私が溺れた川 15
その週末、久しぶりに実家に帰った。実家と言っても電車で三十分で行けるマンションだけれど。相変わらず迎えてくれたのは母だけで、父の姿は見当たらなかった。
「今日は冷えるね。コーヒーがいい? 紅茶がいい?」
私がコートを脱ぐよりも早く母はポットで湯を沸かし始める。
「紅茶がいい」
重たいコートと真っ赤なマフラーを外してハンガーに掛け、リビングを見回す。昔から母は家のことをしっかりとやっている。今日も物はすべて収まるべきところに収まっており、床には埃っぽさがない。いくつかある観葉植物たちの葉も青々としている。
それでもこの家はなんだか殺風景だ。空々しいとでも言うのだろうか。すべてのものがまるで舞台や映画のセットのようにわざとらしくそこにあるよう。ほとんどの時間を、母一人が過ごすだけの家。
もしも私が子どもを産んでここへ連れてきたら、父は帰ってくるだろうか。
そう考えて、苦笑いをした。自分の娘が幼い頃でさえいなかったのだから、無理か。
母が淹れたダージリンの紅茶は美味しかったし、大手メーカーに勤める父が買った分譲マンションは家族三人が暮らすにしては広くて社会人になるまで使っていた私の部屋もそのままの状態で残されている。それでもここには私の居場所はないような気がして、母を買い物に誘った。ちょうど服が欲しいとも思っていたのだ。
「お待たせ」
支度をしてリビングへ戻ってきた母は、その年齢よりも若く見えるし並んで歩くのが自慢になるような美しさとエネルギーがある。実際に母は父との関係だけが上手くいっていないだけで友人が多く、よくいろんな付き合いで外出している。そのおかげでこの容姿を維持できているのだろう。娘の私よりもよっぽど高い美意識を持っているに違いない。
デパートに着いても二十代の働く女子をターゲットにしたような店にも物怖じせずに入っていき、あれはこれはと私に合わせてみては楽しそうにしていた。
「これなんか可愛いじゃん。加奈子は顔が疲れて見えるから、明るい色を着たほうがいい」
「疲れて見えるって失礼だなぁ。それに私がピンクなんて着たら子どもっぽくなっちゃう」
「とりあえず一回試着してみたら」
「えー」
母に押し付けられた薄いピンク色をして襟元にパールとビジューが付いたニットを持って、店員に案内された試着室に入る。
「ここで待ってるから、ちゃんと見せてね」
「わかったわかった」
カーテンを引いて、着ていた黒いニットを脱ぐ。二十四歳の娘と五十を少し過ぎた母が一緒に買い物をしている。こうしていると私たちは仲の良い親子に見えるのだろう。一時期は顔を合わせるたびにお互いにヒステリックな声を上げて喧嘩ばかりしていたのに。
試着してみたニットは思いのほか似合っていて、会社用に買った。
母は久しぶりに実家に立ち寄った娘に手料理を振る舞いたがっていたけれど、時間も遅くなったしせっかく二人で出かけているのだからと外で食べることにした。ちょうど近くに大学時代によく行っていたカフェがあったから、そこへ行くことにした。
「こんなところ、加奈子と一緒じゃないと来れないわ」
案の定店内は私と同世代かもっと若い女の子たちしかいなかったけれど、母はそれでも楽しそうにメニューを眺めていた。母の食に関するこういう高くて美味しいものに拘らず、雰囲気を楽しめるところが私は好きだ。結局二人とも夜のパスタセットを頼んだ。
「最近、仕事はどうなの?」
「んー、普通だよ。毎日同じこと繰り返してるって感じ」
「もうすぐ就職して四年だもんね。あっという間」
「ほんとに。一日一日は長く感じるのに、振り返るとあっという間だなぁ」
「そんなこと言ってると、すぐ歳を取るよ」
「うん。本当に最近それをひしひしと感じてる」
母とこんななんでもない話ができることに、未だに私は感動している。あの日々のことを後悔はしていないけれど、せめて母とはもっとうまくやれたんじゃないかと最近になって思うようになった。
