私が溺れた川 19
酒を浴びるように飲んだ夜更けよりも頼りない足取りで、手だけは固く結んであのひとの部屋へ帰った。玄関のドアがゆっくりと閉まって、鍵を掛けた。こんなときでも日常は身体に染みついている。
それがなんだかちょっとおかしくて、確認するみたいにあのひとの顔を見上げた。
やっと視線が合って、どちらからともなくキスをした。後頭部を片手で抱えられて追い詰められるみたいだった。実際に私は力負けして、たたきに座り込んだ。力の抜けた右腕を掴んで立たされて、二人で服を脱いだ。
身体を触られて触っている間に初めて、駄目だ、と思った。
こんなことをしていたらいけない、と。
だけどそう思えば思うほど私の身体は強くあのひとを求めていて、それと同時に求められていることも分かった。なりふり構わずに求め合って、そして少し泣いた。
汗にまみれてボロボロになって、何故だか裸のままベッドから降りて床に並んで座った。
朝が迫りくる時間帯。一枚の毛布に二人で包まったまま、中途半端に開いたカーテンの隙間から空が明るくなっていくのを眺めた。
真っ黒だった世界に少しずつ青味が混ざっていき、群青は次第に白く掻き消されていく。
朝が来る。
お互いの身体を押し潰すようにして寄り添う。朝が来て、夜が終わる。日付はとっくに変わっているというのに、そのころになってようやく新しい一日が始まるのを感じる。絶望感と諦め、そしてヒリヒリするような清々しさみたいなものが、眠れずに迎えた朝にはある。
ヒロキが脱ぎ散らかした衣類のなかから煙草とライターを探し出してきて、また毛布に潜り込んでくる。煙草を口に加えて火を点けて深い息とともに煙を吐き出すのを横目でしっかりと眺めていた。
「もう煙草やめようかな」
「それ、本気で言ってる?」
ふう、ともう一回煙を吐いて、指先に煙草を挟んだ手を毛布の上に落とした。そして少し笑った。
「今回はまあまあ本気」
「ほんとに? じゃあ本当にやめたくなったら、それ、私にちょうだいよ」
「これ?」
ヒロキは毛布の海に溺れさせていたライターを左手で掴み、私に見せるように軽く持ち上げた。
「それ」
と私は頷く。ヒロキはそれには答えずに、また短く笑った。
ヒロキの唇の間から出た煙が朝の光に消されてしまう。朝はいつも人が隠そうとする秘密を暴こうとしている。
「昔から朝が来るのってすごく嫌いだった」
隣から煙に混ざって漂ってきた声は、その部分だけ湿っていた。
「朝が?」
「こういう朝になっていく時間とか、すごく嫌だった」
私はヒロキの肩に頭を預けて、静かにその時間や空気を味わっていた。
「学生の頃とかよく、夜中に歌詞書いたりしてさ、これはいいものが書けたって思っても朝になって明るいところで読むとなんだこれってなるんだよな。不思議と」
「うん」
「真夜中ってさ、案外寂しくないと思わない?」
「え?」
と私は聞き返しながら、またヒロキが面白いことを言い出しそうな予感にわくわくした。
「誰もいなくて街は静かで、ネットを開いても同じように孤独を持て余して眠れないひとだけ。でもだんだん朝になるにつれてどこかで人の気配がし始めて、自分も誰かと繋がらなきゃいけない気になってきてさ。爽快に目覚めて、正しく一日を過ごさなきゃいけないような気がする。そういうのがすごく疲れる」
「うん」
「朝早く起きて仕事とか学校に行って、やるべきことをこなして、周りの人間とうまくやって、笑って、愛されていなきゃいない、みたいな。そういうふうにならなきゃいけないような気がして、朝まで眠れずに起きて誰にも認めてもらえないくせに拘って詞とか曲を書き続ける自分が馬鹿で無意味なような気がして、ずっと朝が怖かった」
こうして二人で迎える朝を、あのひとは一体どう受け止めているのだろう。もう決まった時間に起きる必要も学校へ行く必要もなくなった今、朝の光はあのひとに何を言っているのだろう。そして気づく。
「だからat nightfallなんだね」
私は体育座りをして、膝小僧の辺りの毛布を握る自分の右手を眺めていた。
「ナイトフォールを好きになったばっかりの頃にね、どういう意味なんだろうって思って調べたことがあるの」
十五歳の女子高生にとってnightfallという単語は耳馴染みのないものだったし、今でも日常で耳にすることはほとんどない。とにかく私は意味が知りたくて高校入学時に買ってもらった電子辞書で調べたのだった。
