私が溺れた川 09
部屋に辿り着いて、着替えだけをしてそのまま引きずり込まれるようにして眠った。
はっきりと色の付いた現実味のある夢を見ていたはずなのに、目を覚ましたら内容を忘れていた。身体を起こしてみたものの、首から頭にかけてがセメントで固められているかのように重たい。
時計を確認すると午後八時を過ぎていた。何をするにも中途半端な時間に、気持ちまで重たくなる。バッグに入れたままにしていたスマホを充電器に刺すと、ディスプレイが明るく灯る。
掌に収まる液晶を埋めるほどの通知の数。普段あまり目にしない光景に、背筋がすっと冷えた。着信もメッセージも全て篤樹からだった。見なかったことにして乱れた布団のなかにスマホを放った。
物の少ない部屋。装飾の少ない部屋。ときどきここを訪れる母や友人たちは殺風景だと言う。篤樹は気を遣っているのか、「シンプルで良いね」とだけ言っていた。掃除機を掛けるときにいちいち物を動かすのが面倒くさくて、必要最低限のもの以外は持ち込まないようにしている。
そんな寒々しい部屋にあるダークブラウンのキャビネット。最上段の一番右の引き出しを開ける。煙草とライターを取り出して、ローテーブルに並べる。部屋では吸わないことにしているから火は点けないけれど、懐かしい香りがしてさっきまでの余韻が急に胸にせり上がってくる。この煙草もライターも、昔あのひとから盗んだものだ。
煙草を吸う横顔や、紫煙の向こうに霞む存在の曖昧さが堪らなく好きで、部屋から勝手に持ち出したきり、返さなかった。今でもときどき同じ銘柄の煙草を買って、このライターで火を点ける。
白い箱の真ん中に赤い丸。
なんか、日本の国旗みたいだ、と思ったのを覚えている。苦くて変な味がして何が美味しいのかわからなかったし、今でも正直美味しいとは思わない。だからこそ日常的なスモーカーにならずに済んでいるのかもしれないけれど。
ライターの火を点けて消してまた点けて、となんとなく繰り返している内に、そういえば、と思いつくことがあった。
そういえば、煙草を吸わなかったな。
それが意味することに思考が辿り着きそうになって、慌ててさっき放り投げたスマホを手に取った。
『何回も連絡くれたのにごめん。ちょっと体調悪かっただけで、だいぶ落ち着いたから大丈夫。』
篤樹にメッセージを送り、風呂に入ることにした。
能動的に聴こうとしなくても、音楽とは勝手に耳に入ってくるものだ。iPhone付属のイヤフォンは白い箱に入ったまま一度も日の目を浴びていないけれど、例えば友だちや篤樹と街を歩いているとき。駅前の街頭ヴィジョン。アパレルショップの店内放送。例えばテレビを見ているとき。コマーシャル。番組のエンディング。
聴き覚えのある懐かしい声がふと耳に入ってくることが、ここ数年で増えた。
どんな想いで聞いているんだろう。
それは私が知らない物語。音楽に生かされていたあのひとが、音楽を捨てた。
そう知ったとき、私はどこかであのひとはもう死んでしまっただろうと思っていた。音楽なしで、あのひとが生きていけるわけがないから。
懐かしい声、ユウトの声はあの頃とは違う音色で彩られている。
五年前、ナイトフォールは解散した。
あるとき、部屋で馴染みのメロディをヒロキが歌っていた。ギターを弾きながら。
それが毎日寝ても覚めても聴いていたナイトフォールの曲であると、少し遅れて気が付いた。ユウトよりも低くて太いその声は、ドラマチックに感情を揺さぶるというよりは、色褪せた古い写真を見つけたときのような懐かしさと切なさを含んだ哀愁を湛えていた。十六歳の私はそれを聴いて堪らなく寂しくなって、何かを失ってしまったような気分にさせられた。
「なんか不思議」
一曲を歌い終えて、次の曲が始まる様子が無いのを確かめてから言った。
「なにが?」
ヒロキがこちらに振り向く。
「いつも聴いてるはずの曲なのに、ヒロキが歌うと全然雰囲気が違う」
「ああ、かもね」
首を回して視線はまた抱えられたギターに注がれる。そして六弦から一弦に向かって一つ一つ確かめるように引っ掛けるようにして右手を滑らせた。ヒロキの背後に立っている私からは見えない角度で、別のメロディが曖昧に奏でられる。
「ユウキの声は、あれはもう才能だから」
「え?」
表情が見えない。ヒロキが作ったナイトフォールの曲がアコースティックバージョンでゆっくりと紡がれていく。それに聞き入ることもできずに、ことばの続きが与えられるのを待った。
「ギター弾けるのだって才能じゃん」
十六歳の私が待ちきれずにそう言うと、ギターの音が止んだ。完全な静寂のなかで私は無性に泣きたくなった。
「ギターは練習すればある程度弾けるようになるけど、歌声は、もうギフトだからね。練習したからって誰でも人を惹きつける声で歌えるようになるわけじゃない」
「でもヒロキは詞も書いて、曲も作るじゃん。それだって才能でしょ」
なんとしてでも私を圧倒的に打ちのめした才能を、あのひと自身に認めさせたかった。自棄になった言った私に、ヒロキは吐く息に少しだけ声を混ぜるようにして笑った。
「ほんとはね」
そこで一度、ヒロキはことばを区切った。
「ユウトが入る前、バンド始めた頃は、俺が歌ってたんだ。伝えたいことがあって書いた自分の歌を、自分で。でもあいつに出会って、初めて歌ってるのを聞いたとき、何の未練も無く歌うことをやめられた。圧倒的な才能を目の当たりにして、悔しさよりも感動した。その時点で俺に歌を歌う才能はないってこと」
ヒロキはこちらを向くでもなく、ギターを見るわけでもなく何も無いローテーブルの更に二、三十センチ上の空中を見ていた。
「だから他の部分で勝負するしかない。遠回りでも」
それはもう自分に言い聞かせているようだった。
あれは冬の朝だった。
珍しく二人とも早起きをして、カーテンを開けた窓から丸みを帯びた温かな光が狭い部屋に差しこんでいて、ヒロキを照らしていた。逆光で暗い背中を、眩しさに目を細めながら見ていた。
あのひとは本当は、歌いたかったんだ、と思う。だけどそういう自分の夢とかやりたいこととか理想を差し置いて、すぐ隣にある別の誰かの才能を輝かせることを選んだんだ。
それこそがあのひとの才能だった。望む形じゃなかったとしても、誰にでもできることじゃない。そのことをあのひとに伝えるには、私は幼過ぎた。
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