私が溺れた川 13

「さっきは、ごめん」


感性を揺さぶってやまない曲の数々を生み出す指先がいつまでも私の顔に触れている。それだけで身体の奥底から震えがやってくるような感覚がある。例えばあのひとが私をどれだけ深く傷つけようとも、それはプラマイゼロにしかならない。


「なにが? 謝ってもらわなくちゃいけないことなんて、なにもされてないよ」


ヒロキは優しく私の頭を撫で続けながら、すごく儚い笑顔を浮かべた。幸福な物語の裏に隠された残酷な真実をたった一人だけ知っているひとの表情だった。


「加奈子は、優しい」

「なに? 突然……」


直球なことばに赤くなりそうな頬を隠したくてシーツを引っ張り上げると、ずるりと重たい音がした。


「俺が話を聞いてなくても怒らないし、変なことを言い出しても受け止めてくれる」


あのひとは自分に言い聞かせるみたいにそう言っていた。


「加奈子だけだ。そんなふうに言ってくれるのは」


静かな声に耳を欹てながら、幸福と不安で胸を引き裂かれそうだった。私は重たい頭を動かして、ヒロキの胸に額をくっつけた。どくんどくんと、音じゃなくて振動が微かに伝わってくる。それをBGMにして静かな告白をただ聴いた。


「音楽が聞こえるんだ」


ヒロキの華奢だけど大きな掌が、私の頭を抱え込むようにして髪を撫でている。

伝わってくる一定のリズムを感じながら、ぼんやりと死ぬならこんなふうが良いと思った。


「他の音がなにも聞こえなくなるぐらい、でかい音で。いろんな曲が流れてる。知ってる曲のときもあれば知らない曲のときもある。曲にさえなってなくて、一つのフレーズが延々と繰り返されてるときもある。うるさくて眠れないぐらいで、子どもの頃は誰かが嫌がらせをしてるんだと思ってた。うちの家の外でスピーカーからどでかい音で音楽を流してるんだって」


ヒロキの滔々と流れることばを聴きながら、神様に誓っていた。これからどんなことを言われても、私は絶対にあのひとの味方でいることを。傍にいることを。胸のなかで何度も誓った。


「あまりにも続くから我慢ができなくなって、母親に言ったんだ。六、七才のときかな。外の音楽がうるさくて眠れないって。今でもはっきり覚えてる。あのときの母さんの、困った顔。自分の息子が言っている意味がまるでわからないって顔」

「うん」


私は理解できるよ。あなたが何を言っているのか。たぶん、なんでも理解できる。


「テレビの音かなとかなんとか言ってた。子どもが言うことを頭ごなしに否定したらいけないって、母親なりの気遣いだったんだと思う。俺は俺でなんであんなにうるさいのにみんなが平気で寝ているのか不思議だった。どうしてもわかってもらいたくて、夜、そのうるさい音楽が鳴りだすと親を呼びに行った。今鳴ってるこれだよって。そしたら二人は顔を見合わせて固まってた」


髪を撫でる手が一瞬だけ動きを止めた。


「たぶんそのときになって初めて、俺が空想のごっこ遊びをしてるんじゃなくて、本当に自分たちに聞こえないものを聞いてるんだってわかったんだろうな」


再び私の頭を撫で始めた手が、冷たかった。なんだか不安になって身体を起こして、ヒロキの顔を確認した。本当にそこにいるのがヒロキであることを、確かめたくなるような感じだった。


「それからすぐにいろんな病院に連れてかれた。あんまりはっきり覚えてないけど。結局、これは音楽幻聴っていうらしい」

「音楽幻聴?」

「病気なのか障害なのかもはっきりしないし、患者のなかで共通する原因もない。難聴の人がなりやすいとは言われてるみたいだけど、俺はそうでもないし」

「治療は……」

「治療法もしっかりしたのはなくて、薬を飲んだ覚えはあるけど、あんまり効いてなかった」


横たわるヒロキの腕をそっと握って、何を言うべきなのかを考える。今聞いたことが頭のなかに散乱しているみたいだ。ときどき何かに気を取られているような様子を見せることにはもう慣れていた。それが音楽が聞こえているせいだということも聞かされていた。それでもなお幻聴ということばの強さに圧倒されている。


