私が溺れた川 23
お湯を注いだマグカップにカフェインレスのハーブティーのティーパックを浸して、ゆっくりと広がっていく紫が強い茶色を眺める。思考が自由になるとどうしてもさっき手のひらサイズの画面のなかで見た赤ちゃんもとへ辿り着いてしまう。こどもってずるい。こどもを持つ女性ってずるい。
「加奈子」
名前を呼ばれてはっと我に返る。
「やっぱり疲れてるね」
ヒロキはそう言いながら私の手元にあった二つのマグカップからティーパックを取り出して、テーブルへと運んでいった。
「ありがとう」
ソファに並んで腰かける。できるだけくっついていたくて、ほとんど身体をヒロキのほうへ向けるようにして座り、黙ってハーブティーを飲んだ。甘いような酸っぱいような香りと味が優しく身体のなかに染み込んできて、穏やかな眠気が下りてくる。
我慢ができなくなってあくびをした。
それに続いてヒロキが大きな口を開けて、私たちは顔を見合わせて笑った。
「うつったね」
「うつった」
ふふふっと春に咲くなずなの小さな白い花みたいな、幸福が溢れだして音になったみたいな声で二人で笑った。
私にはずっとあのひとに聞いてみたいと思っていたことがあって、今ならその花のような幸福が私たちを護ってくれるような気がした。
「ねえ、ずっとどうしてたの」
第一声は自分で想定していたよりも意気地のないものになった。気を取り直して続ける。
「まだずっと聞こえてるの? あの音楽」
「や、だいぶ良くなってたんだ」
そのことばを聞いて私の背中や肩をがちがちに固めていた緊張がするすると解けていき、口は滑らかに動き始めた。
「ほんとはね、もしかしたらどこかで死んじゃってるんじゃないかって思ってた」
「誰が? ……俺が?」
「そう。ヒロキが音楽を辞めて生きていけるはずがないって思った。音楽なしでどうやってあの幻聴と戦ってるんだろうって」
ヒロキが人肌くらいまで冷めたマグカップを握る手に力を入れるのを視界の片隅に捉えたけれど、私は勢いのままに続けた。
「もう音楽はやらないの?」
耳をそばだてたらきっと水面に氷が張るような、そんな音が聞こえたかもしれない。それくらいに空気が硬化するのを肌で感じた。
「……やらない。もう」
ヒロキは低い声でゆっくりとはっきりと言った。いつもの私ならそこで怯むだろうけれど、今は無鉄砲な強さを纏っていた。
「どうして? またヒロキの曲を聴きたいけど」
「もう意味がないから」
「意味?」
「もう音楽をやる意味も、理由もない」
素早くそう言うと、ヒロキはまるで私を牽制するかのような長くて乾いたため息を吐いた。私はそれに無性に苛立って、余計にことばを付け加えたくなる。
「この前久しぶりにナイトフォールの曲を聴いたらやっぱりよかったよ。今でもヒロキが作った曲を聴きたいなーって思った」
「もうとっくにナイトフォールは終わったんだよ」
「そうだけど、でもバンドを辞めたって音楽を続ける手段はいくらでもあるじゃん。そんな才能を活かさないなんてもったいないよ」
ヒロキがさっと身体を引いて、探るように視線を左右に細かく振りながら私の目を見た。その視線が、信じられない、と言っている。
「加奈子には、わからないよ。……俺には才能がない」
「わかるよ。わかるに決まってるでしょ。ヒロキに才能がないわけないじゃん」
そう言いながら口がからからに乾いていく。だけど手のなかのマグカップにはまだハーブティーが残っているのに、飲む気にはなれない。
「わかってないのはヒロキのほうだよ」
口にした途端にガラガラと音を立てて崩壊していったのは、たぶん七年前も今も私を立たせていた誇りやプライドだった。あのひとのために精一杯背伸びをして大人ぶっていたのに。喧嘩になる予感がした。今まで私を護っていたものが壊れて、私はそのもっと内側の部分を晒して戦おうとしているみたいだ。ボロボロになる予感がする。
「なんにもわかってないのはヒロキのほうだよ。私がどんな思いで一緒にいたか、どんな思いで去ったか、全然わかってないんだね。私はただヒロキに音楽を続けてほしかった。何よりも音楽を大切にしてほしかった。ヒロキの音楽を護るためなら、私、なんだってできたのに」
余りにも一方的で重たいと自分でも思った。一番なりたくなくて馬鹿にしていたタイプの女に成り下がってしまっている。
「ヒロキは知らないだろうけど……、私」
あなたの音楽と出会っていなければ、今ごろとっくに死んでいたのよ。
耳のなかで自分の声がはっきりと聞こえた。
たぶんそういうことだった。ずっと。ヒロキが生んだものたちと出会っていかに救われたか。そういうことを伝えたかった。ヒロキは私にとって神様みたいなものだった。日常の憂鬱という激流に溺れて死にかけていた私を、あの日、ステージの上から掬い上げてくれた。
