私が溺れた川 12

 ギターを弾いている横顔を、一番近くで見られるのが私だったから幸せだった。


ギターとパソコンとときどきペンとノートを使って曲を作っている間、私はできるだけ音を立てないように洗濯物を畳んでいた。


でもたぶん、私がその場で騒いだとしてもあのひとの耳には入らなかったと思う。


穏やかな平日の午後だった。

ぬるま湯のような白い日差しが差し込む静かなカフェで、私たち二人は遅めの昼食を取ろうとしていた。オーダーを取った店員がテーブルを離れると、小さな音量でボサノヴァ風にアレンジされたどこかで聞いたことのある歌が流れているほかには、遠くで調理をする音がするくらいだった。


「あっ、ねえ、見て。こんなのもあった。えー、こっちにすればよかったかな」


メニューの間に挟まっていた一枚のラミネートをされた紙に季節の野菜と豚肉のレモンあんかけ定食を見つけて、定番のハンバーグランチを頼んだことを悔やむこともなく悔やんでみたが、いつまで経ってもヒロキからの返事がなくて、メニューから顔を上げる。


ヒロキは私でもメニューでもない、テーブルのどこかをぼんやりと見つめていた。

出会ったころからときどき感じていた。

ヒロキはこうして会話の途中やふとした拍子に上の空になる。


初めはいちいち寂しく思っていたけれど、その頃にはもう慣れていて、私は黙ってじっとヒロキの顔を見つめた。ただこうして眺めているだけでも初めてその目に自分の姿を映してもらえたときと同じような鳥肌の立つような幸福を感じる。


そうしてしばらくするとヒロキはようやく我に返り、私が正面に座っていることに初めて気が付いたかのように驚いた顔をした。


「ごめん、なんだった?」


私は少しだけむくれてみせながら、


「私の話、聞いてなかったでしょ」


と言った。実際はほんの一ミリたりとも怒ってなんかはいなかった。


「ごめん。ほんとに聞こえなかった。音楽の音がうるさすぎて」


だからヒロキが指先で頬を掻きながらそう言ったとき、冗談を言われているのだと思った。


「静かじゃん。私の声、そんなに通らない?」


私は笑いながら水の入ったグラスを手に取った。唇をガラスにくっ付けて中に入った水を口へ流し込もうとしたとき、その半透明の向こう側にばつの悪そうな顔が見えて、そのままグラスを置いた。何の気なしに水を飲もうとしただけのはずなのに、急に喉が乾燥した。


「どうしたの?」

「ほんとに聞こえなかった」

「いいってば。そんなこと。全然気にしてないし」

「そうじゃなくて」


ヒロキはそう言いながら右手で自分の右耳を塞ぐように触れた。


「うるさかった」


それから小さく自分自身に確認するかのように


「加奈子には聞こえなかったんだね」


と言った。


「なにそれ。ヒロキにしか聴こえない音楽が流れてるの? ここ」


まだ愉快な気持ちで言った。


「ここだけじゃないよ」


ヒロキはほとんど頭を抱えるようにして両耳を塞いでいた。その様子はまるで雷に怯える小さなこどものようで、私は急に胃の中に冷たい物を注ぎ込まれたような不安を覚えた。


今まで見たことのない景色に出会ったようで、そこに踏み込む勇気もなくて、だから私は笑った。そこがあの頃の私の幼さを象徴しているようでもある。


「聴いてみたいな。ヒロキにしか聞こえない音楽」


私はできるだけ好奇心旺盛で天真爛漫なこどものような明るい声を出そうとした。それが功を奏したのかどうかわからないが、ヒロキは耳から手を放して私を見た。


長い睫毛で囲まれた両目が、何かを探るように私の内側を覗き込んでいた。その視線に少しだけ居心地の悪さを感じていると、


「おまたせいたしましたー」


決まり文句をなぞるだけの店員の声とともにハンバーグが運ばれてきて、自然と注意はそちらに向いていった。その日はそれ以上、ヒロキにしか聞こえない音楽に付いて触れることはなかった。