nightfall。夕暮れ。
サンセットということばなら聞いたことがあっても、そんな表現があることはそれまで知らなかった。
at nightfall。夕暮れ時にて。
それがヒロキが自分のバンドに付けた名前だ。
「夕暮れ。もうすぐ夜になるっていう時間」
ヒロキは最後に大きく煙を吐き出すと、煙草を灰皿に押し付け、私のほうへと身を寄せた。
「そんな感じ。俺にとっては夜のほうが安心できたから、もうすぐそういう時間が来るよっていう瞬間。あと単純に夕暮れって綺麗だし。めちゃくちゃ綺麗な一瞬のあと、真っ暗になって何も見えなくなるのって良い、よね」
「うん、いいね。朝焼けも綺麗だけど、そのあとの強い明るさで、その綺麗だなぁっていう気分が消えちゃう。こう、ジュッて蒸発するみたいに」
「ジュッて」
ヒロキが私の頭に頬を摺り寄せてきて、伝わってくる微かな振動であのひとが笑っていることを知った。
「なんで笑うの。そんな感じしない? 氷が溶けるみたいにゆっくりなくなってくんじゃなくて、一瞬でジュッて無くなるの。わかる?」
「わかるよ、なんとなく。言いたいことは」
「でしょ?」
「でもその表現が面白いなって思って」
私たちはお互いの指と指を交差させて固く手を繋ぎながら、素っ裸で床に座り込んでいるというのに、そんなシュールな光景に似つかわしくないくらいに朗らかな声を上げて笑った。なにがおかしいのかわからなくなってもまだ笑って、乾いた頬に互いの髪が触れてチクチクとする感覚にさえ笑った。
「加奈子は? なんかそういうこわいものとか、あった?」
「んー。なんだろう。こわいものはいっぱいあるけど……」
例えば私はホラー映画が見れないタイプだったし、高いところも狭いところも苦手だった。こわいものなんてたくさんあったけれど、そういえば一つ、なんとなく怖いとか嫌悪感を覚えながらも人に言えずにいたものがあった。それを今、この場所で、あのひとになら打ち明けてもきっと大丈夫だろうと思った。
ヒロキはそれすらも楽しんでくれるだろう、と。
「妊婦さんかなぁ」
「妊婦?」
ヒロキはまったく予想外だというふうに、素で聞き返した。
「そう。昔から、なんとなく妊婦さんが怖いんだよね。こう……、なんかグロテスクっていう類のこわさ」
「なんで? お腹だけがぽっこり大きくなるから?」
「うーん……。ほんとに自分でもよくわかんないんだけど、見た目がこわいわけじゃないし、赤ちゃんが生まれるってすごい素敵なことだと思うし、こどもが嫌いなわけでもないんだけど……。自分のお腹のなかに自分とはまったく別の意識や感性を持った人間が入ってるって思うと、こわくない?」
「俺はそこまで考えたことないなぁ」
「あと、なんだろう。妊娠してる間って人が一番本能的になるっていうか、動物としての本能を取り戻してる感じがしてさ。それまで女性だった人が急に母親っていう存在になっていくのが、こわい」
電車のなかで妊婦を見かけて席を譲ったことは何度もある。大きな声を上げて泣く赤ん坊を見ても特に苛立つこともない。それでもできることなら妊娠している女性の姿を見ずに過ごしたかった。鳥肌が立つような気味悪さにも似た恐怖を覚えるのだった。
だからと言って一生こどもが欲しくないわけじゃないのに、自分でも理由のわからない抵抗感をずっと抱えていた。
「そういうのってなんなんだろうな。べつになにかされたわけでもないのに、こわいのってさ」
「うん。でも朝がこわいっていうのは理由があるじゃん。朝になったら本当の自分を晒していられなくなる。汚くて不完全な自分を隠して、馬鹿で幸せで楽しい高校生にならなくちゃいけない。朝になったらさぁ」
私のことばは乾燥した室内の空気に溶け込むことなく、しばらく宙に漂っていた。二人の目の前にそれは形を成しているようで気まずくなったけれど、ようやく本当のことを言えたという爽快さもあった。
無言になって握り合った手にどちらからともなく力を込めた。
ヒロキの空いた左手がまた煙草を探している。
それを見て私も煙草を吸ってみようかなぁ、なんて考えていた。
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