パスタを食べ終えて、食後のコーヒーを飲んでいると、向かいに座る母がちらりと目だけを動かして、左側のテーブルにいる若いカップルを見て、楽しそうな笑みを浮かべた。
「ねえ、それより篤樹くんとはどうなの?」
「どうなのって」
「結婚しないの? そういう話しない?」
「しないよ、全然」
母は一度だけ、篤樹に会ったことがあった。付き合い始めて一年くらい経ったころ、母のほうから篤樹に会ってみたいと言い出したのだ。当時、私は恋人がいることを両親に伝えていなかったし、その頃からあまり実家に顔を出すこともなかったからそう言われたときは驚いた。後からなんとなく聞くと、私に彼氏ができたことはすぐにわかったらしい。母親の勘というか、子ども対する観察眼というものは恐ろしいとつくづく感じたものだった。
篤樹のコミュニケーション能力の高さは恋人の親に対しても発揮され、そもそも心配はしていなかったが、母はすぐに篤樹のことを気に入った。
「篤樹くん、良い子じゃん。誠実そうだし加奈子のことを大切にしてくれそう」
そうしてまるで自分が結婚を控えた新婦のように、頬を上気させて幸せそうに微笑んだ。現状を知らない母に悪意があるとは全く思わないが、精神的なダメージを食らった。心にずしんと重い石を投げ込まれたような気分だった。
「そうかなぁ」
なんとかそれだけ絞り出すと、今度は目を丸くして
「なぁに、喧嘩でもしたの?」
と聞く。だけどそこにはまるで深刻さはなかった。若いカップルの一過性の可愛い仲たがいだと思ったのだろう。ここで腹を括って、実は、と語る気にはなれなかったし、本当のことは一つとして実の母親に言えることじゃない。
「そんなところ」
結局、曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。
自分の部屋に帰るつもりでいたけれど、母の強い希望で実家に泊まることにした。母が最近始めたというヨガの話をしながら帰ると、玄関に男物の靴が出しっぱなしになっていた。母が不在の実家に勝手に上がる男なんて、父しかいない。父がいると分かった瞬間、空気が硬化するのを感じた。無言で廊下を歩いてリビングのドアを開ける。
ソファに座っていた父が振り返りもせずに
「おかえり」
と言った。私は当てつけのように母が口を開くよりも早く通常時よりも大きな声で
「ただいま」
と言った。私がいることに気がついた父がようやくこっちを向く。
「加奈子」
「久しぶり」
視線を振り切るように自分の部屋に入って、上着や今日の戦利品を置いた。父のことが嫌いなわけじゃない。だけどどう接していいのかがわからない。ずっと一緒に暮らしてきたはずなのに、あまりにもお互いに干渉せずにここまで来てしまった。
「珍しいな。加奈子が帰ってくるなんて」
「ほんと。いつぶりかしらね」
「もうお夕飯は食べたの?」
「ああ、済ませてきた」
開けようとしたドアの向こうで二人の会話が聞こえた。長い息を吐いて部屋を出る。二人の視線がダイレクトに私に注がれた。
「たまには三人で、どうだ?」
父が私に向かってグラスを持ち上げるような仕草をした。
「いいね」
私が頷くと、母が冷蔵庫から缶ビールを三つ持ってきた。三人でリビングのソファに腰かけてプルトップを上げた。暖房でぼんやりと温まった身体を冷たいビールが通っていく。こんなふうに三人で晩酌をするなんて一体いつぶりだろう。慣れない状況に、実家だと言うのに妙に緊張していつもより飲むペースが上がる。
仕事や近況についてさっき母に話したのと同じことをなぞるようにして父にも話す。そこに母が茶々や補足を入れたりしてちゃんと会話が成り立っていた。
