第二章

第二章

由紀子は静かに泣いている。

水穂さんはやっと、しずかに眠っている。

隣には、沖田先生がいて、脈をとるなり、聴診するなり、いわば「観察」しているのだった。

それにしても、一緒に来たのが青柳先生ではなくて、ジョチさんであったのが唯一の幸運だったかもしれない。もし、青柳先生であったら、すぐにげんこつをくらわされて、部屋を出ていけとか言われるかもしれないが、同じ偉い人であっても、ジョチさんはそういう人ではなかった。とりあえず、この部屋に一緒にいることを許してくれた。それだけはよかった。それだけは。

でも、ジョチさんが呼び出した、沖田先生の顔は厳しいままだった。もしかしたら、自分が公園に連れ出したことがばれてしまったのかもしれない。

「すみませんが、くるしみだしたのは、いつの頃でしょうか。」

沖田先生が、聴診器を取って、そう聞いた。

「あ、はい。えーと、僕たちがこっちに来たのは一時前くらいでした。そのときに杉ちゃんが、変な音がすると言って、僕たちは気が付いたのですが。」

「そうですか。その前に、水穂さんを見ていた人物はいませんでしょうかな?」

そう聞かれて、杉三が由紀子を顎で示した。

「ちょっと聞きますが、水穂さんが、頭が痛いとか、ふらついたりとか、そういうことを訴えたりしませんでしたでしょうか?」

そういわれて由紀子は返答に困ってしまった。もし、適当に口にしたら、先ほども言った通り、公園に連れて行ったことを、また大いに叱られる羽目になってしまう。由紀子は少し考えて、

「ええ、お昼前に、頭がふらついたと言っていたことはありましたけど。」

と答えた。

「へえ、お昼は食べたの?」

「ええ。」

杉ちゃんに聞かれて、由紀子はそう答えた。

「おかしいなあ。昨日、野菜も何も全部なくなってしまったので、それじゃあ、何も食うものがないと思って、蕎麦掻もって来ようということになったんだが?」

よくそんなことを覚えていられるな。だって、昨日の野菜が残っているかなんて、そんなことを覚えている主婦は少ないはずなのに。

「いや、僕、覚えてるよ。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうですね。この着物の畳み方、かなり間違いが見られるので、水穂さんが畳んだものではないと思われますね。」

ほんとに、着物の畳み方は独特なんだなと、由紀子は思った。もうちょっと、畳み方が簡単ならいいのになあ。

「由紀子さん、正直に言ってくださいね。本当は、水穂さんとどこかへ行くつもりだったのではないですか?」

ああ、、、とうとうばれてしまったか!由紀子はもう何も言えなかった。

「よしてくださいよ。勝手に外へ連れ出すなんて。かえって、おかしくさせるだけですよ。」

由紀子は、そういわれて、落胆はしたが、不思議と謝罪をしようという気にはなれなかった。そこはどういう理由なのか、よくわからなかったけど。

「で、先生。水穂さんはどうなんでしょうか。」

ジョチさんが、ふいにそう話題を変えた。たぶん叱ってもしょうがないと思ってくれたのだろう。其れならそれでいいと由紀子は思った。

「ええ、そうですね。もう、ここまで来てしまうと、もうどうしようもなく、、、。」

「そんなことはわかっております。そうじゃなくて、今日あったことの原因についてです。」

ジョチに言われて、沖田先生は、わかりました、と、一回咳ばらいをして、こう切り出した。

「はい、心臓がかなり衰弱しています。おそらく多発筋炎による、筋力の低下でしょう。具体的には、画像検査とかしてみないとわかりませんが、心臓がかなり肥大しているのではないかと。」

「な、なるほどねえ。原因は何だろう?」

と、杉三が聞くと、

「はい、原因は免疫細胞の凶暴化ですね。自己免疫によって、心臓の筋肉が炎症を起こし、衰退しているのだと思います。」

「治療法、みたいなものはないのでしょうか!」

沖田先生が、そう答えるとすぐに、由紀子はすぐに聞いた。

「ええ、ありません。ほかの古典的膠原病であれば、凶暴になった細胞がどれなのか、大体明らかにされていますので、ステロイドのような打つ手立てもあるんですが、この病気に対しては、混在している四大古典的膠原病の中で、一番強いものを何とかするしか方法がないのでありまして。」

「そうかあ。ほかのやつも一緒にたたくことはできないの?」

杉三がそう聞くと、

「よく言われるんですが、其れもできないんですよ。そうなると、ほかの臓器まで弊害が及んでしまいますのでね。何しろ、ある所では炎症があり、有るところでは硬化したり、衰弱したりするわけですから。そうなると、まったく矛盾した状態が、一人の患者さんに発生するという、とても奇妙奇天烈な現象が起こります。そうなってしまうのは、すべての膠原病の患者さんの中でたったの一パーセントしかないという、何ともまれな数字なんですけど、いざなってしまうと非常に重篤な症状を示してしまうという訳でして、、、。」

沖田先生は、申し訳なさそうに答えた。

一パーセントだって!つまりほかの99パーセントの人は、ここまで重症にならないという事じゃないか!どうして、水穂さんだけがその一パーセントにあたってしまったのだろうか?