 ヒロキが上の空になることはそれまでも頻繁にあったけれど、その日、初めてそのことに言及されてからというもの、その頻度は増していったように思う。


告白の日。

あの夜は外で飲んだ帰り道で二人とも酔っぱらっていた。冬の夜道だったのに身体は温まっていて、寒さは感じなかった。何がそんなに面白かったのかは覚えていないが、深夜の住宅街を笑いながら歩いていた。二人ともユーモアのセンスがあるわけじゃなかったし、飲み会に参加しても積極的に笑いを取るタイプでもなかった。きっとそんなお互いが口にするクオリティの低い笑い話で笑っていたんだと思う。


そんなときでもヒロキは突然、黙った。

子どものお誕生日会で飾ってあった風船が急に破裂したときみたい。実際には音は鳴らなかったけれど、それくらいの衝撃があってそれから笑い声が消えた路地は取り返しがつかないくらいに静かになった。


それでも二人の足は同じくらいのペースで並んで動いていた。


「ごめん」


その声で顔を上げた。白いスニーカーのつま先の汚れを見つめながら歩いていた。私はいつもより深く息を吸ってから、


「今日はどんな曲だったの?」


ヒロキの横顔を見上げて尋ねた。


「……バラードだった」

「そんな穏やかな曲に掻き消されちゃうほど、私の声って小さかった?」


それはちょっといじわるな発言だったかもしれない。その少しあとに猛烈に自分のことばを反省することになるのだけど、そのときはまだ知らなかった。それよりもあれだけ楽しく時間を共有していてもあのひとにしか聞こえない歌が流れるたびに小さな喪失を経験することが辛くて、悔しかった。私はきっとその歌にさえ嫉妬をしていたのだ。


それからヒロキの部屋に辿り着くまでの間は、会話はしていたけれど、それまでとはまるで空気感が異なっていた。お互いに触れてはいけない部分を探りながら上手に避けるようにして話をした。


そのことに気がついていた私は無性に泣いてしまいたくなって、部屋に着くなり一人で風呂に入った。シャワーの水流と音に隠れるようにして少しだけ涙を出して、身体や髪を洗う間に涙を止めた。そして何食わぬ顔をして浴室を出た。


「おさきに」


何事もなかったかのように言ったのに、ヒロキはさっさと風呂場へ行ってしまった。不機嫌そうだったわけでもない。今ならただ私と同じように一人で頭を整理したかったのだろうと思うけれど、当時の私はそんな態度にすら傷ついて、生乾きの髪のまま、ベッドに潜り込んだ。


あのひとの匂いが染みついたシーツに包まって、幸せなのか悲しいのかわからないままうとうととした。


遠くからドライヤーの音がして目を覚まし、その音が鳴っている間中、身を固くしていた。どんな顔でどんな態度で迎えれば良いのかわからなかった。


それからドアが開く音がして、私は壁際のベッドで壁の方を向くように寝返りを打った。あのひとがどんな顔をしていたのかを見ることはできなかったけれど、視線がこっちに向けられていることだけは全身で感じていた。


あのひとはしばらくそうして私を眺めたあと、気遣うようにそっとベッドに入ってきた。香りが濃くなる。同じ石鹸を使っているのに、同じ香りにはならない。背中に触れる体温が心地よくて、私は陽だまりで昼寝をする猫のように微睡む。


「寝てる?」


もし本当に私が眠っていたとしたら起きないような、思慮のある声音だった。


「……起きてる」


できることならこのなんとなくぎこちない空気を入れ替えたかった。ゆっくりと身体を動かして、ヒロキと向き合った。乱れた長い黒髪の束がゆっくりと降りてきて目の前を塞ぐ。ヒロキはステージの上で激しくギターを掻き鳴らす長くて細い指で、それをそっと払った。


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