第四章
第四章
「由紀子さんも早くかえるようにな。僕らは出なきゃいけないから。」
杉三にそういわれても、由紀子は帰る気になれなかった。
どうしても、水穂さんのそばにいたかった。あの小園さんが言った通り、一人で目を覚ました時に、誰かがそばにいたほうが、いいのにな、と思うのだった。
「じゃあ、僕たちは帰りましょうか。」
「おう、そうだね。」
と、ジョチさんと杉ちゃんは、玄関先に向かう。由紀子はその様子を、ただ眺めているしかできなかったのであった。
「まあねえ、たぶん、本人、反対するだろうね。ああいう道具に頼って、生活するというのは、一寸、受け入れるのは、難しいよねえ。」
「そうですね。誰かにたよったり、助けを得て生活するのは、彼にとって非常に難しいことなんじゃないかと思います。」
そんなこと言いながら、小園さんの車で帰っていく二人が、由紀子はちょっと、憎たらしいというか、恨めしくなった。
「水穂さん。」
そっと、彼に声をかける。水穂さんは、しずかに眠ったままであった。
「よかったわねえ。もうペースメーカーを体に居れれば、もう少し楽になれるのよ。」
由紀子はそういうが、通じているかどうかは不詳であった。もしかしたら、どこか遠いところで、聞いているのかもしれなかった。
「そうしたら、きっと、楽になってまたいろんなところに行けるようになるのよ。」
由紀子は、そう語りかける。もうこうなったら、働くとかそういうことはどうでもよかった。単に、旅行に行けるだけでも、それでよかった。一般的に生きているひとには、考えられない態度だった。其れだけでも許されるのは、こういうときだけである。
「水穂さん、もうスマートフォンなんて持たなくていいから。其れよりも生きているほうが大事なんだから。それはしっかり思っておいて。」
由紀子はもう一回そういうけれど、水穂さんは眠ったままで、やっぱり答えがない。
「何か答えを出してよ。」
と、言ったけれど、声を立てたらさすがにいけないと思って、もうそれ以上言うのはやめにしておいた。
「由紀子さん、もう帰ってください。余り長居をしていたら、水穂さんに負担がかかります。あとの事は俺たちがやっておきますから。」
利用者の一人が、由紀子にそう声をかけた。
「俺、こう見えても、医療関係の専門学校に通っていますから、多少のことは知っていますし、看病もできますよ。」
そういえばそうだった。彼は、看護師になるために勉強をしているのだ。他にも、女性利用者の中でそういう学校に通っている者がいた。そうか、それでジョチさんも杉ちゃんもかえって行けたんだな。
「でもあたし、、、。」
と、由紀子は、まだ躊躇している。
「由紀子さん、そんなに俺、信用できないですか?青柳先生も言っていましたよ。できない人が無理して看病するより、ちゃんとそういう学校で学んでいる人が、しっかりやればそれでいいじゃないかって。俺たちもそう思っています。だから、由紀子さんは俺たちに任せてくれればいいのです。」
たしかにその定理は間違ってはいない。仕事としてやっている人は、其れなりにしっかり技術もあるだろうし、知識もちゃんと知っている。だから、彼らに任せておけばいいというのは間違いではないのだが、、、。でもそうやってなんでも商売にしてしまうのは、それはいけないような気がする。
「ほら、早くお帰りください。明日だって、仕事があるんでしょ。早く帰らないと明日の仕事に間に合わないのではありませんか?」
「そうだけど、私は帰りたくないわ。」
由紀子は、もう一回そのことをいった。
「そうだけど、仕事は、」
と、その利用者は言う。由紀子は、そういわれてもう帰った方がいいと思った。全く、仕事なんてそんなに大事なんだろうか。それよりも、愛している人のそばにいたいというのは、許されないのだろうか。
由紀子はそう思いながら、しぶしぶ帰り支度を始めるのであった。
翌日。由紀子は、仕事が終わるとすぐに製鉄所を訪れた。もう、日はすでに沈んでいて、夜という名にふさわしく、周りは真っ暗だった。
「何ですか。また来たの?」
由紀子は、応対した杉ちゃんにそんなことをいわれた。
「ええ、また来てはいけないかしら。」
と、語勢を強くして言うと、
「いけないわけじゃないけれど、岳南鉄道は大丈夫なのかい。」
「ええ。田舎電車ですもの。大して人がいなくても、十分やっていけますよ。」
杉ちゃんにそういわれて、由紀子はそういってしまう。事実そうなのであった。岳南鉄道の駅員は年寄りばかりで、自分はいつも職場で浮いているとしか見えなかった。
「とにかく、中に入らせてもらう訳にはいかないの?水穂さんのことが心配で、すぐに来たのよ。」
「まあ、それはいいんだけどさあ。今、沖田先生が来ているよ。なんだかわけのわからない数値をずっと調べてたよ。」
つまり、何か検査でもしていたという事か。そうなると、またややこしいことになるなあ。と、由紀子
