私が溺れた川 11
行く当てを持たない家出少年のように所在なさげに立ち尽くしているヒロキにソファを勧め、コーヒーを入れた。部屋に二つしかないマグカップにドリッパーとフィルターをセットして、この前カフェで買ってきたエチオピア産のコーヒーの粉を入れる。
お湯が沸くのを待つ間、振り返って私の部屋のソファに沈むヒロキの姿を眺めていた。この部屋にあのひとがいるということが、とても不思議で、だけどとても当たり前なことのように感じる。
パチンッと音が鳴って、電気ケトルがお湯が沸いたことを知らせる。二人ともブラック。コーヒーが甘いのは許せない派だ。
マドラーもソーサーもない色気のないマグカップをローテーブルに置き、ヒロキの隣に座る。せめてもの救いはマグカップが無地だということだ。安心する香りのする湯気を立ち上らせるそれを抱えて、ソファに体重を預ける。
「いただきます」
ヒロキの細い指が白い持ち手に絡む。私は無言で頷いて、自分の分のコーヒーを啜った。フルーツみたいな酸っぱさのある爽やかな味。コーヒーは深めの苦めが好きだったけれど、最近はこのさっぱりとした味も良いなと思うようになった。
「うまい」
ふーっと長い嘆息のあとに、短くそう聞こえて私はくすくすと小さく笑った。
「気に入ってもらえてよかった」
テレビが何も映さない部屋。電源の切られたスマホ。平日の午前十一時は、朝の慌ただしさもひと段落付いて、閉まった窓の外の世界もほっと息をついているような暖かい静けさがある。コーヒーを啜る音だけがときどき響く。
ヒロキの身体の右側と私の身体の左側が触れていて、人の体温とは思えないくらいの温度がそこに生まれている。
ヒロキは今、一体何を考えているのだろうか。身
体をくっつけていても気持ちまでは流れ込んでこない。
どんなことばを発しても今のこの空間を壊してしまうような気がして、口を開くことができなかった。
会っていない間はあんなにも会いたくて堪らないのに、一緒にいても話すことはあまりない。ヒロキは自分が既婚者であることを私が気づいていることを知っているし、私に自分以外の恋人がいることにも気がついているだろう。私たちには触れられない話題が多すぎる。
もしかしたら失うことを恐れて言えないことばがある時点で、もう失っているのかもしれない。
何の前触れもなく突然思考がそこへ辿り着いて、奥歯を噛んだ。次に口に含んだコーヒーはやけにしょっぱかった。
空になったマグカップを片付けても私たちはまだソファの上で二人でくっついていた。隣から伝わってくる暖かさを感じていると、眠たくなってくる。何度かあくびをしているとヒロキに顔を覗き込まれた。
「寝ていいよ」
「べつに眠くないよ」
眠気がバレていたことが恥ずかしくて顔を背けると、頭を撫でられた。それが余計に羞恥心を煽って、私は不貞腐れた。もう二十四歳にもなったのに、ヒロキといるとまるで十六歳の当時に戻ったように子供っぽくなってしまう。
結局私たちはソファに腰かけたまま、お互いの身体に体重を預けて眠ってしまった。先に目を覚ましたのは私のほうで、レースカーテンの向こうの青が深くなっていることに心細くなった。時計を確認すると十六時を過ぎていた。
何もしていなくても時間は勝手に進んでいってしまう。
夜が来て朝が来たらあのひとはここを出て行ってしまう。
ずっと。
何度だってあのひとはここを出て行ってしまうし、何度だって私はさよならを言わなくちゃいけない。
このさき、ずっと。
私の身体に凭れ掛かって、安心しきったように寝息を立てる顔を見ながら泣きたくなってしまった。せっかく一緒にいるのに悲しい。どんなに幸せな瞬間でも哀しみの気配が辺り一面を満たしているし、いつも昔を思い出してしまう。
二人でいろんな音楽を聴いた。ヒロキが作った曲を聴いた。ヒロキが歌うのを聴いた。
そのすべてが今はもうない。
唇をぎゅっと結んで目の周りに力を込めた。力が強すぎたのか、今度は身体が小刻みに震える。我慢しようとしても歯や唇の僅かな隙間から声が漏れる。身体の震えと同じリズムで。それに気が付いたのかヒロキが目を開ける。やめてほしい、と思った。
あのひとの前では、泣かない凛とした強い女でいたかったのに。
ヒロキと目が合った瞬間、両目から本当に大きな涙の雫が流れて顎の先から落ちていった。驚いた様子もなく、ただ優しく微笑んでゆっくりと髪を撫でられた。子どもをあやすような手つきに安心と置いてきぼりにされたような寂しさを覚えて、私はもう隠すことを諦めて泣いた。
「誰にも内緒で今から結婚してしまおうか」
昔、冗談交じりにそんなことを言われたことがあった。あれは冗談なんかじゃなかったんだな。今になってようやくわかったけれど、あのときのあのひとの精いっぱいで最大限のプロポーズだったのだ。そうか。それなら私だって冗談でも、うん、って言っておけばよかった。
家族も学校も友だちも、それまでの人生の何もかもを失ったって構わなかったのに。
私が声を上げて泣き続けている間、ヒロキはずっと優しい手つきで背中を擦ってくれていた。胸のなかのいろんなものにその場限りの諦めを付けて、すっきりとした気持ちで泣き止むと、私はソファから立ち上がってもう一杯コーヒーを淹れた。
「なんか作ろうか」
一杯目よりもさっとマグカップを空にすると、ヒロキがそう言った。
「いいよ。私が用意する」
「いいって。俺、料理人だよ」