「子どもの頃は本当に大変だった。授業中に音楽が鳴り始めて、それも聴きたいような音楽じゃないし、うるさいし、先生の話は聞こえないし。それを不真面目だって捉えられるわ、同級生には変な目で見られるわ、で」


ヒロキは私の目から視線を外して、唇の端だけで薄く笑った。少しパサついた金髪に手を伸ばす。そのままこの胸の中に抱きしめてしまいたくなった。


「ヒロキ」

「でも大丈夫なんだ、もう。今でも音楽は聞こえるけど、あのときほどじゃないし。自分なりの対処法を見つけたんだ。小学校五年生のときだった。父親が持ってたアコギを借りて、フレーズを覚えるぐらいに何度も聞こえている曲を弾いてみた。そうしたら頭のなかの音は静かになった。不思議とね。全然違うメロディを弾いてみてもそうだった」


自分の胸が激しく上下していて、呼吸が浅くなっていることに気がついた。こめかみや頭皮に薄っすら汗ばんでいるのを感じる。背筋から震えとともに恐怖が駆け上がってくる。


「ギターを弾いたり歌ったりしてるときだけは、静かなんだ」


ああ、と吐息とも声ともつかない気の抜けた音が開いた口から漏れ出た。

このひとは、音楽に呪われている。音楽に憑りつかれているひとだ。


ヒロキにとって自分の音楽とバンドがどういう意味を持つのか、そのときになって初めて理解した。

それとともに眩暈を覚えた。

もしも失ってしまったら、このひとは生きていけるのだろうか。


「加奈子」


名前を呼ばれて顔を上げる。黒い瞳に見つめられた瞬間、私は逃げられない網に絡めとられた。


「これが俺の話。聴いてくれてありがとう」


皆は知ってるの、とか尋ねたいことがいくつか頭を過ったけれど、ことばがでなかった。代わりに頭を横に振るとその振動で目から水滴がポタポタと落ちた。


慌てて拭おうとすると、ヒロキの手が目じりに触れた。気を狂わせんばかりに頭のなかで鳴る音楽を封じ込めるために音楽を奏でる指先で。


この涙の意味を、目の前のこのひとはどう解釈したのだろう。同情心や共感などではなく罪悪感からであると、知っていたのだろうか。


 話し疲れたのか、それとも告白をしたことで気分が晴れたのか、ほどなくしてヒロキは眠ってしまった。私はその腕に包まりながらもいつまでも眠れなかった。


離れなくちゃ、と思った。


唐突にそんな考えが頭の隅に湧き上がると、たちまち頭のなかを満たしていった。もしも年齢を偽っていることがバレたら。ましてや未成年だってことがバレたら。そのことでヒロキの音楽活動やナイトフォールに影響が出たらどうしよう。


十六歳だった私は、そのときになってようやく事の重大さに気が付いたのだった

その日からずっと離れなきゃいけないという思いが付いて回った。あのひとの音楽を護るためにはそれしかないと思ったし、そのためなら自分が死にそうなほどの孤独の犠牲になったとしても構わないと心から思っていた。


「加奈子」


それでもそうやって名前を呼ばれるたびに、ことばを交わすたびに、笑顔を見るたびに、抱きしめ合うたびに、身体を交えるたびに別れを告げることばはどこかへ逃げ去り、私は次こそは、と後回しにすること続けていた。唯一できたことは、せいぜい外で酒を飲まないようにすることぐらいだった。


 そんな私を残して、ヒロキは制作とライヴとで地方を巡る忙しない日々に突入してしまった。ときどき帰ってきてもスタジオに籠ったり部屋でひたすらに曲を書いたりと、ほとんど会えない日々が長く続いた。


