私が溺れた川 10

 ホテルの前で次の約束も無いままに別れたけれど、まさかそれきりになるだろうという予感は僅かもなかった。夜に身を隠すようにして何度も会って、何度も抱き合った。一日中一緒にいれることなんてなくて、いつもなんだか忙しない。


金曜の夜中、日付が変わってすっかり土曜日になってから、私は私を抱きしめて眠るヒロキの顔をじっと見ていた。羨ましいくらいにふさふさの長い睫毛が微かに震えている。


家族のことは良いのだろうか、とときどき思う。尋ねる権利なんてないし、奥さんが気になるから帰るなんて言われたら私はきっとそのまま死んでしまう。お互いにもう少しうまくやらないといつか悪いことが起こる。そんな気がしているのに、巧みにアリバイを作る余裕がない。


二人でいることはこんなにも正しい。

ヒロキの存在は風が通り抜けるだけの空洞のような私を満たしていく。


それなのに私たちがやっていることは、不倫なんだ。

不倫が特別悪いことだと思ったことはないし、特別憎いと感じたこともない。配偶者以外の異性とホテルに入るところを週刊誌に撮られた芸能人たちが、本物かどうかもわからない涙を流しながら誰宛てかもわからない謝罪を繰り返しているのを見てもどうでも良いとしか思っていなかった。


不倫なんて誰でもする可能性があるし、子どもが思うより大人はそういう悪さをしているものだ。でも、まさか、自分がする、なんて思っていなかった。


そういえば、昔、父も浮気をしていたかもしれなかった。


長い睫毛が重たそうにそっと持ち上げられる。何度か瞬きを繰り返す、覚醒しきっていない表情があどけなくて、八つも年上の男を可愛いなんて本気で思う。


「……寝ないの」

「寝るよ。もう少ししたら」


そう言いつつも眠る気はなかった。きっと朝までこうやってあのひとの匂いを嗅ぎながら眠る姿を見ていたほうが何倍も幸せだ。


「そういえば、言おうと思ってたことがあったんだった。忘れてた」

「なに?」


期待と不安が入り混じって気が急く私とは対照的に、ヒロキは眠たそうに口をもごもご動かしてゆっくりとした瞬きを繰り返した。


「来月、二連休が取れた」

「……うん」


私は慎重にヒロキの出方を伺う。表情は未だに睡魔によって胡乱で、うまく読み解けない。それでも心臓はスキップをするように弾んだ。


「だからゆっくりできるよ」


耳から入った幸福が心臓に落ちて、そこから血管を通って身体中へとものすごいスピードで拡散していく。顔に笑みが広がるのを止められなくて、私はヒロキの胸に頬ずりをするように顔を寄せた。


 ヒロキと一泊二日、一緒に過ごせる。

ただそれだけのことなのに、その二週間の私は無敵だった。


夜はよく眠れたし仮に睡眠時間が少なくても翌朝の目覚めは良かったし、満員電車も気にならないし仕事でもほとんどミスをしなかった。篤樹を含めた周囲の人にもいつもよりも優しく接することができた。休日に篤樹とランチをしに出掛けた日には、「なんか最近綺麗になったよね」とまで言われた。私はとても純粋に、学生の頃に友だちにしたように、すきなひとがいることを打ち明けてしまいたくなるほどだった。


ヒロキの二連休に合わせて、水曜日と木曜日の二日間の有休を申請した。ちょうど都合の良いことに週の半ばは比較的業務量が少ないこともあって、上司も先輩も快くオーケーを出してくれた。そんなことすら追い風のように感じて、私はなんだか希望に満ち溢れた心地だった。


「せっかくだし、どこか旅行にでも行く?」


朝まで営業している大衆居酒屋のカウンターに並んで、ヒロキが言った。


「旅行かぁ」


旅行は嫌いではないけれど、趣味と言うほどでもない。友だちに誘われて、予定が合えば行く。今までずっとそうだった。


「微妙?」

「微妙って言うわけじゃないけど、行きたいとこが思いつかないや」


風情のある知らない街を、誰の目を気にすることもなく手を繋いでゆっくりと歩けるならそれも良いかもしれない。知らないものや知らない味を知らないことに、二人で感動するのはきっと素敵なことだ。


