私が溺れた川 16


 十二月になると途端に街はクリスマス一色になる。会社の前の大通りの裸になった欅並木は青白い電球を纏っている。通学途中の学生たちや近くのデパートへ向かうカップルたちがしばし足を止めて、写真を撮っている。


朝のワイドショーがクリスマスギフトにお勧めのグッズやデートスポットを紹介するたびに、裏切られたような気分になる。煌びやかな宝石も夜景の見える高層階のレストランも趣味じゃないし、もうサンタが笑っても平日の朝の怠さは癒えない。


歯磨き粉の泡で口をいっぱいにしながら、どうにか仕事を休む適当な理由がないか、探した。


テレビのなかで女性のアナウンサーが、今日も元気にいってらっしゃい、なんて笑顔で言っている。この番組は午前六時に放送開始だから、彼女はそれよりも早く出社してさらにそれよりも早く起床しているということになる。それであの化粧乗りの良さ。屋外でビル風を浴びているのに、ほんのりピンク色の頬。つやつやと光を反射する滑らかな髪、をさらに嫌味の無い程度に巻いている。


信じられないどころか感服する。人前に出る仕事なんてしていたらどれだけ疲れていても怠くてもそんな様子を見せられないもんなぁ。それに比べたら私の仕事は基本的に座っているだけだし社外の人に会うわけでもないし、化粧乗りの悪い日は目の周りだけを頑張ってマスクをしてしまえばある程度誤魔化しが効くし。立ち上がるのにものすごく時間を要する脳が、ぼんやりとそんなことを考えている間にも時計の針は容赦なく動く。


そうして毎朝、家を出る一時間半前には布団から出ているはずなのに、慌てる羽目になるのだ。


満員電車に乗り込んで、ふーっと長い息を吐く。朝八時七分発のこの電車に乗れていれば、遅延でもしない限り遅刻はしない。目的の駅に着くまでの二十分間を、今朝までにきていた連絡に返信をする時間に充てている。数日前から続いている篤樹とのメッセージのやりとりを少しさかのぼって読み返す。


来週末はクリスマスで、さらに今年は曜日の並びが良く、二十三から二十五日までが三連休になっている。


本当は少し前に篤樹から旅行に誘われていた。旅行と言っても海外にまで出かけるとかそういうものじゃなくて、一泊二日で行ける程度の国内旅行をするのだけれど、それが付き合い始めてから毎年恒例になっていた。


だから篤樹も誘ってはいるもののほぼ確定だろうという風だったのに、それを断ってしまった。そのときの彼の傷ついた顔が、私を彼からさらに遠ざける。


昼休み時間に会社の外で待ち合わせをして一緒にランチをしていたときだった。


「もうすぐクリスマスだね」


注文をし終えて、お手拭きを私に差し出しながら篤樹が言って、私は肩に力が入った。


「早くない? もう一年終わるとか、信じられない」

「ほんとだよね。ついさっき今年始まったばっかりって感じがするのに……」

「な。こうやって歳取ってくんだなーって最近実感してる」


適当に話を合わせながら、お手拭きがからからになるまで念入りに指先を拭いた。潔癖症ではけっしてないのだけれど、何もせずに彼と向き合っていることができなかった。


「今年はどこ行きたい?」


その話が出ることは予感していたけれど、というよりもむしろその話をするために誘われたのだろうとわかっていたけれど、まさかこんなに早いタイミングで来てしまうとは。まだ心の準備が整っていなくて、


「そうだねー」


と中途半端な返事しかできなかった。


だけどせいぜい行く当てがぱっと思いつかないという風に聞こえるように反応したつもりだったのに、最近の篤樹はとても敏感だった。いつもよりも私の一挙手一投足に注意を払っていて、隠そうとしている感情まで拾ってしまう性能の良すぎるレーダーを働かせている。