「でも冷蔵庫のなか、何もないし」
「じゃあ買い物行こう。何が食べたい?」
本当のところはこのままずっと二人でこの部屋に閉じこもっていたいところだったけれど、さすがに昼も夜も食事なしというのも味気が無さすぎる。何が食べたいか、考えを巡らせるとすぐに思い浮かぶものがあった。
「ボロネーゼとサーモンのマリネ」
それをどんなときに作ったのか覚えていたようで、ヒロキは優しく笑いながらも眉根を下げた。
「もっとレパートリー増えたし、手が込んだものも作れるようになったんだけどな……」
そうは言ったけれど、ヒロキはその二品を作ることを快諾してくれた。それから二人で一緒に上着を羽織って、一緒に靴を履いて、一緒に部屋を出た。
夕方の賑わいのなかにあるスーパーには、温もりがあった。一度も訪れたことのないはずの店内を、ヒロキが食材を選びながらカートを押して歩いていく。私は横に並んでその真剣な顔を眺めたりどうでも良いことを話したりしていた。こんなことさえとても自然で、あの日に付き合い始めてから一度も破局なんてしていないように感じた。
タリアテッレという平麺を使うヒロキが作ったボロネーゼは、あの頃よりも美味しくて、そこには確実に私の知らないあのひとの人生が存在していた。
一緒に台所に立ってはみたものの、特別料理が趣味でも得意でもない私は無駄のないヒロキの動きに手を出すことはほとんどできなかった。その代わりに後片付けをして、エルダーフラワーのハーブティーを淹れた。とてもいい香りのするそれは癖が少ない割には口のなかをさっぱりとさせた。とっくに日は暮れていて、普段の私が仕事を終えて寄り道をせずに帰宅する時間帯だった。一日のなかで最も濃厚に一日の終わりを感じる頃でもあった。
「このままずっと夜だったらいいのにな」
思わずそう言ってしまった。思ったことをそのまま口にしただけだったが、余りにもクサい台詞のように思えて自分で笑ってしまった。笑えて、良かったとも思った。ヒロキはそうだね、と呟いて、吐息交じりに
「時間が止まればいいのに」
と呟いた。そのことばは私のそれよりもずっと悲しげに響いた。空になったマグカップをテーブルに置いて、ヒロキの身体に両腕を回す。
このまま泣かれても良かった。私のなかにある空洞のような寂しさは、ヒロキの感じる寂しさによっていつもよりも満たされていた。
そのまま自然に唇を重ねて、服を脱いだ。あのひとのひとつひとつを確かめていくような、丁寧で繊細な触れ方に、私の身体は芯から震えた。そうしてお互いに果てて、抱きしめ合ったままひと眠りして、次に目を覚ますタイミングも同じだった。
余りにも本能的な快楽を味わったままの状態で眠っていたから、お互いに照れて笑ってしまった。そのまま手を繋いで一緒に狭い風呂に入った。ヒロキの両脚に挟まれるように座って、背中をあのひとの胸に預けた。日付がもう変わっていた。ヒロキはずっと私の濡れた髪に指先を絡めていた。
そうしているうちにまた切なさが込み上げてきて、私はお湯を張った浴槽のなかでもぞもぞと体勢を変えて、ヒロキの肩に両手を付いて、見下ろすようにして目を見つめた。
一瞬のとても静かな真夜中の沈黙を湯から出て空気に触れている素肌で感じて、勢いのままにキスをした。このままヒロキを食べてしまいたいほどの、強い強い名前の分からない衝動に突き動かされ、私は息が上がるほどのとても深いキスを何度も何度も繰り返した。
その内にヒロキの両手が私の頭の後ろに回されて、お互いにほとんど戦うような心持で唇を重ねた。もちろんそのまま寝ようか、というふうにはならなくて、慌てて身体をバスタオルで拭いて、でも水分を拭いきれずに濡れたままベッドに転がった。
さっきの一回目よりも激しかった。ヒロキの動きに合わせて漏れる私の声はくぐもって枯れていて、色気があるというよりは動物的だった。それを恥ずかしいと思いながらも、今のヒロキは絶対に受け入れてくれるだろうという安心感もあった。
綺麗じゃない私の声。常日頃から、女のものにしては低くて通りにくいこの声がコンプレックスの一つだった。あのひとが書いた詞を歌うあの声とはまったく違う。
ヒロキが作ったメロディでヒロキが書いた詞を歌っていた声は、今は別の誰かが作った歌を歌っている。あのひとが命を懸けていたものをあっさりと捨てて、別のものを選んだのだ。
私よりもずっと長い間ずっと近い距離であのひとを見ていたはずなのに、どうしてそんなことができたのだろう。そうしてあんなにも全身全霊を捧げていた音楽を捨てた日のことを思うと、胸が詰まる。
もしかしたら命を失うよりも大きな喪失を経験したのかもしれないあのひとを、この世の何もかもから護ってあげたいと強く思った。
両腕をヒロキの背中にきつく回す。
目が合う。
どうしようか。
愛してるなんて言いたくないのに、それ以外にことばがない。
両腕に強く力を籠める。激しさを増した動きに揺さぶられ、そして低い声が聞こえた。それとほぼ同時に私の身体も震えた。静かになったベッドの上で、身体の一部を繋げたまま、しばらくじっとしていた。
身体のなかを激しく流れ、あっちへこっちへ行ったり来たりする感情を正確に表すことばを、私は知らない。
何度も愛してる、と言いかけては唇を固く閉ざした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます