私が溺れた川 14
ゆっくりと体内に侵入してきた寒さに身を震わせて目を覚ますと、私たちは向き合ったままの姿だった。
裸の身体に布団が掛けられていたけれど、自分でやったという記憶がないから、ヒロキが掛けてくれたのだろう。そこから露出した肩が冷たくなっている。
布団のなかで両足を擦り合わせると、汗は乾いているけれど肌がべたついていた。昨夜はシャワーを浴びることもなく眠ってしまった。意識がはっきりしてくるにつれて次第に身体中のありとあらゆる箇所に余韻が残っていることがわかった。あのひとを起こさないようにそっとベッドから出て、一人でシャワーを浴びた。
熱いお湯を浴びて顔を洗うと多少は気だるさがマシになる。
時刻は朝の九時だった。
ヒロキはまだ私のベッドで眠っている。
こんな風に二人で朝を迎えるのなんて、一体いつぶりだろう。
幸福が悲しみとなって胸に迫ってくる。
あと数時間もしたらヒロキは帰ってしまう。
再会してからずっと視界に入れないように意識の隅に追いやっていた欲が泡立つように膨らんでいく。
あのひとを、帰したくない。
私だけのものにしたい。
不倫なんてずっと自分には関係のないことだと思っていたし、既婚者に恋をした挙句、相手の離婚を待つ女など浅はかだと思っていた。絶対に手に入らないし、手に入ったところできっとまたいつか自分が手に入れたのと同じ方法で奪われるだけだと。
けれど今なら彼女らの気持ちがわかるかもしれない。奥さんや家族からあのひとを奪いたいわけじゃない。ただあのひととずっと一緒にいたい。会いたいときに会いたいし、一緒に朝を迎えたい。たぶん誰もがきっとこんな単純で素直な欲から始まったんだろう。
熱い湯が全身を打つ。
その音に隠れて少しだけ、泣いた。
幸せって悲しい。
シャワーを終えて浴室から出るとヒロキがベッドのなかで身体を起こしていた。
「おはよう」
カーテンの向こう側に明るい日差しを感じる。
「おはよう」
眠たいのか仕事柄朝が苦手なのか知らないが、まだぼーっとしている様子だ。
「ねえ、ちょっとカーテン開けておいて」
「うん……」
働かない頭で窓の位置を確認するように視線を巡らせて、それからゆっくりと動き出した。その姿がとてもあどけなくて、私はまた胸が詰まる。それを誤魔化すように冷蔵庫を開けて中身を確認した。二人分の簡単な朝食ぐらいならできそうだ。
シャーっと滑車がレールを滑る音がして、部屋が一気に明るくなる。光に慣れていない目が像を失い、一瞬だけ真っ白に染まった視界の向こうから声がした。
「朝だね」
瞬きを繰り返して取り戻した世界で、あのひとはこちらに背を向けていた。下着だけを身に付けた姿でベランダへ続く窓の前に立つその姿は笑いを誘うようなシュールさもあったけれど、一眼のカメラがあったなら写真に収めておきたくなるような光景だった。
「……朝ごはん、作っておくから、よかったらシャワー浴びてきて」
私がそう言うとヒロキは振り返った。
「朝ごはん? 何つくるの?」
「大したものは作れないから、あんまり期待しないで」
「なんか」
そう言いかけてヒロキはふふっと弾んだ笑い声をあげた。
「なに?」
「懐かしいなー、と思って」
ヒロキは話しながら浴室のほうへと歩いていく。私の手は止まりっぱなしで、目はずっと動くあのひとの姿を追っていた。
「俺が酔い潰れて帰ってきて、着替えもせずに寝てさ。朝起きるとすげぇ頭痛いし、気持ち悪いの。でもいい匂いがして目を開けると、加奈子が朝ごはん作ってる後姿が見えるんだ。狭いキッチンに立って、忙しそうに手を動かしてた。それを見るのが好きだったなって」
「そんなの、見てたの」
「見てた。しばらく寝たふりをして」
そうして可愛いいたずらを母親に告白する子どもみたいに笑う。
「……そういう光景を残しておきたかったんだ」
ヒロキは私のほうを見ることもなくそう言って、
「じゃあちょっとシャワー浴びてくるわ」
浴室へ消えていった。ドアが閉まる音を聞いた途端、足から力が抜けた。
もうずっと聴いていないナイトフォールの曲が、頭のなかで鳴り始めた。壊れたプレイヤーみたいにある曲の一部だけ、短い歌詞だけが何度も繰り返される。
