私が溺れた川 22


 机の上に置いたままにしていたノートパソコンとCDを片付けて、チャイムが鳴るのを待った。あのひとに会うのは久しぶりだったし、ナイトフォールの曲を聴いて昔を思い出すような懐かしくて感傷的な気分だったせいもあって、はやる気持ちを抑えられなかった。


仕事を終えて会社を出て、地下鉄に乗り込んだ瞬間に連絡をした。返ってきたメッセージに書かれていた時間まで、あと十五分ほどだ。


化粧と髪を直そうと鏡を覗き込んだとき、その脇にグレーの小箱が置きっぱなしになっているのが目に入った。慌てて引き出しを開けて、入れた。パタン、と音がした瞬間、身体から力が抜けて、化粧をする気も削がれた。こんな指輪をくれるひとがいながら、別の男のために身なりを整えようとしている。


ヒロキと再会してからずっと懐かしさと美しい気持ちでなりふり構わずにここまで走って来たけれど、急に今まで見えていなかったものが見えるようになったような感覚だった。


そのタイミングでインターホンが鳴る。さっきまであれほどまでに会いたいと思っていたのに、今はどうして来てしまったのかと責めたいほどだった。ゆっくりと玄関へ行ってドアを開けた。


「久しぶり」


顔の下半分をマフラーに埋めるようにして現れたヒロキ見て、適当なことを言って追い返してしまおうかなんていう考えは瞬く間に崩れ落ちて砂粒みたいに指の間から零れ落ちていった。


「久しぶり。寒かったでしょ」


そう言いながら部屋の中に招き入れる。ハンガーを手にして、コートとマフラーを受け取る。


「ありがとう」


その声を聞きながらハンガーに上着を掛けて吊るした。


「年末年始はやっぱり忙しいよ。忘年会に新年会に……。なかなか休みが取れなかった」

「おつかれさま。やっと落ち着いたところ? これからちょっと休めるの?」

「そんな感じ。でも三月になったら今度は送別会と歓迎会シーズンが始まる」

「なるほどね」

「それに学生のバイトの子たちが辞めたり入ってきたりする時期でもあるからしばらくバタバタするだろうなぁ」

「居酒屋の一番忙しい時期だね。私はとくに一年のなかで忙しい時期と暇な時期があるわけでもないからなぁ。いっつも同じ感じ。月末がちょっと忙しいくらい。ねえ、疲れてるならどこかに食べに行く? それか何か取ってもいいし」


私がそういう頃にはヒロキはもう手にしていたビニール袋を流しの上に置き、中身を取り出しているところだった。


「それはいい。今日は俺が作るっていう約束だったし」

「でも無理しないで。お店が忙しかったなら、家でぐらいゆっくりしなよ」

「それとこれとはべつ。加奈子だって今日一日仕事で疲れてるし、明日も仕事なんだからゆっくりしててよ」

「なんか申し訳ないよ。家に呼んで料理させるなんて……。私も手伝う」


このキッチンのどこになにがあるかをすっかり把握し、足りないものを足してまでいるヒロキが軽やかに野菜や肉を切りながら笑った。


「なんか逆だよね。普通」

「なにが?」

「普通は大抵、彼女が彼氏の家にやってきて料理するよね」


私もつられてふふっと笑った。今でも私のことを彼女と呼ぶんだということに形容のしがたい感情を覚えて、それも笑みに繋がった。


狭いキッチンには料理に凝らない私にはもったいないぐらいの性能を持った圧力鍋がある。一人暮らしを始めるときに母がくれたそれを、私はただの鍋だと思っていたけれど、プロの料理人となったヒロキにはその良さがわかるらしく、今ではほとんどあのひと専用のものになっている。本当はゆっくりと煮込みたいものを短時間で作らなくてはならないときに使うと良いらしい。


大きさを揃えて切られた野菜や、色とりどりの見慣れないスパイスや調理器具と使いこなす姿を見ていると、なんだか七年前に猛烈に恋をしていた相手と同一人物だとは思えなくなってくる。どっちがどうというわけではなくて、ステージの上で飛び跳ねて髪を振り乱していた狂気にも似た才能を、この日常のどこに落とし込んでいるのだろうかと不思議になる。


「ねえ、ヒロキ、そういえばさぁ」


ヒロキが鍋をかき回す横で、私は使い終わった器具を洗っていた。そう話しかけても返事がないのでヒロキのほうを見てみると、ゆっくりと動かしていた右手がおたまの柄を持ったまま固まっている。目はコンロの奥の壁を見ているようで、見ていなかった。その姿を見るのは久しぶりだった。最後に見たのはきっと七年前のあの頃で、再会してからは一度も見たことがなかった。


「ヒロキ?」


その声にやっと気がついたようにこっちを向いて、左手で自分の左耳を抑えた。私を見つめるその目は驚きに見開かれていた。


「また聞こえてたの?」

「ああ、うん」

「やっぱり疲れてるんだよ。もう良さそうじゃない? そろそろ食べようよ」


そう促すとヒロキはようやく動き出したけれど、さっきまでと比べて口数は断然減っていたし、怯えている様子が見てとれた。ヒロキが作った特製の魚介のスープカレーとご飯を別々の器に入れてテーブルに並べる。絨毯の上に置いたクッションの上に腰を下ろし、いただきます、と手を合わせた。


テレビを消したこの部屋は住人が黙ると途端に静かになる。私は少しだけ急いでスプーンで白米を掬ってカレーに浸して口へ運んだ。


「おいしい」


ヒロキが得意だという魚介だしを使ったカレーはいつも美味しい。作るたびに使うスパイスや具材を変えて飽きさせないようにしてくれているけれど、例え同じ味を永遠に食べ続けたって飽きる日は来ないだろう。それくらいに繊細で奥の深い味をしている。