は思いながら、
「とりあえず中に入らせて頂戴。」
と、言って、中にはいった。杉ちゃんは、怪訝そうな顔をして、それを眺めていた。
由紀子は何も言わないで、とにかく四畳半に直行する。四畳半には、病院のような変なにおいが充満していた。
水穂さんはいつも通り静かに眠っていたが、その近くに注射器と、何かを調べて居たのだろうか、変な機械が置いてあった。立派な医療機器であるが、由紀子には、変な機械の様に見えた気がした。
「どうなんでしょうか。」
ジョチさんが、そう聞いている。
「えーと、そうですねえ。昨日は何を召しあがったんでしょか。ちょっと教えていただけないでしょうか。」
「たくあん一切れ。」
沖田先生がそういうと、杉三がぶっきらぼうにそういった。
「たくあん一切れ?其れだけですか?」
沖田先生は、思わず素っ頓狂に言う。
「はい。晩御飯に食わしたのは、昨日の利用者さんの話では、僕が作った蕎麦掻と箸休めとしてたくあん一切れを食わしたそうだが、蕎麦掻は全くてをつけておらず、たくあん一切れしか、食っていなかったと。」
「そうですか。ほかの食事は一切食べていなかった訳ですね。」
「ええ、多分ですが、蕎麦掻も食べるのが苦痛なんだと思います。なにか食べさせても、咳き込んで吐き出してしまう所でしたから。」
それは由紀子も知っている。いくら食べさせても、吐き出してしまうのである。
「そうですか、それでは食道の硬化がだいぶ進んでいますな。そのうち、胃とか腸も硬化してきて、このままでは一切食べ物を受け付けなくなりますね。」
「食べ物を受け付けない?それでは、栄養がとれなくなって、、、。」
それでは、の次の句を杉三も言えなかった。
「ええ、それでは、と仰ってくれた通り、食物が取れなくなりますから、そのまま放置すれば、確実に餓死するでしょう。昔は、全身性硬化症での直接の死因は、この餓死が一番多かったんです。」
と、沖田先生は、医者らしくきっぱりと言った。
「餓死!」
思わず由紀子はそういってしまう。
「そうですよ。だって、自己免疫により、消化器がすべて硬化して、使い物にならなくなるわけですからね。いくら何でも、食べ物を消化できなくなったらどうなるか、想像できますよね。」
「それを何とかすることは、」
「はい、無理ですね。こないだも言いましたが、この病気の治療は、一番強い病変を軽くしてやるしか、できないんですよ。水穂さんは、エリテマトーデスの症状である、肺組織の破壊が壊滅的ですので、それを何とかするしか今の医学ではもう。」
「よしてください!どうしてほかの症状まで手が回らないなんて、怠けているような、そんなことをいうんですか。其れよりも、何とかしようと努力することが一番なのでは?」
由紀子はそういったが、それは誰にも通じることはなさそうだった。
「そうですが、由紀子さん。僕もうちで働いている従業員に聞いたことがありましたが、四大膠原病の単独で発症した場合も、完治させるのは難しいんですよ。みんな生きていることはできますが、障害者として生きることを強いられるんです。ただ、それだけなんですよ。その四つが全部現れるわけですからね。みんなそういいます。俺たちは、ただ息をしているだけの存在に過ぎなくなったんだなって。水穂さんの場合、もっと深刻なのでは?」
ジョチさんが一生懸命由紀子を慰めたが、由紀子には通じなかった。由紀子はただ、涙を流して泣きはらした。
「まあ、その気持ちがわからないわけでもないんだよな。青柳教授みたいに、何でもかんでも事実で解決と言うわけにはいかないよ。ただな、できる事といえばそれだけなんだけどね。でも、若い奴はそうはいかないよなあ。」
杉ちゃんが、そう自分を弁護してくれたけれど、その若い奴という言い方が、由紀子には癪に障った。そういう言い方をされると、若い奴をバカにしているというか、若いというだけで悪いと言っているような気がする。
「ご不安であればここで相談したらどうですか?」
不意にジョチさんが、由紀子に小さい声で言った。
「先月、僕が買収した企業なんです。まだ名を知られていないので、命の電話とか、そういう有名なものよりはつながりやすいと思います。」
と、言われて、名刺を差し出された。これはなんだと思ったが、
「電話、メール相談、シロツメクサ。」
と書いてある。
「一応、有料ではあるんですけどね。電話ではなくスカイプやラインを使用するらしいので、かなり電話代が抑えられるらしくて、二時間話しても1000円程度で済むそうです。」
たしかにそのとおりなら、さほど高い金額ではなかった。その名刺には、社長、城田冬子と書いてあり、スカイプ番号とラインのIDが書かれている。
「もし、やってみたかったら、パンフレット差し上げます。」
と、ジョチさんが、一枚のA4サイズの紙を渡した。
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