鳥のように Like a bird

増田朋美

第一章

鳥のように Like a bird

第一章

この年は、ひたすらに寒い日が続いたが、やっと寒さが解消され始めてきて、少しづつ暖かい日が顔を出し始めるようになった。それではよかった。と、少しづつ外へ出ていく人も増え始めてきている、今日この頃である。

「ねえ、水穂さん。」

由紀子が、久しぶりに、製鉄所を訪れた。

「今日は、ちょっと暖かくなってきたから、出かけよう。桜だけなくて、バラが咲き始めたかもしれないわよ。」

勿論バラが咲き始めるのはもう少し後の事であるが、由紀子はどうしても外へ出かけたくて、水穂にそう促した。もう時間がないというのを受け入れるのは非常に難しいことであったが、その分、水穂さんとの、思い出を沢山作っておきたかった。

「ほら、早く。着替えて立って。」

水穂にしてみれば、もう歩くことさえ苦しいのだった。そんな中で出かけようなんていわれても、困ってしまうだけである。しかたなく、大きくため息をついて、何とか布団の上に座った。

「ほら、着替えて。」

由紀子は、水穂の箪笥を勝手に開けて、着物を一枚取り出した。少なくとも、銘仙の着物というものは、出す気はしなかった。

由紀子に言われて、水穂は、しぶしぶ着替え始めた。もう、腕を動かすにも非常に苦労して、着物を着るのにも休み休み。何十分もかかってしまった。でも、こういうときに由紀子はあえて手を出さない。其れこそ、彼への愛情ではないかと思うから。すぐに手を出してしまうのは、愛情というより、能率を上げるための、ただの手立てでしかない。

それでも、今回は何とか着替えることはできた。やった、できた!なんていいながら、由紀子は彼と手をつないでバラ公園に行った。もう、亀より遅いスピードであったけれど、それでも由紀子は、彼を支えて、バラ公園を歩き続けた。

ほんの短距離でもいいから、歩いてほしかった。できるだけ、歩けなくなってしまうのはあと廻しにしたい。そんな気持ちが由紀子にはあったから、とにかく、歩いてもらいたかった。二人で静かに歩いて、本当に幸せだった。ずっとこの幸せがいつまでも続いてくれればいいなと思った。ほら、向こうの木に花が咲いてる、なんて由紀子は語り書ける。でも、水穂さんは、もはや彼女の問いかけに応えることはできなかった。前方にあるのはエリカの老木で、もう今年いっぱいで切り倒してしまうことが決定していたものであったが、由紀子はそんなことは知る由もない。

不意に、水穂さんが咳き込む声が聞こえてきた。もう疲れてしまったのかと由紀子は思った。それでは、とあたりを見渡すと、ちょうどエリカの老木の下に、小さなベンチがあって、隣に「自動販売機、化粧室」と書かれた標識があった。

「水穂さん、ここで休もうか。このベンチに座って休んでいてね。あたしジュース買ってくるからね。

ちょっと待ってて。」

「わかりました。」

水穂は、もう疲れ切ったという様子でそういった。

「スマホ持ってる?」

由紀子が聞くと、

「いえ、ないです。」

と水穂は答えた。もしもの時のためにスマートフォンをもって来てくれればいいのになと由紀子は思ったが、まあ、公園の内部なので、大丈夫だと思った。

「じゃあ、あのベンチに座らせて貰ってね。それじゃ、行ってくるからね。」

由紀子は、そういうと、標識が示している方向へ走っていった。ところが、自動販売機は、意外に遠く、いつまでたってもたどり着けない。ちょうど、犬の散歩をしていたおばあさんとすれ違って、自動販売機はどこにあるか、と聞いてみると、ここからまっすぐ200メートルほどだという。大して歩けない距離でもないが、今の由紀子には、地平線の果てまで歩かされるくらい遠かった。

走っているうちに、何を飲みたいのか聞いてくることを忘れていたことを思い出した。水穂さんという人は、これまでに当たった食品は100を超す、と杉ちゃんに聞かされたこともある。もしかしたら、コーヒーや、紅茶で当たったことはあったかもしれない。それを聞いてくるべきだったと、由紀子は激しく後悔した。

でも、水だったら飲めるはずだ。と、考え直した。由紀子は、さらに急いで、200メートルの道を歩いた。やっと目的の自動販売機の前へたどりついたとき、由紀子は、呼吸を整えて目を皿のようにして、ペットボトルの水を買った。この時、自分だけ、水以外のものにしてという気にはならなかった。同じブランドの水を二本かって、おつりを取るのも忘れて、由紀子は、元来た道を戻る。

一生懸命走りに走って、遅くなってしまったことを、水穂さんに謝って、水を一緒に飲むだのだ。それを一生懸命連想しながら、由紀子は徒競走の選手みたいに走っていく。さあ、もうすぐだ!水穂さんが、ベンチの上で待っていてくれる!由紀子は、其ればかり考えながら、長い200メートルの道を、急いで走った。走っている間、ペットボトルを強く握りしめる。そのため、冷たかった中の水も、熱いものになっていた。

「水穂さん!」

急いでベンチの前で止まった。

「ごめんなさい遅くなって。急いで行ったけど、思ったより、自動販売機が遠くて。遅くなっちゃったわ。」

と、いい終えた所、水穂さんの姿がない。

「ど、どうしたの!」

由紀子は、自分が持っていたペットボトル二本などどこかにおいて、慌てて水穂参を探し始めた。水穂さんはどこへ行ってしまったのだろうか!

