私が溺れた川 18
あの日はヒロキの部屋に行くことすら怖くて、夜の公園のブランコを揺らしていた。
ヒロキは煙草を吸っていて、ゆっくりと吐き出された白い煙が現実を曖昧なものにする。こっそりとこっちを向くことのない横顔を眺めては、込み上げてくる愛しさを飲み込んでいた。こんな表現を絶対にしたくないと常々思っていたけれど、これ以上ないくらいにあのひとを愛していた。
住宅街の真ん中にある小さな公園にキィキィとブランコの鎖が軋む音だけがする。私はヒロキが吐き出す煙を肺いっぱいに吸い込んで、口を開いた。
「ずっと言わなくちゃいけないって思ってたことがあるの」
キィキィ。ヒロキは黙ってただ煙草を吸う。
会えない間、ずっと良い言い訳を、嘘がすべて許されるような理由を探していたけれど、結局なにも見つからなかった。
地面に両足を付けてブランコを動かす。キィキィと錆びた音を立てるのは、私が乗っているブランコだけだ。とてつもなく激しい流れのような愛おしさと世界の果てまでも見透して受け入れらるような冷静さの両方を抱えていた。
「私ね、ずっとヒロキに嘘吐いてたんだ」
ヒロキは何も言わない。だけどあのひとが何も言わなくても十分なくらい、静けさやその場の空気が私を責め立てていた。言いづらいことばは一旦口を出てしまうと止まらなくなる。
「私、ヒロキと初めて会ったときに二十一歳だよって言ったけど、本当は十六歳だったの。だから今は本当は十七歳で、モデルなんかほとんどやってなくて、本当は、高校生なの。ただの、高校生なの」
鎖の切れ目に掌の肉が挟まって鋭い痛みが走った。思わず離しそうになった手に力を籠める。
「嘘を吐いてごめんなさい。ずっと騙しててごめんなさい」
俯く視界の端を紫煙がゆっくりと埋めていく。乾いた口から血の味がする唾が出そうになる。
「でも、どうしてもヒロキがほしかったの」
泣き出しそうになって何度も何度も唾を呑みこむ。喉に何かが引っかかっているような不快感があった。ヒロキはずっと黙っている。私は嬲り殺されている気分だった。これならいっそ一思いにやってほしいと願うほどに。
「どうしていまさらこんなことを言うかわかる? これがどういう問題かって、わかってる?」
「わかってるよ」
ヒロキはその一言を煙とともに低い音で、吐き出した。
「未成年ってことだろ」
思わず顔を上げた私を見ることもなく、吐き捨てるように短くそう言った。
耳から入ってきたそのことばが頭のなかで点滅するみたいに目が回りそうなほど何度も何度も繰り返し再生され、そのたびに突き刺さっていく。
あのひとを護るためならどんな傷だって負う覚悟でいたけれど、それはただ格好付けたかっただけだ。こんなにも刺さっても刺さってもまた突き刺さる。嫌いだって言われたほうがまだましかもしれない。その一言は、私とヒロキとの間にはっきりとした線を引いた。
「そうだよ。ヒロキのことがほしくてほしくて堪らなくて、どんな手を使ってでも手に入れられればいいやって、ずっと……そう思ってたんだけどね」
とても静かに、声を震わせることもなく鼻水が出ることもなく、ただ最初に右目から次に左目から涙が頬を滑っていった。
「私の年齢とか存在がヒロキにとって邪魔になるくらいなら、離れなくちゃいけないんだって思ったの」
ヒロキは黙ったままだ。怖くてもうどこを向いているのかさえ確認することができない。
「ヒロキにとって音楽がどれだけ大切かっていうこと、やっとわかった。音楽より私を大切にして、なんて死んでも言いたくない。これは本当。だから……」
「別れるべきなんだと思う」
左側の夜から突然声が返ってきて、鼻白む。今度は私が黙ってその続きを待った。
「……別れるべきなんだと思う」
「……うん」
「なのに、なんでそんなこと言うんだよ」
声が濡れていることに気づいて、ついついそちらに顔を向けてしまった。
ブランコに座っているヒロキが広く開いた自分の足にほとんど顔が付きそうなほどに俯いて、パーマが取れかけて膨らんでいる頭を抱えていた。見ているだけでも両手に力が入っていることがわかって、僅かに背筋が冷えた。もしかしたら私が想定していたよりももっと大きな事態に陥るのではないか、とそのときになってようやく思い至った。
「別れるべきなんだと思う……、でも」
緩いウェーブの髪のせいでぼやけた輪郭が、それでも小刻みに震えていた。そしてその震えの合間に押し殺すような声の断片と荒い呼吸が聞こえた。
ヒロキが泣いているのだと気づくのと同時に、私はブランコを降りてあのひとを抱きしめていた。
「ごめん」
何と言って謝ってもきっと足りなかった。ヒロキが泣く姿を見たのは、それが最初で最後だった。ことばを失った二人の代わりに、私が降りたときの惰性で前後に揺れ続けるブランコだけが音を立てていた。
くぐもった声を押し潰すみたいにあのひとの身体を黒くて分厚いモッズコートごと抱きしめる。そうして遠くに体温を感じている内に、私のなかで熱が生まれて少しずつ広がっていった。目の奥がちりちりと熱くなって涙の気配を感じるのに、口元は勝手に笑んでいく。
その瞬間になってようやく、私は本当にあのひとに愛されているのだと実感した。
それまではいつもどんなときでも頑張っていた。ヒロキを手に入れるために。そしてヒロキに嫌われないために。だけどあのひとは私が思うよりもずっと純粋な気持ちで私を愛してくれていたのだ。
ただそれだけ。私たちはこんなにもお互いを必要としているのに、どうして未成年というだけで他の誰かが裁けるというのだろう。他には誰もいないところへ行って、二人だけで生きていけたならいいのに。
猫っ毛にパーマを掛けたごわごわとした髪に額をくっつけて、そうしているうちに喉の奥が無理をして高音で歌うときみたいにピンと張りつめて、震えた。
「ごめんね」
私はあのひとから音楽を奪えない。
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