「三年目ってだいたいそういう年だからな。仕事に退屈してくるっていうのは、その仕事に慣れたってことだ。だからこそ思いもよらないミスをしでかすこともあるから気をつけなきゃいけない時期でもある。でも仕事に余裕ができたなら、これからの自分のことを考えるいい機会なのかもしれないな」
「これから?」
「これからどうなっていきたいかって。例えばキャリアにしても今の部署で足元を固めていくのか、それとも別の仕事に挑戦してみるのかっていうのもあるし。もしくは結婚して家庭に入るっていう選択肢もあるしな」
父の口から私に対して結婚ということばが出てきたことに、衝撃と軽い悲しみを感じた。もう私は父親にとっても自分の手からは離れて別の誰かの元へ行くべき歳になってしまっているんだと実感した。
数本のビールを空けてほろ酔い気分になったところで父と母を残して風呂へ入った。さすがに浴室までは話し声は聞こえてこないが、私がいなくなってもさっきまでの続きを話し続けていてくれたらいいなと思う。
私の部屋は使われなくなってから三年以上が経っても、私がいたという痕跡を強く残していた。
ときどき母が掃除をしてくれているのか、埃っぽいなんてこともない。買い物であちこち見て回ったり品定めをしたりして疲れたうえにほんの少しだけアルコールが効いている。
ベッドに寝転がった。天井もあの頃と変わらない。ここでこうしてただ天井を見つめたり、自分の膝を抱えるように小さくなって横になったりしていろんなことを考えていたな。辛いことや悲しいことが多くてもうダメだと何度も思ったはずなのに、今思い出すといい思い出になってしまっているものが多い。それがなんだか当時の自分に申し訳なくなる。
そういえば、と思い立って身体を起こし、クローゼットを開ける。今はもう着ることのないワンピースやコート類が掛けられた下に茶色の箱がある。古い洋書を象ったその箱をそっと取り出して、丁重にラグの上に置いた。心臓が身体の奥のほうに沈んで、そこからどくんどくんと一音一音重たい鼓動が響いてくる。それに揺さぶられるようにして伸ばした手が震えている。思い切って力を込めたのに、思いのほか蓋は軽くて肩透かしを食らった。
色褪せることも陽の目を浴びることも再生されることもなく静かに眠らされていたナイトフォールのCDたちを、一枚一枚タイルを並べていくように床に置いていく。
すべて並べ終わるころには、一枚の壁画が出来上がっていた。それを眺めていると、途端に身体の奥から震えとともに水気が昇ってきて、泣いた。
父も母も知らない。
私が不倫をしていることを。自分たちが期待するほど、娘が綺麗なじゃないことを。十六歳のあの頃と変わっていないことを。
十六歳の私は知らない。数年後にあのひとと再会して、未だに呼吸もままならないままに激流に飲まれていることを。
二十四歳になっても結局、家族にも社会にも上手く馴染めないままだ。本当に自分の涙で溺れているみたいに呼吸が苦しくて、大きく身体を震わせながら喘いだ。
重く冷えていく指先でベッドに放り投げたはずのスマホを探した。片手で口元を抑える。息を吸い過ぎているはずなのに、酸素が足りないような気がして肺がもっとと求めている。脳の奥がじんと痺れる。震える指先がスマホに触れ、四桁の数字を打ち込んでロックを解除する。電話を掛けようとして、スマホをさっきよりも遠くに投げた。
呼吸と震えのタイミングがズレている。音の鳴らない部屋で無様な呼吸音が響くこともなくどこかへ消えていく。あの頃みたいにこんな夜にヒロキに電話ができたならいいのに。会えたならいいのに。
頭の奥の方から末端に向かって白がゆっくり侵食していく。苦しいのか快感を覚えているのかだんだんわからなくなっていく。このまま死ねたらいいのに、と毎回思う。
一枚の絵画のようにCDが並ぶ床に、冷えた身体を横たえた。
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