフが、ずっと離れなかったのである。自宅にもどった今でもそうだった。

「もう、水穂さんも終わり何て、何を言うのよ!」

と、由紀子は初めに思ったが、家に帰って一人になってみると、なぜか気持ちが変わってしまうのであった。それは、悲しいと言うか、何かどうしようもないもどかしさというか、何というか、文章では表現できないものがある。

ただ、もう、水穂さんはいなくなってしまうことは確実視されている。ご飯を食べなかったら、栄養がとれなくなって死に至ることは、ちゃんとわかっている。わかっているからこそつらいのだ。

「なんだか、定義がわかってしまっているほうが、わからないよりもつらいわね。」

突然というものもそれはつらいだろうけど、あらかじめ先に言われてしまうほうが、もっとつらい。人が逝ってしまうというのは、いずれにしても、よろこばしいことではない。

どうしても、其れに耐えられなくて、由紀子はジョチさんに貰った、パンフレットをとった。そのパンフレットにはこう書いてある。

「心のストレスをため込んでいるのは、案外疲れてしまうものです。私たちは、何か手助けができるわけでもありません。でも、誰かの話を聞くことはできます。自身でため込んでおくより、誰かに話して、

少し楽になってみませんか?」

こんな善人ぶった文句、信じられるかと思う。そんな文句、ただ人が、自身を偉くしていくために、悩んでいる人を使っているようにしか見えないのだ。

そのパンフレットは、こう書いてあった。

「お友達の家に来たようなつもりで、お気軽に電話をかけてみてください。スマートフォンのアプリ、スカイプを使えば、経費をかなり節減できます。」

費用が掛かるというわけでも無い。其れよりも、本当にこういうことは効果があるだろうか。それが疑わしかった。

突然、由紀子のスマートフォンがなった。何だと思ったら、製鉄所からであった。差し出し主は、製鉄所の利用者からだった。

由紀子は声を出して読んだ。

「由紀子さんへ。水穂さんは、やっと安定してくれました。今日は、晩御飯に味噌汁一杯だけでしたけれど、やっと食べ物を口にしてくれました。由紀子さんが、あまりにも水穂さんのことを心配していたので、連絡しておいた方がいいと思って。あ、これ、青柳先生には知らせないでくださいね。俺は内緒で送っていますので。」

なんという事か。内緒でメールを送ってくれたのか。そんなこと知らせてくれるなんて、自分は恥ずかしいことを平気でしていたらしい。由紀子は、もう自分だってとっくに成人しているのに、こんな恥ずかしい態度をとっていたのかと、馬鹿なことをしたと思った。

そうなったら、何とかしなければならないなと、由紀子は考え直す。すぐにという訳ではないけれど、何とかこの悪い癖を治さなくちゃ。こんな風に他人に面倒なことをさせてしまったら、申し訳ないことである。

由紀子は、急いでスマートフォンを取って、パンフレットに書かれた番号を、スカイプを立ち上げて打ってみる。スカイプは余り聞いたことのないアプリだが、無料通話という機能があって、いくら電話をかけても無料という、結構使えるアプリなのだ。由紀子も、操作に慣れていないので、なかなか難しく感じたが、どうにかその番号から、その会社、「シロツメクサ」を割り出し、なんとか、無料通話をかけるところまでこぎつけた。

ベルが三回なった。どんな人が出るんだろう、と由紀子は不安だったが、

「はい。シロツメクサ代表、城田冬子です。」

と、しずかな声が聞こえてきた。なんとも社長さんにじかにかかってしまったのか。それは、幸運だったのか、不幸だったのか、よくわからないのである。

「すみません。あの、わたし、今西由紀子というものですが。」

とりあえず由紀子はそれを言った。

「はい。なんなんでしょう。何か悩んでいるのでしょうか?」

相手は、中年の女性だと思われた。たいへん静かにしゃべっている。

「あの、すみません。あたし、ちょっと相談したいことが。」

「はい。なんでしょう。言ってくれるまで私は待ちますよ。」

そうか、このアプリ、無料だから、いくらでも待っていてくれるんだ。急かす必要もない。

「あの、あたし。」

「はい、何でしょう。」

城田さんは、そう言っている。その口調はとてもやさしくて、自分のことを、どんなことでも受け入れてくれるような気がして、由紀子は発言してみることにした。

「何でしょう。何かあったのでしょうか?」

それでは、と由紀子は大きく息を吸って、こう発言した。

「はい。あたしは、とてもすきな人がいて、本当に好きな人がいて、それは大変美しい方で、本当にあたしには、もったいないほどの人なんです。その人が、あたしに話しかけてきてくれて、ほんとうに、うれしくて仕方ないくらいなんですよ。あの人に話しかけられるたびに、あたしはもう天にも昇る気持ちで、あいに行くたびに、うれしくて。」