おおらかな彼をそうさせているのは、たぶん私のせいなんだけれど。


「今年は都合悪い?」


それでもノリの悪さを責めたり怒ったりすることもない。こんなにも優しい彼を、いつまでも不安定な私に巻き込んでいたらいけないと、最近思う。


「うん、ちょっと……。ごめんね」


本当は用事なんて一つもない。ヒロキと会うわけでもないし、あのひとが家族と過ごすのか仕事をするのか、予定すらも知らない。ただ二泊三日を彼を過ごすことに耐えられそうにもないだけだ。


「そっか……。まあ都合悪いなら仕方ないよ。また別のときにどっか行こう。休みとってちょっと遠出するのもありだし」


篤樹はそう言って笑いながら、行ってみたい外国の名前を羅列していく。だけど落ち込んでいることを隠しきれていなかった。なにも旅行に行けないことだけを残念に思っているわけじゃない。彼はもう私の変化に気づいている。


その内に二人が頼んだ野菜カレーが運ばれてきた。


「おいしそう」

「うまそう」


二人の声が重なって、思わず顔を見合わせる。それから篤樹は本当に嬉しそうに、クリスマスの朝に枕元にプレゼントを見つけた子どもがするような笑顔を見せた。きゅっと胸が苦しくなって、私は何かとても悪いことをしているような気分になって、


「旅行は行けないけど、食事ぐらいなら行けるよ」


気がついたらそう口にしていた。


「ほんとに?」


その弾んだ声が耳に入るのと同時に、もう自分の発言を後悔していた。


 メッセージには、良い感じの店を見つけたから予約しておいたという内容だった。ありがとう。楽しみ。と入力しながら、篤樹がもっと嫌なやつだったら良いのにと心から思った。


例えば今、彼に私の他に恋人や遊んでいる女性がいると告げられたら、腹が立ったりとびっきりに傷ついたりするよりも、ほっとするだろう。


罪悪感から逃れたい一心でそんなことを考える私は、つくづく最低なやつだ。こんな私から篤樹を解放しなくちゃいけない。だけどクリスマスに別れを告げるなんて残酷すぎてとてもできそうにない。それともそうやって結論を出すのを先延ばしにしている方が、残酷なんだろうか。


 クリスマス・イブイブの夜に連れていかれたのは、商業ビルの40何階にある夜景が綺麗なレストランだった。事前にお洒落をしてきてね、と言われた時点で嫌な予感はしていた。入口でコートを預け、ウェイターの男性に椅子を引かれて座った。店内には生バンドが居て、ジャズを演奏している。


こういうところで出される料理を食べるときのマナーなんて何もわからない。周りの客たちは慣れた様子で食事を楽しんでいるけれど、私は普段通りに声を発することさえ躊躇ってしまう。


「ねえ、なんか緊張する」

「大丈夫だって」


篤樹は変に恰好を付けようとすることがないから、いつだって自然体だ。わからないことがあればわからないと言える。メニューを渡されても理解できなかったらどうしようかと心配していたけれど、予めコースを予約していたようでその必要は無かった。運ばれてくるたびに丁寧に説明がされるお洒落な味のする料理を探り探り、篤樹以外の誰にも見られていないことを祈りながら食べる。


篤樹越しに見えるのは、宝石を散りばめたような、という表現がまさに似合う夜景。煌びやかな景色とたまの贅沢にしか来られないようなレストラン。交際期間は三年半。そして、クリスマス。あまりにもそれっぽくて、身構える。これ以上にプロポーズの適する条件がそろうことが他にあるだろうか。


「俺さ、今日加奈子に言っておかなきゃいけないことがあって」


メインの肉料理を食べ終えて、詳しいことはわからないけれど普段飲んでいるものよりは香りが良いような気がする赤ワインを飲んでいた。ついに来てしまったという退路の無さから、声も出せずに篤樹を見つめるとその視線が迷うように振れていた。それから意を決するように小さく頷いて、それから眉根を下げて笑った。なんだかそれは見ていて私までも寂しくなるような表情だった。


「来年の四月で異動になるかもしれない」

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