私が溺れた川 20
待つって言ったけど、一体いつまで待つつもりなんだろう。
篤樹にプロポーズをされてからの一週間、二人の間には電話も一通のメッセージさえもなかった。それが無言の圧力となって責められているようで、早く答えを出さなくてはいけないというプレッシャーに変わり、ますます彼から私を遠ざけた。
誰と会っても話すことなんてなくて一人でいたほうが気楽だったし、年末年始も年越しの瞬間さえも一人で過ごそうと目論んでいたのに、土壇場で来た母からの連絡を無視することもできずに実家で過ごすことにした。
母が作った料理を父と三人で食べる。
「これ、美味いなぁ」
父に手料理を褒められた母は、素直に嬉しそうだった。綻ばせた頬は薄っすらとピンクに染まっている。
「そうだよ。お母さんが作るポテサラに勝るポテサラはないよ」
「もう二人ともなに言ってるの。こんな珍しいことがあるとかえって不安になるわ」
私たちは一年の終わりに、ときどき野次を入れつつ紅白歌合戦を見ながら、すきやきにポテトサラダというやや不釣り合いだけれど飛びっきりに美味しいご馳走を頬張った。
最近のアイドルの子たちは皆同じ顔をしている、なんておじさんみたいなことを言うすっかりおじさんになった父と、私はちゃんとわかるよ、なんて言いながらメンバーを指さして名前を挙げる母を見て、私はようやく帰ってきたのだと感じた。
長い間、本当に長い間、ここを自分の家だと思うことができていなかったし、父や母といるとただ息が詰まるだけで苦しかった。私の家族は一生このままなのだとずっと諦めていたのに。
父はたぶん不倫をしていたのだろうし、母はそれを知っていた。そんなことを乗り越えて、娘である私が二十五歳になろうとしているときになってようやく、私たち三人は安らぎや温もりのある家族の姿を自分たちに重ねられるようになってきた。
これが家族なのだと思う。あの日々に感じていた絶望的な愛しさとは別の穏やかな日常こそが。
年が明けてそれぞれが寝床に就いて、元日には三人で近所の神社に初詣に行った。
人でごった返す参道をすいすい歩いていく父。その後ろを付いていく母と私。
神前で手を合わせ、願った。このまま父と母がうまくやっていけますように。
自分の幸せはとてもじゃないけれど、神様には願えなかった。わかっている。私にはいつかバチが当たる。
三が日をまるっと実家で過ごしたけれど、結局プロポーズをされたことは言わなかった。
篤樹と別れて、ヒロキにも奥さんと別れてほしいのかと言えば、そうでもない。
十七歳のあの日々のなかで私たちは終わってしまっていた。そんなことはわかっている。
出会ってからずっと嘘を吐きつけていたことを告白してからもしばらくの間、私たちは恋人同士のままでいた。あのひとを愛おしく思う気持ちは変わらないどころか強さを増していたし、あのひとのことばや仕草や行動の端々から愛されていると実感できることもあった。だけど会えば会うほど、辛くなっていった。あのひとに躊躇わずに触れられることに至上の幸福を覚えながら、どこかでいつか終わりがやってくることも知っていた。
あの日、私たちが恋人でいられた最期の日。
目が覚めたら太陽はすでに真上を通り過ぎていて、カーテンを閉めていても部屋のなかは明るかった。空気中に漂う埃がきらきらと輝いて、なんだか映画のワンシーンを見ているような気分だった。壁に貼られたイギリスのバンドのポスターも色褪せて見えて哀愁を漂わせている。ヒロキのベッドのなかで、私はひとりぼっちだった。目が覚めた瞬間に、ぼんやりする頭の奥のほうでひとりぼっちだということには気がついていた。部屋のなかには昨夜の余韻が残っている。ゆっくりと舞っている埃の一つ一つの微細な輝きが、まさしく昨日の思い出のようだった。
三月の午後。薄いシーツと毛布を引き剥がして、パンツを履いて床に落ちたままになっていたスウェットを着た。お茶を飲もうと向かったキッチンは昨日のままだ。クリームがべったりとついたままの皿とフォーク。コーヒーの茶色の線がくっきりと残ったマグカップ。三角コーナーには水に濡れた半分ほどの長さになったカラフルな蝋燭たち。胸の辺りがぐっとなったけれど、できるだけ感情の表面より奥に浸透させないようにして冷蔵庫を開けた。
切り取られた断面を晒して、居心地悪そうに食べかけのホールケーキがそこにあった。さっき感じた胸のぐっ、がもう無視できないほど強くなって嗚咽が漏れた。身体に力が入って変に震える。頭皮に爪を立てる。
「ああ……」
ことばにならない声が口から立て続けに漏れて、涎が糸を引いて床に垂れた。座り込んだラグは私が選んで買ってきたもので、それさえこの部屋には似つかわしくないように思えた。