美味しさできっと緩んだ顔をしていたのだろう。あのひとの顔も少しだけ緩み、いただきます、と言ってカレーを食べた。


「うまい。ちゃんとできてた」

「ちゃんとできてるよ」

「よかった」

「ヒロキの料理がちゃんとできてないことなんてないじゃん」

「あるよ。ときどき」

「うそだー。あ、でもさ、昔作ってくれたハンバーグは生焼けだったよね」

「それは本当に昔のはなし。あのときと一緒にはしないでほしい」


そう言って笑い合えたことで安心した。ヒロキは今でも自分の頭のなかだけで鳴る音楽に苦しみ続けているのだろうか。だとしたら今はどうやってそれから自分を護っているのだろう。唯一の救いだった自分の音楽はもう、捨ててしまったのに。

ずっとそれを尋ねてみたかった。


私と別れた数か月後、ナイトフォールはメジャーデビューを果たした。


積極的に知ろうとしなかったから詳しいことは知らないけれど、それでも精力的に活動を続け、発表する楽曲や激しいライブパフォーマンスは高い評価を受けていたはずだった。


だけど五年前に急に解散してしまった。


もうとっくにヒロキやナイトフォールとは別の道を歩んでいた私だったけれど、ネットでそのニュースを見つけたときは動悸がしたし、少しでも理由を知りたくて様々な記事を漁った。だけど出てくるのは自分たちの活動に終止符を打った誰もが口を揃えて言う、方向性の違いというフレーズだけだった。


その後ユウトは別のバンドでボーカルを続けていて、今でも街を歩くと彼の声を聞くことがある。ショウタとリョウタもそれぞれ音楽活動を続けているようだというのはなんとなくわかっていた。完全に音楽と決別をした生活を送っているのは、四人のなかではヒロキだけらしいのだった。


「本当においしい。どうしたらカレーがこんなにおいしくなるのか不思議なくらい」

「大袈裟だって」

「だってすごくお洒落な味がする。カレーなのに」

「そんな言い方するとカレーが好きじゃないみたいに聞こえる」

「カレーは好きだけど、なんか、サービスエリアとか市民プールとか学校の給食のイメージなの」

「どういうこと、それ」

「おいしいけど、こども向けの単純な味ってイメージ」

「まあでもカレーってそんなもんだよね。本来は」


二人の前にある皿はほとんど空になっていた。私は昔から白米を多く食べられないほうだったけれど、鍋にこのカレーが残っていることを思うともう一膳くらい食べても良いような気がしたし、あえて明日の夜までの楽しみとして取っておくのも良いかもしれない。


「だけどヒロキが作るカレーはね、いつも奥が深くて、なんか……、こうよく考えられてるなって感じがするんだよね。ああ、なんかそれって」


ヒロキが作る曲みたいだね、と言いかけて口を噤んだ。


不思議な沈黙が突然食卓に落ちてきて、あのひとは続きを促すように私を見た。必死に自然に繋げられるようなことばを探していたそのとき、短い電子音が鳴って、私の視線は絨毯の上に転がされていたヒロキのスマホの明るくなった画面に吸い寄せられた。


私も登録している天気予報のアプリが明日の天気を知らせてくれたらしい。通知としてはそれだけの内容だった。だけど私は別の部分に気を取られてしまった。


赤ちゃんの写真。


そのあどけない笑顔は、私の充足感や幸福をバラバラに打ち砕いてもなお余りあるほどの力を持って襲い掛かってきた。


手と足の先が急速に冷えていく。頭のてっぺんのほうが重たくなって、支えるのが辛くなる。


「加奈子?」


あのひとの声が何か膜のようなものの向こうからしているみたいにくぐもって聞こえる。


想像していないわけじゃなかった。結婚をしているんだから、こどもがいたっておかしくない。煙草をやめた理由がライブでの体力を維持したいからではなくて、こどものためだとしてもなんの不思議もない。わかっていた。わかっていた。


スプーンさえ重たく感じてテーブルに置き、できるだけゆっくり息を吸って吐くことを心掛けた。


「どうした? 大丈夫?」


私の異変を察知したヒロキがすぐに寄り添って、抱きかかえるようにして背中を撫でてくれる。


暖かくて、細くて、長くて、白い指。

だけどその爪が割れて変形していることを私は知っている。

新しい爪が生えてきても歪んで欠けたままなのだと言っていた。

私はそれをとても愛おしく、それ以上に誇らしく思っていたのに。


急に訪れた酸欠感は、酷くなることもなく静かになりを潜めた。


「ごめんね。たぶん貧血なんだけど、ときどきなるの」

「大丈夫なの? それ。病院行った?」

「行ってないけど、大丈夫。そんなに酷くなることはないし。昔からだからもう慣れちゃった」

「昔っていつ? 俺といたときからそんなんあったっけ?」

「あったけど、ヒロキといるときはならなかったかも。そういえば」


大型の台風のような強さと激しさを持って私のなかで吹き荒れていたあのひとに対する恋心は、それとともに凪いだ大海のような穏やかさを私の精神に齎していた。


「もう大丈夫だから。びっくりさせてごめん」


私はヒロキに微笑んで見せて、皿に残っていたカレーを全て平らげた。支度のときと同じように片付けも二人でならんでやる。ヒロキが洗った食器類を私は拭いて、棚にしまっていく。


あまりにもよくできすぎた幸せだ。よくできすぎていて、作り物みたいだ。ヒロキとの会話のなかでときどき笑い声をあげながらそう感じた。

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