「ずっと続けていてほしかった。私のことなんかいくら捨ててもらっても忘れてもらっても構わないから、音楽をずっと続けていてほしかった」
「そんな言い方するなよ。俺は加奈子を捨てたなんて思ったことないし、忘れた日だってなかった。加奈子はやっぱりわかってない。俺の音楽なんて加奈子が自分を犠牲にしてまで護ってもらうような価値なんてなかった。俺は音楽を捨ててでもいいから、加奈子と一緒にいたかった」
「うそだよ。私にそんな価値ない」
「そんなこと言うな。お願いだから」
「じゃあどうして連絡くれなかったの。追いかけてきてくれなかったの」
気がつくと私の身体は小刻みに震えていて、目からはハラハラと花弁が散るみたいな容易さで涙が流れていた。
「……もう離れるべきだと思ったんだよ。俺なんかといて狭い世界に閉じこもるより、学校とか家とかいるべき場所に戻るべきだと思った。俺じゃあ加奈子を幸せにできなかったから」
私はヒロキを殴りたい気持ちになった。震える手でマグカップをテーブルに置く。
学校も家も幸福さえもいらなかった。ヒロキがいればそれでよかった。心からそう思っていたのに。ヒロキが着ているグレーのスウェットの胸倉を掴んだ両手が大きく震えていた。
ヒロキの両目を睨み付ける私の両目からは大粒の涙がとめどなくずっと流れ続けている。
「俺には才能がなかった。それだけだよ。全部」
「才能がなかったら、あんな曲も詞も書けないよ」
顔面びしょ濡れの私と反対にヒロキはとても穏やかな表情で首を横に振った。
「昔、加奈子に言ったことがあるような気がする。俺は本当は歌いたかったんだって。でもユウトに出会って、神様に愛されるってこういうことなんだって思った。あいつの声こそが本物の才能だった。心からそう思ったから素直にボーカルの位置を譲れたし、あいつの声を活かせるような曲を作ろうと思った。だけどさ」
ことばの続きを聞きたくなくて、私は首を振った。ぼさぼさに乱れた髪が視界を覆うように固まって揺れる。手を離すとスウェットの胸元には皺が寄ってしまっていた。殴るかわりに抱きしめたくなったのに、手が重たくて持ち上げることができない。
「俺よりもあいつの声を活かせられるやつがいた。初めてあっちのボーカリストとしてステージに立ったユウトを見たとき、嫉妬するよりも先に感動したんだ。ああ、俺はこういう曲が作りたかったんだなって思った。そうしたらもう自分で納得できるような曲が書けなくなった。何も浮かんでこなくなった。所詮、そこまでだったんだ。俺たちのバンドがなくなっても、俺の曲がなくなってもユウトの声はたくさんのひとに愛されてる。街とかテレビとか、いろんなところであいつの声を聞くたびに、これでよかったんだと思うよ」
そう言って笑うヒロキの顔は本当に穏やかで、風の少ない晴れた日の午前中の海みたいに、何もかも諦めたような表情に見えて酷く苛立った。
「うそつき。ずっと自分の曲をユウトに歌っていてほしかったくせに」
「それはそうだけど。それを否定したら嘘になるけど、たぶんそれは加奈子と一緒だよ。さっき加奈子は自分を捨てても良いから俺に音楽を続けてほしかったって言ったけど、似たようなことを俺はユウトに対して思ってた。あの声がずっと音楽として存在しつづけるなら、そこに俺の存在があろうがなかろうがどっちでも別にいいなって」
こんなにも深い覚悟のうえに、今のヒロキとユウト、それから他のメンバーたちの人生が成り立っているのだということを想像もしていなかった。何が方向性の違いだ。どうしてこんなにも音楽を愛しているひとが、音楽のために自分を犠牲にできるようなひとが、音楽と別れて暮らしているのだろう。
その覚悟を目の当たりにして、もはや私にできることなどなにもなかった。たくさんのことを考えて諦めて身を引いて、大切なものを護ったヒロキのことをこれまで以上に愛おしく尊く思った。両腕をヒロキの脇の下に滑り込ませて、できるだけ身体が密着するように抱きしめた。そして胸に耳を当てて、心臓の音を聞く。涙は止まらないままだ。
私がヒロキを慰めたいと思ったのに、背中に回された大きな手が子どもをあやすようにゆっくりと動く。七年経っても私はこどものままで、ヒロキはいつでもちょっぴりおとなだ。どんなことばを持って言い聞かせようとしても、耳は傾けてくれるけれど、決して自分の石を曲げない。そういうところを変えられなかった。肝心なところで干渉できなかった。
もう白旗を掲げるような心境だ。
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