「ちょっと待ってくださいよ。全部の患者さんを何とかするのが医者のしごとでしょ!それなのに、ほかの99人の患者さんは助かって、水穂さんだけが一人助からないというのでしょうか?其れなら、不公平です!たった一人だけもう助からないとして、放置してしまうなんて、お医者さんでもひどすぎるというか、一人だけ差別しているんじゃありませんの!」

由紀子は、そう思って、沖田先生にくってかかった。

「そんなことありません。病気の中には、医者にも治せない状態になる人が、少なからずいるんです。膠原病も今は治せると言いますが、そうじゃない人は、一人か二人は出るんですよ。特に、この病気にかかってしまうと、私たちもどこの病変から手を出せばいいのかわからない、という人が多いんです。」

「そうですよね。確かに四つの膠原病が混在するわけですから、そうなってしまうのもわかりますよ。一つの病気でも治すことは難しいと言われているのに、それが四つ重なるわけですからねえ。」

ジョチさんが、沖田先生を擁護するように言ったが、

「先生もひどすぎます。99人の治せる人は丁重に治療して置きながら、たった一人のこういう重症化した人は、何もしないで捨ててしまうんですか!それじゃあ、まるで人種差別だわ!あんまりじゃないですか!本当に、治せる方法は何もないのですか!」

由紀子さん、騒ぐのはよしましょうね、なんてジョチさんに注意されたけれど、由紀子はそれを聞き入れる気にもなれずに、沖田先生にさらに詰め寄った。

「本当にないんですか!あたし、そのためなら何でもします。あたしの事なんてどうでもいいから、水穂さんのことを助けてやってください。このままだと、水穂さんは、一生差別されたままになってしまうんじゃないかと思うんです。そうじゃなくて、せめて医療関係だけは、本当に生きていてよかったと思ってくれるようにしたいんですよ!」

「パリであった、おトラちゃんとおんなじこと言ってらあ。やっぱり、イケメンは得だ。以前、命だけは平等だとスローガンを出している病院もあったそうだが、水穂さんの話によると、そうでもないと言っていたことがあったなあ。たしか、入院はさせてもらったけど、大部屋のほかの患者さんたちといさかいが絶えなかったそうで。」

由紀子の発言に杉ちゃんは腕組みをして考え込んだ。

「まあ、同和問題というのは、何処に行ってもそうなります。汚い身分の人と一緒に入院するなんて、まっぴらごめんだという人の方が、まだまだ多いでしょう。いくら医療者側が受け入れても、ほかの患者が許さないのは、国が差別を禁止する法律でもださない限り、終わらないでしょうね。」

「そうですねえ。うちの病院でもたまにそういうことがありました。最近は、部落民だけではありません。知的障害のある人とか、或いは外国人で言葉が通じないとか、そういう人がやってくると、病院を変えたいだとか、部屋を変えてくれと要求する患者さんは多いです。なんでも、そういう人に、何をされるかわからないので、不安でしょうがないとか。うちも、かなり重度の人を入れていますので、そうなると、療養に支障が出るのも確かですからな。患者さん本人だけではありません。ご家族がそういってくる場合も多いです。」

「なるほどねえ、それでは愛情なのか差別なのかよくわかりませんねえ。多分、安心して療養させてやりたいんでしょうけど、病院というところは、本当に多様な人が利用するわけですから、それがかなわない場合も多いですよね。それでご家族は文句をいうのでしょうが。本当に、自分だけが、という風潮が、日本では強いですなあ。」

ジョチと沖田先生は、そう言い合って、ため息をついた。

「まあいい。そんな社会事情をはなしていたってしょうがない。其れより、由紀子さんの気持ちも考えてやろうな、帝大さん。もう一回聞くが、水穂さんを何とかしてやる方法は、まったくないと言っていいものだろうか?」

杉三が、二人の話に口を挟む。由紀子は、杉ちゃんがやっと自分の気持ちに応えてくれたと、少しうれしくなった。

「方法は、ないわけじゃないけど、、、。」

沖田先生はちょっと考え込む。

「何だ、有るのか。あるならもったいぶらないで早く言ってくれよ。出ないと、由紀子さんがかわいそうだぞ。」

杉三に急かされて、沖田先生はわかりましたと言った。

「とりあえず、心臓が全身に血液をうまく送り出せていないのは確かでしょうから、それを補助するために、ペースメーカーを体内に埋め込むことかと。」

全員、一度ため息をついた。

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