パンをトースターに入れながら、卵をフライパンで焼きながら、皿に野菜を盛りつけながら、小さな声で口ずさむ。
有給休暇が明けて、いつものように潰されそうになりながら満員電車に乗っているとまるでこの二日間が夢のなかの出来事のように感じた。会社に着いて同僚や上司たちに、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした、と謝ったりお礼を言ったりして、溜まった仕事を消化するために普段よりも少しだけ忙しくて、こんなことをして一体何になるのだろう。
ふとした瞬間に二日間とそれから七年前のヒロキの姿が眼前にちらつく。そのたびに呼吸ができないような苦しさを覚えて、そこから逃れるたびにさらにはっきりとあのひととの思い出を反芻した。
昼休みになってようやく電源を入れたスマホには、篤樹からの連絡が山のように届いていた。なんだか辟易してしまって着信履歴と他の人から来たラインだけを確認していると、電話が掛かってきた。メッセージを作成途中だった指が、誤って応答ボタンを触る。
「もしもし」
スマホから声が聞こえてくる。何も答えずにいると、
「加奈子」
と何度も名前を呼ばれた。そのたびに頭のなかで別の声が掻き消されていって、無性に腹が立った。
「なに?」
苛立ちに任せてオフィスを出て、耳に当てたスマホに話しかける。
「やっと繋がった。今まで何してたんだよ」
「なにって、仕事だけど」
「今日は出勤してんの? なんか昨日まで有給取ってたって聞いたんだけど」
「うん、そう。有給取ってた」
「なにしてたの?」
「え?」
鍋の中で煮込まれたシチューみたいな、どろっとした怒りが熱を持って身体の深いところから湧き上がってくる。私がいつどこで何をしたって自由なはずだ。そこまで干渉される筋合いはない。
「どうしてそんなこと聞くの?」
怒りをなんとか飲み込んだ声にはそれでも苛立ちがはっきりと残っていた。私のその声音に気がきがついたのか、電話口で躊躇う短いことばがいくつか聞こえた。
「連絡してもなんにも返事ないし、携帯の電源は切れてるし、会社休んでるし、心配するだろ。普通」
「じゃあ私は普通じゃないから、心配してくれなくていいよ」
「なんだよそれ。なんで逆ギレされなきゃいけないわけ?」
「私が何しようと私の勝手じゃん。そんなふうに管理されたくない」
そこまで言って、今いる場所が会社の廊下であることを思い出した。甲高い女の声が反響している。
「管理ってなんだよ。自分の彼女が音信不通で欠勤してたら、心配になるだろ」
「だから心配してもらわなくていいんだってば」
私がこんなふうに篤樹に感情を晒したことは、今までにあったっけ。どれだけすきだと言われても、一緒にいても、抱きしめ合っても、私はいつだって彼に遠慮していた。愛して大切にしようとしてくれている彼に、私のこういう不安定な部分は見せられない。
あのひとになら、本当のことを言えるのに。
唐突にその思いが頭を埋め尽くして、切なさに視界が歪んだ。どうして。どうして手に入らないんだろう。どうして、私だけを愛そうとしてくれるひとを同じように愛せないんだろう。
「……ごめん」
燃えるような戦意を喪失した声は、濡れて震えていた。
「いや、こっちこそごめん」
篤樹が電話の向こうでため息を吐いた。
「……ちょっと体調が悪くて休んでただけだから。ほんとに、心配しないで」
「それならなおさら連絡をくれたらよかったのに」
「そんな大したことなかったし、大丈夫」
一転してしおらしくなった私を責めることもなく、篤樹はいつもどおりに優しかった。
「とりあえず仕事が終わったらまた連絡する。飯でも行こう」
「うん。ありがとう」
「じゃあ」
「じゃあね」
電話が切れる。こんなことをして、何になるんだろう。猛烈な遣る瀬無さが襲ってきて、立っていることさえ苦痛だった。何も知らない彼の優しさが辛い。もう二度と会いたくないほどの綿のような優しさに、首を絞められているみたいだ。
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