私が溺れた川 24
「一つだけ聞いてもいい?」
「ん?」
ヒロキの胸から頬を離して、顎の下からあのひとの顔を見上げるような姿勢で聞いた。
「音楽をやめてから、どうやって幻聴と戦ってたの?」
「ああ」
手は私の髪を撫でていたけれど、ふっとその視線が別のどこかへ逃げ場を求めるのを見逃さなかった。
「……聞こえてなかったんだ。ずっと」
俯いているのに私のことを見ていない瞳を囲う睫毛が細かく震えている。どういう意味かと聞き返すこともできずにいた。
「ナイトフォールをやってたときから段々聞こえる頻度が減っていって、解散するころにはほとんどなくなってた。バンドを辞めて……、しばらく海外に行ってたんだけど、その頃にはもう完全に聞こえなくなってた」
長年の苦しみからの解放はあのひとにとって喜びであるはずなのに、私は手放しで喜べなかった。なにかとても嫌な予感がした。私を脅かすなにかが、もう逃げられないほどすぐそばまで、例えばこの部屋のドアの外側にまで静かに忍び寄っているような感じがする。
「……でもさっき」
と言いかけると、私の髪を撫でる手が止まった。あのひとの表情を必死に読み取ろうとしたけれど、どんな印象も得ることができなかった。
「……また聞こえるようになってきたんだよね、最近」
「最近っていつから」
「加奈子と会うようになってからぐらい」
心臓に杭を打たれたような衝撃があった。実際に私の呼吸は止まった。視界がぼやけて白と黒にちかちかと点滅を繰り返した。どんなに酷いことばで詰られるよりも私に傷を負わせるにはうってつけの事実だった。
「加奈子といると、ときどき曲を作りたくなるような気分になる。……もう音楽をやるつもりはないのに」
「奥さんといるときは聞こえないの?」
「え? ああ……」
初めて口にしたその単語に、ヒロキは狼狽えたようだった。二人してせーので見て見ぬふりをしていた場所に、助走をつけて飛び込んでいく。
「確かに、聞こえないな。あいつと出会ってから、聞こえなくなったかもしれない」
身体全体が脈打ち、吐き気を覚えた。なにかよくわからない感情が急速に奥深いところから込み上げてきて大爆発を起こそうとしている。はさみを持ち出して長い髪をザクザクと切ってしまいたいような。机を上に載ったカップごとひっくり返してしまいたいような、そんな感情だ。
ああ、なんだか私が長い間汚されまいとずっと綺麗に保存しておいた大切なものが、急速に風化してパラパラと砕けていくようだ。
ヒロキは平凡になった。私と別れたならもう、誰とも結婚なんてしないでありふれた幸せなんて手に入れないでほしかった。一生才能に狂わされたままでいてほしかった。
部屋のどこかでまた着信音が鳴る。私のスマホは音を消してあるから、ヒロキのものだろう。さっきみたばかりの柔らかな笑顔を浮かべた赤ちゃんの写真が脳内を埋めていく。目元がなんとなくヒロキに似ている。男の子だろうか。そんな印象を受けたけれど、将来、父親にギターを習ったりするのだろうか。私はあの子の幸せをぶち壊すようなことをしているのだろうか。だからこどもって嫌いだ。なにをしても私が悪いみたい。
「もう終わりだね」
両手いっぱいに抱えたオレンジの一つが転がり落ちるみたいだった。自分の口がそう発してからゆっくりと理解が追い付いてくる。
終わりだ。今度こそ、本当に。
心のどこかでどんなに離れていても、別々の場所でそれぞれの生活を営んでいても、例えどちらかが死んでいたとしても、あのひとだけが私の居場所であってすべてだと思っていた。
「……そっか」
ヒロキがまた私の髪をそっと撫でる。
「加奈子がそう思うなら」
その一言を聞いた瞬間、私のなかでさっき懸命の火を消した感情が大爆発を起こした。止まりかけていた涙は滂沱となった。伝えたいことばは頭の中で単語ごとにバラバラに分裂し、形を失っていく。
どうして私のせいにするのだろう。もっと激しく縋ってくれたらいいのに。私たちはお互いじゃなきゃ駄目なはずなのに。
ヒロキの胸を思い切り突き飛ばした。突然のことにバランスを崩して背から後ろに倒れたあのひとの腕や胸や身体のあちこちをできる限りの力を込めて殴った。
短く整えられた黒い髪が嫌い。
煙草を吸わない指先が嫌い。
ヒロキは反射的に腕を翳して身を庇うけれど、私に向かって手を出そうとはしない。これじゃあまるで私だけが悪いみたいだ。最後にもう一度渾身の力で握りしめた拳をあのひとの胸元に振り下ろし、ソファを降りてまだ食器が載ったままのローテーブルを両手でひっくり返した。
勢いよく空中に放り出されたフォークやスプーンがフローリングまで飛んでいってけたたましい音を立てる。スープカレーが入っていた深皿が絨毯の上に逆さまに落ちて、茶色の染みを作る。割れずに残っていたガラスのコップを手に取って壁に投げつける。ゴッという思い音をたてて衝突をしたものの、思い描いたみたいに木端微塵に砕け散ることはなくて、残念に思った。
