私が溺れた川 17
予想外の一言に軽く頭を小突かれたような衝撃があった。束の間、頭のなかが真っ白になってことばの意味を理解するのに時間が必要になった。
「え……」
自分でも少し驚くくらいに、戸惑っていた。
「まだ確定じゃないんだけどさ。でも、うん、たぶん行くことになるな」
篤樹は自分を納得させるようにときどき頷きながらことばを続けた。全然悲しいことじゃないんだと無理矢理言い聞かせるような明るい声で。
「行くって、どこに」
「九州。長崎」
「出張とか出向じゃなくて、異動なの?」
「そう。いつ戻ってこれるのかも分かんない。もしかしたらすぐ戻ってこれるかもしれないし」
それ以上、なにもことばが続かない。どうしてだろうか。遠くへ行くことを告げられて、裏切られたような気持ちになっている。篤樹が私から離れていく。ここ数か月はそれを願っていたはずなのに。ここが私たちの終わりなんだろうか。だとすればそれは予想よりもずっと近いところにいたことになる。
「まあその話はまたゆっくりしよ! せっかくこんなところに来てるんだしね」
篤樹は高校時代の友人の話を持ち出したりなんかして、強引に話を変えた。私は曖昧に相槌を打ちながら、心は完全に別の方向を向いていた。自分が落ち込みそうになっている理由について考えていた。
そしてデザートを食べ終えてコーヒーを飲む頃になってようやく自分がプレゼントを用意していたことを思い出した。
「そういえば、これ」
慌てて小さな紙袋を渡したけれど、渡し方にさえ可愛げが無くて自分のことながらもっとうまくやれるんじゃないかと思ってしまった。
「え、ありがとー」
嬉しそうに受け取る篤樹のほうがよっぽど可愛らしい。
箱から出てくるのは、ちょっとしたブランド物のネクタイだ。恋人に渡すプレゼントにしてはそんなに値が張る代物ではないし、ありがちなものだけれど、それでも篤樹は恭しくそれを取り出して自分の首元に合わせてみたりしている。
「似合いそう?」
「うん。よかった。使ってね」
私がそう言うと篤樹は目を輝かせて何度も頷いた。それから首を竦めて、
「ごめん、加奈子。俺、逆に何にも用意できてない」
と申し訳なさそうに言った。
「いいよ。こんな素敵なレストランに連れてきてもらったんだから、もう充分」
最初こそ緊張したものの、料理は確かに美味しかったし、ウェイターたちに不必要に声をかけられることもなければ他の客たちとはテーブルが離れているおかけで話す内容に気を遣う必要もなかった。それに生の音楽が心地よく店内を満たしていて、日常では味わうことのできないラグジュアリー感を堪能していた。
「連れてきてくれてありがとう」
素直にそう口にして伝えることができた。
喪失の気配を感じたからかそれとも非日常を味わったからか、気持ちが高まっていたけれど、レストランを出るとホテルに行く流れにもならずに、二人で静かに川沿いを歩いた。黒い川面にはビルの光が反射していて、なんとなく感傷的な気分にさせられる。同じような気持ちでいるのか、今日が終わっていくことを惜しんでいるのか、ところどころにあるベンチは行き場を失くした男女で埋まっていた。
付き合い始めたばかりの頃、何度か歩いたことのある場所。私は口数が多いほうではないのに、こんなに何もない場所で一体何を話していたのだろう。途切れることなく会話は続いて、何度も声を上げて目じりに涙を浮かべて笑っていたのに。
ああ。
すとん、と腹に落ちた。もうすぐ終わってしまう。
このひとと別れても、仮にあのひとを選んだとしても、幸せになんかなれないのに。
「あ、あそこ空いてる」
篤樹が一つだけ空いたベンチを見つけて、そこへ腰を下ろした。動いていないと風が冷たくて、私たちはいつも以上に身を寄せ合った。そうしてふとこんなにも篤樹の体温を感じるほどに近づいたのは久しぶりかもしれないということに気がついた。