ヒロキがいないと私は、ただの友だちのいない十六歳の少女だった。


交際を始めてからヒロキに合わせた生活を送っていたせいで、学校を欠席することも家に帰らないことも多かった。


おかげで入学したころには仲の良かった女の子たちは私を抜きにしたグループを完成させていたし、母親との関係も最悪だった。もともと真面目に学校へ通い成績も良かったから、先生たちも同級生たちも私の変化に戸惑うだけで叱ることもできないようだった。


まさに腫れ物に触るように接してくるその態度が、私を余計に苛立たせた。そして家に帰っては、母と口論になった。


どうやら私が幼い頃から父には母の他に女がいたらしく、それが一人の女なのか女たち、なのかは知らないが、とにかく母のよりどころは私以外になかった。だから彼女はなんとか娘をもとの良い子、自分の手に負える子に戻したいと躍起になっていたのだと思う。


今ならそうわかってあげられるけれど、当時の私には到底無理な話で、ヒロキの傍以外のすべての居場所を失ってしまっていた。


「離れなくちゃ」


私は四六時中あのひとのことを考えていた。学校から家までの道の途中で、不意に声に出して呟いてみると、じーんとした悲しさと心細さが込み上げてきて、そのまま泣いた。


あのひとを失ったら、生きていけない。

だけど失くすことが怖くて、そばにいることが怖い。

会いたいのに、会いたくない。

会えば会うほど、終わりが近づくような気がして。


国道沿いの歩道を声を上げて泣きながら歩く制服姿の女子高生を、たくさんの好奇の目が眺めていった。


「話さなくちゃ」


何度も口に出して自分に言い聞かせた。


話して終わるのならそれがいい。一生続けばいいと願っているのに、同時に終わるのなら少しでも早いほうがいいとも思っていた。


 真夜中。

掛かってきた電話に出られたのは、ヒロキからの連絡を逃さないようにマナーモードの設定を解除していたからだ。


「加奈子ー、起きてたの?」


電話口の声を聞いて、すぐに酔っぱらっているのだと気づく。


「うん。起きてた」

「今、打ち上げが終わってさ。もうすぐホテル着く」


その声のさらに奥で、複数の話し声と笑い声が聞こえる。みんなアルコールの色をしていた。


「おつかれさま」


達成感と酔いで良い気分になっているのだろう。その陽気さや真っ先に自分に連絡をくれたことを愛しく思う一方で、自分が抱える迷いや寂しさとの差にため息をつきそうになって慌てて唇を引き結んだ。


私が深夜一時半の電話に出られたのは、眠れなかったせいだ。眠ってしまえば朝が来てまた学校へ行かなければならないのだと思うと、目を瞑ることさえ怖かったのだと、そんなことは到底言えない。


「気をつけて帰ってね。この前みたいに段差踏み外したりしないでね」

「はーい」


笑い声に混ざって、ヒロキ、と誰かが呼ぶ声が聞こえた。本当はこのまま朝まで話していたいけれど、あのひとをあのひとがいるべき場所へ帰してあげないといけない。それが私の責任だった。


じゃあね、おやすみ、と伝えるために口を開けた。


「加奈子、もうちょっとしたらまた時間ができるから」


予期せぬことばに胸と目じりが熱を持った。そしてそのまま涙が出る。泣いてばかりだ。目を覚ましたらきっと酷い顔になっている。だけど何も言わなくても気持ちが伝わったような気がして、嬉しかった。


だからじゃあね、のために開いた口が


「会いたい」


と言った。


しばらくしてトーンを落とした声で


「俺も」


と聞こえたとき、私は穏やかな諦観に満たされていた。


電話を切って静かになった部屋で、ベッドに横たわって目を瞑った。重たい眠気が身体に圧し掛かってくる。話をしなくちゃ。と繰り返す。


私は本当はただの学校に馴染めない十六歳だってこと。

あのひとに比べて私は何の才能も持たないその辺にいるただの女子高生だってこと。


そう打ち明けたら、この魔法も解けてしまうかな。ヒロキといる間だけは、別人でいられるような気がしていたのに。

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