だけどどうしても私はあのひとを、独り占めしていたかった。奥さんどころかあのひとのことを知らない人にさえ分けてあげたくない。手を放してしまった七年前から再会するまでの空白を埋めるように濃く、視界をあのひとで満たしていたかった。


「旅行も良いけど、部屋でゆっくりしたいかも」


ソーダで割った梅酒が入ったジョッキに添えた自分の指先を見ながら小さな声で言った。なんとなく恥ずかしかったのだ。ヒロキは低い声で、ふわりと笑った。


「そういうとこ、加奈子は変わってない」

「……そうかな」

「昔からそうだったよ。若いくせに、出不精」

「若いくせにって……」

「もっといろんなとこ連れていってあげればよかったね」


ヒロキはそう言ってまた少し笑った。私は胸を突かれたような衝撃を覚えて、突然込み上げてきた涙を必死で飲み込む。鼻から大きく息を吸って吐くと、胸が大きく上下した。素早く瞬きをしてからあのひとの横顔を覗き込むと、とても穏やかな表情をしていて余計に泣き出しそうになった。その視線の先には七年前の私がいて、今でも慈しんでくれている。どこにも行けなくとも、それだけで充分だ。


 部屋で一緒に過ごすと言っても、もちろんヒロキの家には行けない。あのひとの前でバッグから取り出した鍵を鍵穴に刺して回す瞬間、背筋が粟立つような興奮を覚えた。


「おじゃましまーす」


背後で遠慮がちな声がする。途中に風呂場がある短い廊下の先にある、小さな部屋。私が暮らす部屋。昔のヒロキの部屋は何度も尋ねたことがあるけれど、反対にあのひとを私の部屋に呼ぶことはこれが初めてだ。


殺風景で女の子が住んでいるとは思えない、と母親に言われた部屋。

ここにはあの頃のヒロキの部屋のように映画のDVDもCDも外国のロックバンドのポスターもギターもない。


あるのは一枚の絵。

社会人になりたての頃、たまたま街を歩いているときに見つけた個展で衝動買いをした。私と同い年の女性の画家が描いたものらしい。原画ということもあり、まあまあなお値段がしたのにも関わらず、クレジットカードで分割払いにしてまで買ってしまった。


全体的に青い画面。絵の端の方には白が塗られている。その青と白が描いているのは川辺の光景。青年が一人、煙草を吸っている。顔ははっきりとは描かれていないが、決して明るい表情はしていないということだけはわかる。


こうして見ると、絵の中の彼はどこかあの頃のヒロキに似ている。


「何にもなくてつまんないでしょ」


あのひとはゆっくりと部屋中を見回して、それから川辺の絵に目を止めた。


「加奈子みたいな部屋だね」

「え?」

「本当に大切なものだけを自分のなかに置いておく感じが」


何と言って良いのかわからずに視線を逸らすと、ベッドサイドのテーブルに煙草とライターが出したままにされているのを見つけた。再会してから一度もヒロキが煙草を吸う姿を見ていない。勧めるわけにもいかず、そこにあることにすら気まずさを覚えてチェストへ片付けようと手を伸ばした。


「懐かしいわ、それ」


斜め後ろを振り返る。ヒロキの視線は私の手の中にある銀色のライターに注がれていた。


「失くしたと思ってたけど、加奈子が持ってたのか」

「ごめん」


咄嗟に謝った。二人が別れる少し前に、断りも入れずに勝手に持ち出した。ペアリングなんて持っていなかったから、離れている間にもヒロキの存在を感じられるような、お守りのようにして持ち歩けるものが欲しかったのだ。


「返さなくちゃね」

「いいよ。もう」


ヒロキは微かな笑みを浮かべていた。喉に突っかかるのを感じながら唾を呑みこんで、私は意を決した。


「煙草、やめたの?」

「やめた。もうだいぶ前に」

「そうなんだ」


ライターを握る手に力を籠める。そうしてみてもどうして、と尋ねることはできなかった。意識して身体を動かしてライターと煙草の箱を引き出しにしまった。

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