懐かしくて穏やかな、お日様に当てた布団と同じ種類の匂いがして、泣き出しそうになる。
しばらくの沈黙の間、ずっと篤樹は何を考えているのだろうかと考えていた。
「ほんとに時間が経つのってだんだん早くなってくね」
篤樹がぽつりと言った。
「昔は親とかが、一年があっという間だったって言っても全然理解できなかったけど、今なら意味わかるわ」
「そうだね」
マフラーに顔を埋めるようにして俯く篤樹が、鼻を啜った。
「俺たち、付き合い始めてもうすぐ三年だよね」
「うん、早いね」
何気なく相槌を打ったつもりでそう答えて、それから二、三秒遅れてはっとした。すっかり感傷的な気分になって油断していた。
「いろいろ……、いろいろ考えたんだけどさ、良い言葉が何にも思いつかなくて」
私は反射的に身体を離していた。私とは反対側にある篤樹の掌に、いつの間にか小箱が載っていた。繋がれていた手がゆっくりと離されて、空になった左手で篤樹はその箱を開けた。
信じられないほどに綺麗な、さっき見下ろしていた夜景の光の一粒を掬い上げたようなダイヤモンドが輝いていた。
「加奈子」
思わず顔を上げる。そして息を飲んだ。私の名前を呼ぶ篤樹が、今にも泣きだしそうな顔をしていたからだ。
言わないで、とはもう言えなかった。
「俺と、結婚してください」
篤樹は気づいている。私の様子がおかしいことに。そしてそれは自分から気持ちが離れていっているからだということに。それらすべてを理解したうえで、私にプロポーズをしているのだ。鼻が赤くなっているのは寒さのせいだけじゃない。
「あつき」
「わかってる。加奈子にもいろいろあることはわかってる。今だって思ってないこともわかってる。それでも言っておきたかっただけなんだ」
どうして。とことばにしてしまいそうだった。どうして篤樹はこんな私のために自ら傷つくようなことをしてくれるんだろう。胸が苦しくて死んでしまいそうだ。
宝石を欲しいと思ったことはないのに、そのダイヤモンドはとても美しく輝いている。余りにも美しすぎてそれすら私を責めているんじゃないかと思うくらいに。
篤樹のことを、愛していなかったわけじゃないのに。
話さなければと思うほど、涙で声が詰まった。私が泣くわけにはいかないと隠そうとすればするほど、どんどん何も言えなくなっていく。沈黙が身体を離した私たちを凍えさせていく。
「急にこんなこと言ってごめん。答えは今日じゃなくていいから」
「でも」
「いいから。俺は全然待てる」
知らぬ間に握りしめていた私の両手を開いて、グレーの箱を載せた。薬指に通されることもなかった指輪。私には似合いそうもない美しい指輪。
「ゆっくり考えて」
結局指輪を突き返すこともできないまま、バッグに入れて家まで持って帰ってきた。熱いシャワーで冷え切った身体を温めてスウェットに着替えて、ベッドに入っても眠る気にはなれなかった。バッグから取り出した箱を、恐る恐る開ける。プラチナのリングの部分を指先で摘まんで台座から引き抜こうとして、やめた。勇気がない。
そのまま寝転がるとため息が出た。不安定な掛布団の上で傾いた箱の中で、指輪は凛とした光を放っている。
この指輪を嵌めたら、平凡だけれど穏やかで幸せな日々が手に入るかもしれない。
私は自分の人生に飽きるほどに退屈していたけれど、それは裏を返せばそれだけ満ち足りていたという証だ。
この頃の私は自分の孤独と人生に、なんだか疲れてしまっていた。
ゆっくりと留まることのできる居場所が、今、手に入りかけているのかもしれない。戦わなくてもいられる場所が欲しくないわけじゃない。
それなのに私の足はもう激流に掬われてしまっていた。
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