「加奈子、お前、なにしてんの」
足元に転がっていたもう一つのコップを拾って振り上げた右手を、ヒロキに取られた。
「やめてよ」
それを振り払った勢いのまま壁に投げつける。今度は狙いが外れて壁に掛けてあった時計にあたり、二つが床に落ちる。思わず目を瞑ってしまうほどの音がした。
百円ショップで買ったコップは意外にも強いらしい。なんだかおかしくなってきて、胸や肩が揺れるような低い笑いが込み上げてくる。
腰を下ろし、白い壁を見つめたまま次の獲物をまさぐっていると、手のひらに直線を描くみたいに清涼感と痛みが走った。驚いて見てみると、手のひらの端から端までを貫くように血が出ていた。割れた皿の破片を握ろうとしていたらしい。握ろうとして力を入れると傷口から血液が溢れてきて手首を伝って床へポタポタと落ちた。映画やドラマのなかでしか見たことのない光景に呆然と見とれてしまう。
「もうやめろって」
さっきよりも強い力で赤く染まった手首を握られて、ヒロキの顔を見た。目の周りや鼻が赤くなっている。
「お願いだから。もうやめてくれ」
喉の奥が痙攣して、嘔吐してしまう気がした。けれども出てきたのは大粒の涙と、涎と、言葉にならない声だった。駄々をこねてスーパーの床を転げまわるこどものような叫び声を上げた。
あばら骨が折れそうなほどの強い力で抱きしめられる。身動きが取れないままヒロキの胸の広さを感じた。華奢なほうだと思っていたのに、今は全身を包み込まれるように抱きしめられている。
その温かさが憎い。私はこれを絶えず欲している。
抱きすくめられたままその胸を殴ったけれど、もはや力は入らなかった。トン、トンと優しく戸を叩くみたいだった。うう、と声が漏れてヒロキの胸に顔を埋めたまま、涙が出なくなるまで泣き続けた。
そのうちに涙も声も枯れて、気がつけば眠りに落ちていた。
目が覚めてもまだ私の身体はヒロキに抱きしめられていた。私はそっとその腕をどけて、ヒロキのなかから這い出し、チェストにしまっておいた煙草とライターを取り出した。ヒロキの顔は瞼が腫れていた。
箱から煙草を一本取り出して口に咥え、銀色のライターで火を点けた。
すう、と吸ってふう、と吐いた。
煙が立ち上るそれを差し出すと、ぼんやりとこちらを見つめていたヒロキは手を使わずに歯で噛むようにして受け取った。新しい煙草をもう一本取り出して、火を点けて口に咥える。そしていつかの夜のように横に並んで座った。
カレーの匂いが子どものころの思い出みたいになんとなく残る静かな狭い部屋に、二つずつの煙を吸って吐く音だけが響いた。
「これ、吸い終わったら出てって」
そういう私の声は酷い熱に苦しんだ朝のように枯れていた。
「わかった」
淡白な一言に流れ尽くしたはずの涙が目の奥を焼く。私はただ息を深く吸って吐くことだけを意識した。もう隣にいるヒロキの顔を見ることすらできない。
左手の人差し指を中指に挟まれた煙草の端が橙色に光ってすぐに黒く変わってどんどん短くなっていく。七年前の私が恐れていたのは、今この瞬間だった。だからあの狭い部屋から一人きりで逃げ出したのに。
隣でヒロキが立ち上がる気配がした。指に熱を感じくらいに短くなった煙草を灰皿に押し付けられないまま、私は顔を伏せていた。
「加奈子」
このまま何も言わずに去っていってほしい、と願いながら目を瞑った。
微かに空気が揺れ、私と同じ香りがして、薄く目を開ける。そこにあのひとがもういなければいいのにと思いとは裏腹に、目の前にはヒロキの顔があった。
驚くことも拒むこともできないまま、キスをされた。
今まで味わっていた煙草と同じ味がした。
唇が離れただけの距離で額をくっつけて、ヒロキの顔を見つめると、睫毛が微かに震えていた。その頬に触れることも首に腕を回すことも二度とできなくなるということを、猛烈に痛感した。
それ以上は何も言わずにヒロキは立ち上がり、コートと荷物を手にして部屋を出ていく。永遠に残ってしまうような気がして、後姿を見ないようにした。
バタン、という音がこの空間に蓋をして、私だけを閉じ込める。
なんとなく目をやったカーテンの向こう側からぼんやりとした明かりが差し込んでいる。もうすぐ夜明けだ。冬の頼りない朝がやってくる。いつかあのひとが怖いと言っていたあの時間帯。左半身を下にして、床に寝そべった。
どこからか冷気が忍び寄ってくる。テーブルはひっくり返り、床には割れた食器が散乱している。
これでもう本当に終わり。
私はとっくにあの川に溺れて死んでいたのだ。
カーテンの隙間から侵入してきた光が寝不足の目に突き刺さる。
連絡をしなくちゃ。
唐突にそう思い立って、スマホを探した。
私が溺れた川 青井あるこ @arcoaoi
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