あのひとは今日は大阪でライブだ。ちょっとでも邦ロックに詳しいひとなら誰でも、少なくとも名前は知っているようなバンドのツアーに呼ばれたのだ。会場はお客さんが八百人も入るらしい。普段、あまりバンド活動のことを詳しく語らないヒロキが、興奮した様子で話してくれたことを覚えている。私も見たかった。対バン相手の曲も聴いたことがあったし、なによりナイトフォールのライブを見たかった。彼らの音楽を生で浴びて、全身に吸収したかった。死にたかった十五歳の私を、この世に縫い付けた彼らの音楽を。
もうずっとライブには行けていない。ヒロキとこんな関係になって、初めの頃こそ誇らしい気持ちで見に行ったものだったけれど、誰にも何も言っていないのに、誰かにバレたらどうしようという恐怖心のほうが大きくなって、気がつけば足が遠のいていた。
私がヒロキを手に入れたことで失ったものは、毎日聴いていたお気に入りの音楽だったのかもしれない。
今日のライブが終わると、明々後日は神戸でサーキットフェスに出るから、次にこっちへ帰ってくるのは四日後ということになる。
力の入らない足で立ち上がろうとすると、ラグが滑って流し台に下腹部をぶつけた。水圧がでシンクがどどどと音を立てるくらいに水を出して、右手の甲で乱暴に涙やら涎やら鼻水を拭った。スポンジに洗剤を染み込ませてぎゅっと握って泡を立てて放置された食器たちを洗っていく。クリームが泡に飲み込まれて排水溝に流されていくのを見るたびに、私のなかとあのひとの間にあった何か大切なものまで一つずつ消えていくような感じだった。それでも皿を、フォークを、包丁を、マグカップを激しい水流で洗い流していく。
複数のメジャーなレーベルから声を掛けられていると聞いたのは、一年半くらい前。そのうちの一社と良い感じで話が進んでいると聞いたのは、一年ぐらい前。どうやらうまくいきそうだと告げられたのは、三日前のことだった。
コンスタントにバイトしているはずなのにほとんど残高のない口座からお金を下ろしてきて、有名なパティスリーでホールケーキを買ってきて、二人で食べた。
甘すぎなくて上品で、トッピングされていた果物たちはどれもみずみずしく輝いて、本来の味がした。
「おいしい」
ケーキを載せたフォークを口の中から引き抜くことさえも忘れて、二人で声を上げた。何口食べても飽きることなく美味しくて、おいしい、を繰り返した。その語彙の無さに二人で笑った。あのひととナイトフォールの音楽が認められることは嬉しかった。こうして大きな門出を一緒に祝えることを心から幸せに感じたし、これからもどんな形でも応援していこうと思えていた。昨日は。
だけどこうしてひとりで目を覚まして、片付けをする。同級生が皆学校へ行っている間に。あのひとが遠いどこかで歓声を浴びている間もひとりぼっち。一瞬帰ってきたとしても、またすぐに出て行ってしまう。それだけ彼らの音楽に需要があるということも、それが喜ぶべきだということもわかっている。
わかっているけれど、私はひとりぼっちだった。
そしてあのひとの活躍は、私の存在をなおさら邪魔なものにしていくようだった。
食器を綺麗に片づけて、布団を畳んで、洋服や下着たちを収めるべきところに収めて、掃除機を掛けた。あのひとが疲れて、でも熱に浮かされて帰ってきて、その溢れた感情を他の何にも邪魔されることなく創作へとぶつけられるように。
気がついたらもう、夕暮れ時だった。
開けっ放しにしていた窓とカーテンを閉め、自分のバッグを手にして部屋を見渡した。なにか忘れ物はないだろうか、と考えて、ある物のことを思い出した。
いつかの宣言通り、本当に使われることがほとんどなくなった銀色のライター。いくつかの引き出しを開けてそれを見つけて、デニムのポケットにねじ込んだ。もうきっと忘れ物はない。あったとしてもあのひとが処分してくれるだろう。
もう振り返ることもなく、部屋を出た。いつかもらった鍵はドアの外側から郵便受けのなかに滑り込ませた。
それから一度もあのひとに会うこともなく日々を過ごしてきた。無事にメジャーデビューを果たしたらしいということはなんとなく聞いていたけれど、もう彼らの音楽を聴くことはなくなってしまった。せめて何も言わずに消えた私にもう少しだけ縋ってくれたなら、私はきっとどんな孤独や不安にも耐えてあのひとのそばにいることを選んだはずなのに。私たちは明確な別れの言葉を持たずに、でも確実に終わってしまっていた。
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