私が溺れた川 21
自分の部屋へと帰るとき、ずっと実家のクローゼットのなかの箱のなかに閉じ込めておいたナイトフォールの一番のお気に入りだったアルバムを連れ出した。
お風呂上がりの濡れた髪を乾かしながらパソコンにそれを取り込んでいると、玄関のチャイムが鳴った。ネットで何かを購入した覚えもないし、知人だったら事前に連絡をしてからやってくるはず。不審に思いながらも覗き穴を覗くと、マフラーを巻いた篤樹が俯いてそこに立っていた。
プロポーズに対する返事の用意はまだできていなかった。今、彼に会っても何も言えることがない。胃の辺りが重たくなり、温まったはずの身体が冷えていく。
だけど外は寒い。さっき聞き流していた天気予報では今夜は何か降るなら雨ではなく雪だと言っていた。
鍵を外してドアノブを回すのに、多大な勇気が必要だった。ゆっくりと押した隙間から篤樹が気に入ってよく履いている赤いニューバランスのスニーカーが見えた。
「ごめん、急に……」
「ううん」
首を小さく振ってドアを開け切る。どうしたの、とは聞けない。
「とりあえずあがってよ。寒いでしょ?」
「いや、いいよ。ここで。突然来ちゃったし。明日から仕事だし」
「そうだけど……」
湿り気を含んで冷えた風が私の髪を凍らせていくようだ。そんな夜道を歩いてきた篤樹は大雪に遭難しているみたいに心細そうに見えた。世界が真っ白に閉ざされたときみたいな静けさが下りてきた。
「あけましておめでとう、とも言えてないなって思って……」
「そういえばそうだね。あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」
そんな妙な会話を繰り広げてしまうほど、私たちは本当に話したいことを切り出すことを躊躇っていた。
「年末年始、なにしてたの?」
「実家に帰ってたよ。普通にお父さんとお母さんとテレビ見ながらだらだらしてた」
と答えながら、そんなことさえも話していなかったことに少しだけ動揺した。
「そうなんだ。二人とも元気だった?」
「元気だったよ。なんかちょっとこっちがびっくりしちゃうぐらいに」
「なんで?」
「あんなに仲良さそうにしてる二人を見たの、久しぶりだったから」
私の家族の事情をそれとなく聞かされていた篤樹はほんの一瞬口籠り、それから
「それなら良かったじゃん」
と笑った。
「うん、ほんとに……」
どうにか繋いだ会話もそれ以上広がることなく冷たい風に掻き消されてしまう。私も篤樹もお互いの間にある気まずさを認める他なくて、顔を見合わせて苦く笑った。
「ごめん、本当はさ」
「うん」
「加奈子に会いたくて来ただけ」
あまりにもストレートなことばに、私は怯む。ずっとそんなことを言われたかった。何も告げることなくあのひとの元を去った十七歳の少女も、そんなことばをずっと待っていた。愛するひとのために自分を犠牲にするには、十七歳はまだ幼すぎた。
そんなふうにこんなときでさえ目の前の彼より、あのひとが現れる。もはや絶望的だった。
「情けなくてごめん。待つって言ったくせに。やっぱり加奈子がいないと駄目だった」
私は返事をすることさえできない。篤樹の目は風邪をひいたときみたいに潤んでいる。
「答えなんて、そんなにすぐ出せないよな。ごめん、こんなこと言われたら困るよね」
実際には困り果てていたけれど、力なく首が左右に動いた。
「私のほうこそすぐに答えられなくて、ごめん。でもいろいろ考えちゃて……。たぶん私は、臆病なんだと思う」
「そんなことない。加奈子が臆病なんてことは絶対ない。よく考えるべきことだと思う。こればっかりは、俺の気持ちだけじゃどうしようもないし、加奈子にちゃんと納得して選んでほしい」
私のなかの罪悪感が破裂して、大事な内臓とかが壊れて急死しそうだった。どうして篤樹はいつもこんなに真っ直ぐなのだろう。
彼は私の心変わりに気がついているはずなのに、どうして自分がボロボロになるくらいに傷ついてまで私に優しくするのだろう。
こんなに真っ直ぐ純粋に愛される資格なんて、私にはないのに。
「うん、ありがとう……」
そう答えながら、もう篤樹の目を見ることはできなかった。目の奥が熱くなっていた。
「身体冷えちゃったよな。お風呂上がりだったんでしょ」
「大丈夫だよ。そんなこと……」
「ほんと、ごめんな。突然。あったかくして寝て」
「うん」
「またいつでも連絡して。俺は待ってるから。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
そう言って篤樹は手を振って去っていった。その背中が廊下を階段のほうへ曲がって消えるまでずっと眺めていた。その光景はなんだかまさに、別れという感じがした。
篤樹が去ってドアを閉めて、エアコンの設定温度を一度上げた。机の上ではパソコンがナイトフォールのアルバムを取り込み終わっていた。「太陽はシンクに沈む」というタイトルのアルバムだ。
再生ボタンをクリックしてみる。二つのギターの音が重なり合う。思わず呼吸を止めてしまうような二小節分の空白。そしてドラムで籠っていた音が空気中に放出されるみたいに勢いを持って展開していく。七年ぶりに聴いても変わらず、イントロから彼らの世界に引きずり込まれていく。ユウトの声が切なく訴えかけてくる。どんなに明るい曲調でもあの声があると、描かれた幸福の裏に悲しみとか絶望が潜んでいるんじゃないかって思ってしまう。
ヒロキが繰り返し讃えていたのは、きっとこういうところなんだろう。
あのひとがずっと欲しがっていたのは、きっとこういう声だったんだろう。
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