「水穂さん、水穂さん!」

必死になって探していると、水穂さんがあのエリカの大木の前にあおむけに倒れているのが見えた。由紀子は、すぐにそこへ駆け寄る。

「水穂さん、水穂さん大丈夫!」

急いで声をかけてみた。そうすると、閉じていた目が、ちょっと擦れるように動いて、やっと目が開いた。

「大丈夫?」

まだ意識はあったらしく、二、三度咳き込んだ。口の周りには、血が少しばかり落ちている。

「ごめんなさい。ちょっと頭がふらふらと。」

そこだけでも、口に出したという事はまだよいのだろう。そこだけはよかった。そこだけは。

「あたしにつかまって。」

由紀子は、水穂さんを抱え起こした。よいしょ、と彼をよくいう「お姫様抱っこ」ように抱きかかえる。女性の由紀子でさえも、持ち上げられるほど、げっそりやせてしまったなと思いながら。

「大丈夫だから、製鉄所に帰ろうね。」

そういって、由紀子は、水のこともおつりのこともみんな忘れて、急いで製鉄所に戻っていった。もう、水を飲もうとか、そういうことは言っていられなかった。

本当はお医者さんなんて呼びたくなかった。そんなことをしたら、なんでこんなにひどいことをしたんだと叱責されることは疑いない。だから、由紀子はそのことに言及はしなかった。とりあえず、彼を布団に寝かして、かけ布団をかけてやった。また寒いとか、そんなことをいわれるといけないので、

もう一枚毛布を掛けてやる。

「しばらく眠るといいわ。」

そんな事を言ったが、水穂さんは、何も反応しなかった。多分眠ってしまったのだろう。しかし、この出来事を誰かに話してはならない。ばれたらいけないと、由紀子はすぐに思った。急いで、水穂さんの着物を脱がせ、いつも通りの浴衣姿に戻してやる。着物というものが、普段着でも外出着でも、寝間着でも、同じ形をしていると言うことが助かった。それに水穂さんという人が、すごく几帳面な性格で、脱いだ着物をすべて枕元に畳んであるというのも救いだった。なので、着替える浴衣だって、迷う心配はなかった。すぐ脱がせて、また掛ふとんをかけてやる。

ただ、由紀子は、脱ぎ着は知っているが、着物をたたむ方法を知らない。着物の畳み方は独特で、かなり難しいものなのである。由紀子が、一生懸命着物をどうやって畳もうか悩んでいると、頭上から咳き込む声が聞こえてきた。いや、咳き込む声というより、呻き声であった。

「どうしたの?」

思わずそちらの方を向いてしまう由紀子。どうしてしまったのだろうか。水穂さんは、眠ったはずなのに?と思いながら水穂さんのほうを見る。

水穂さんは、静かに寝ている、、、はずだった。しかし、今日は、苦しそうな顔をして、呻き声を上げている。

思わず、かけ布団を取ってみると、水穂さんは、骨っぽい右手で胸の左の部分を抑えながら苦しんでいる。

「どうしたの?苦しい?」

由紀子がもう一回言うと、水穂さんからの返答はなかった。

これでは、もう、放置していてはいけない!もしこのまま放置していたら、もう大変なことになってしまうかもしれない。

「おーい、暖かくなってきたが、まだまだ冷えるなあ。そう思ってよ。お前さんのすきな蕎麦掻、作ってきたよう。」

杉ちゃんだ。なんでまたこんな時に現れるのだろうか。しかも杉ちゃんという人は、一人ではなかなか行動しない人物であるから、必ず誰かを連れてくるだろう。それでは、その人物は誰!

由紀子が黙ってというより、凍り付いていると、

「ご精が出ますね。もうすぐ春と言っても、まだまだ先ですね。これは。」

この声色は分かる。この人物であれば、頭をたたかれることはないけれど、実質的にいえば、自分が不利になることは確かだ。

「誰もいないのか。でも、水穂さんは動けないはずだから、必ずいるはずだよな。よし、はいろうぜ。」

「そうですね。もしかしたら、眠ってしまったかもしれないですね。」

あ、ああどうしよう。それではもう、こっちへ来てしまう、ばれてしまったらもうおしまいだわ!と由紀子は思いながら、でも何も行動に移せなくて、ただ凍り付いたまま、そこにいるしかできなかった。水穂さんの呻りは、さらに大きく強くなるばかりだ。それに比例して、二人の近づいてくる音も、さらに大きく聞こえてくるようだった。

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