とりあえず、前置きをいう事から始める。城田さんは、そう、そうなのね、と相槌を打ちながら聞いてくれるので、由紀子は余計に話してしまいたくなった。

「そう、そのために、あなたは自分も好きになれるのね。」

そういわれて由紀子はハッとする。そうなんだ。あたしはそういう気持ちになっていたのか。

「それは分かりませんが、あたしは、その人が話しかけてくれるたびに、あたしはあたしのままでいいんだって、何だか気持ちが軽くなるんです。それは、いけないことなんでしょうか?」

「いいえ、そうさせてもらえることが、あなたにとって、一番大切なことだから、それでいいのよ。」

城田さんは、そういってくれた。それでいいのだと優しく言ってくれる城田さん。たとえ業務であっても、そういわれるとうれしいものである。

「本当は、あたし、恋愛も結婚も、まだまだしないとおもっていたんです。こんな年じゃ、結婚を申し込まれても、無理だなんて、思っていました。あたしには、まだ、そんなことやれる資格はないなって。でも、その人とは、ずっとずっといさせてもらいたいなと、思うんです。なぜか知らないけど、そう思ってしまうんです。」

由紀子は、やっと正直な気持ちをいった。

「結婚なんて、そんな高望みをしているわけではないですよ。そんなこと、あたしは望みません。ただ、一緒にいるだけでいいから、それだけでいいから、その人とずっといたい。そんな気持ちです。

其れだけなんです。」

「そう、それほど好きな人なのね。若い時に好きな人に夢中になるのはよいことよ。」

そう言われて、由紀子は、さらに聞いてもらえてうれしいという気持ちになった。この人なら、本当のことをいってもいいのではないかと思いなおした。

「でも、大変なことになってしまったんです。もう彼の方が、あの、すみません、彼のほうが、あたしの手に届かないところというか、そういうところにいってしまうという事になってしまいまして。」

由紀子はどうしても、死んでしまうという言葉を使うことができなかった。でも、どうしても伝えたくて、このように言った。

「すぐに帰ってくることもないし、何年かしたらかえってくることもありません。もう、一度いったら、二度と帰ってこれないのです。あたしが、連絡を取ろうとしてもできるはずがなく、彼のほうから、連絡をよこしてくることも二度とないんです。もう、それが刻々を近づいてきていて、どんどん悪くなっていくばっかりで。それを何とかして食い止めないといけないのですが、もう食い止める方法もないって、みんな口をそろえて言うんです。あたしは、どうしてもそれが納得できないというか、どうしてもこっちにいてほしいという気持ちばかりで、、、。」

「そう。大変だったわね。若いのにそんな重いことに直面しなければならないなんて、ずいぶんつらいわよね。」

城田さんは、しずかに言ってくれた。特に奢っているような雰囲気もないし、変に同情している雰囲気でもない。由紀子は、この人に聞いてもらってよかったなと思った。

「ただ、由紀子さん。あなただけがつらいというわけじゃないわ。」

不意に、城田さんがそういうことをいう。

「きっと彼の方もつらいと思うのよ。あなたがそこまで愛してくれているという事は、ちゃんと感じとってくれているでしょうしね。そんな人を残していくなんて、彼のほうもつらいわよ。それは、あなただけでは、賄いきれないつらさかもしれない。そういう時は、大いにあたしたちを使ってくれて結構だから、彼にも、うちを利用するように、勧めてあげてくれると、うれしいな。」

そうか、水穂さんもつらいのか。

たしかに、そうかもしれなかった。もしかしたら、これだけ多くの人を巻き込んで、申し訳ないと思っている可能性もある。由紀子は、それをくみ取ってやるのをみんな忘れているのではないかと、思いついた。

「だから、傷のなめあいじゃないけど、お互いのつらさを吐き出しあうことも、必要なこともあるのよ。若い人たちにはむずかしいかもしれないけど、そういうときに、あたしたちを利用してくれれば、あたしたちは、なんでもお話を聞くわ。」

「ありがとうございます!正直あまり期待していなかったけど、お話しできてよかったです。」

由紀子は自分の気持ちを正直にいうことができて、よかったなと思った。

同時にこういう人であれば、水穂さんの話も聞いてくれるのではないかと思い直した。

「ありがとうございます。彼にも、お宅の番号を伝えておきますので、なにかあったら、そちらへお世話になると思います。」

よかった。頼りになる人物が見つかった。由紀子はそう思ったが、一つ大事なことを忘れていたのに気が付いた。

もし、ペースメーカーを埋め込んだら、こういうことも出来なくなってしまうんだ!

由紀子はスマートフォンをポトリと落とした。

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