私が溺れた川 08


「……いいんですか? お邪魔になりません?」

「大丈夫だよ。散らかってるけど」

「えー、ヒロキさんの部屋って片付いてそう」

「残念だけど全然そんなことないんだよね」

「じゃあ迷惑じゃなければ、お邪魔したいです」

「おー、じゃあ行こう」


心臓がずっとどきどきしていた。あのひとがあのひとの家の最寄りの駅までの切符を買って手渡してくれて、手を繋いだまま電車に乗った。席は全て埋まっていたけれど、


「すぐだから」


という声に頷いて、ドアの上の路線図をなんとなく眺めていた。


三つ目の駅で降りて、あのひとに続いて改札を通った。駅前にはちゃんと夜の暗さが広がっていて安心した。


街灯と民家の窓だけが明るい道を声を潜めて話をしながら歩いた。途中のコンビニでおよそ二人分には思えないほどのお酒とおつまみとコンビニ弁当とアイスを買い込んで、会計で金額と袋の大きさに顔を見合わせて笑った。


「買い過ぎたわ。すっげぇ重い」


コンビニを出たところで袋を持ってくれたあのひとがそう言うから私はまた笑った。


「だから言ったじゃないですかー。そんなに食べれませんよって」

「加奈子ちゃんの言うこと聞いておくべきだったな」


重たいコンビニ袋をぶら下げて、あのひとの部屋に辿り着いた。鍵を開けてもらう頃には緊張感は薄れていて、このまま少なくとも始発の電車が走り始めるまでは一緒にいられるということに安心感を覚えていた。


初めて入るあのひとの部屋は、やっぱり散らかってなんかいなかった。ラックには所狭しとCDやDVDや本たちが収められていて、壁には海外のバンドのポスターが貼られていた。


なかでも一番目を引いたのは、スタンドに掛けられた三本のギターだった。ライブやMVのなかであのひとが演奏をしていたギターがそこにある。


私が今独り占めをしているのはあの、ずっと憧れ続けていたat nightfallのヒロキなのだと実感がじんわりと胸に広がった。


「適当に座って。ちょっとこの辺しまうわ」


あのひとは私にソファに座るように促し買い込んだビールを冷蔵庫に入れると、一人二本ずつの缶ビールと弁当を持ってきた。私の隣に腰かけ、プルトップを上げる。プシュッと爽快な音がした。


「乾杯」


中身の入ったアルミ缶同士をぶつけると抜けきらないなんとも間抜けな音がした。真夏の人込みのなかを長距離歩いたせいですっかり喉が渇いていて、冷えたビールはあっという間に体内に吸収されていった。


「おいしい」

「前から思ってたけど加奈子ちゃんって結構酒強いよね」

「でもナイトフォールの皆ほどじゃないですよ。ほとんど底なしじゃないですか」

「底はあるよ。底を無視して飲んでるだけ。あいつらは。リョウスケは強いからまあいいけど、ユウトなんか割と弱いくせに酒好きだから困るよ。ときどき」

「潰れちゃうんですか?」

「潰れる。何話してるかわからなくなるし。でも話好きだからずーっとべらべらべらべらなんか言ってんの」

「あー、この前そんな感じでしたよね。すっごく楽しそうにひたすら喋ってましたね」

「そう。あんな感じになる。あれぐらいで済めば良いんだけどね」

「ショウタさんも結構強いですよね。ライブ中に淡々と飲んであれだけ暴れて、よくクラッとこないなって思いますもん。最初水かお茶を飲んでるのかと思ってたし」

「ショウタはもうどうしようもない。酔っぱらって気持ちよく演奏するのはいいけど、ときどきジャンプして着地失敗して足くじいたり、どっかでぶつけて流血したりさ。フロアにダイブするとき、毎回こいつ戻ってこれるんかって心配になるわ」


クールに演奏をするライブ中でさえ酔い過ぎたメンバーの心配をするヒロキの苦労を思うとなんだかおかしくて声を上げて笑ってしまった。


あの四人の中で一番しっかりしているのはヒロキかショウタだろう。そこに親しみやすさを加えるとダントツなのはショウタのように思える。初めて一緒に飲んだ日からショウタは私も会話に入りやすいように話を振ってくれたり気を配ってくれたりして、おかげで気まずさを覚えたことはほとんどなかった。


あのひとは人見知りの気があるのか、最初の頃は疎ましく思われているんじゃないかと思うくらい、視線さえなかなか合わなかった。それがこうしてあのひとの部屋で並んでお酒を飲んでいるなんて、その頃から思えばまさに夢のようだ。


あっという間に二人とも一本目を空にして二本目のビールでも乾杯した。


「でも初めてマサで会ったときって、全然私のこと見てくれませんでしたよね」

「え、誰が?」

「ヒロキさんが」

「そうだっけ」

「そうですよ。だからこう、身内だけで飲んでるところに突然乱入してきた部外者を鬱陶しく思ってるのかなーって思ってました」

「そんなことない。ただあれだよ、この歳になっても初対面の女性と話すのが苦手なだけ」

「うそだー。バンドマンにそんなことがあるわけない」

「それは偏見持ちすぎ」


そう言って私たちは笑った。私もあのひとも人混みのなかを抜けて二人だけになったことによってようやく肩から力を抜いて話ができるようになったみたいだった。


弁当を平らげて買い込んだ大量のおつまみを当てにしながら、身体の水分のすべてがビールになるんじゃないかと思うほど飲んだ。お喋りではない私たちにしては珍しくいつまで経っても話し続け、何度も声を上げて笑った。


そのうちにそのままソファの上で身体を丸めて眠ってしまいたくなった。さすがに自分が飲める量を超えてしまったらしい。


「眠い?」


あのひとに少し笑いながらそう聞かれて、私は素直に頭を前に落とした。


「水持ってくるから待ってて」


手渡された透明なグラスに入った水を一気に飲み干した。


「さすがに飲み過ぎたね。気持ち悪くない?」

「それは大丈夫」

「それならいいけど」

「それよりも眠い」

「いいよ、寝て」

「でも……」

「なんなら布団貸そうか?」

「それはいいです。ヒロキさんが布団で寝て。私はここで寝ます」


そのあとにまだ何か言われたような気がしたけれど、私は全身に重りを付けて水中に飛び込んだように勢いよく深い眠りに落ちていった。


 眠るときとは反対にゆっくりと目を覚ました。見慣れない部屋の光景に、眠るまで自分がどこで何をしていたのか理解するまでにしばらく時間が掛かった。


何度か瞬きをすると、そのたびに頬が乾燥して引きつり、化粧をしたままだということ気がつく。そしてここがどこであるかを思い出して飛び起きた。


ソファで眠りこけていた私には夏用の薄い布団が掛けられていて、あのひとはローテーブルとソファの間で座ったままソファに凭れて眠っていた。


その姿を見て完全に覚醒した。同時に喉の渇きを覚えたので、テーブルの上に置かれた空のグラスを持って、あのひとを起こさないようにそっとソファを降りてキッチンへ向かった。勝手に触ることに気後れしたが、ミネラルウォーターのペットボトルを発見し、グラスに注いで飲んだ。


頭も視界もクリアになってくる。眠っているあのひとの顔をじっと見つめていたいけれど、なんだかいけないことをしているような気がして、まともに見ることすらできない。


化粧をしたままの顔も汗をかいた髪もビールを飲みっぱなしの口もなにもかもが不快でシャワーを浴びたいけれど、断りもなしに使うことには抵抗があるし、かといって再び眠りに戻れそうな気もしなかった。


気づかれないようにずっと寝顔を眺めていたい気もしたし、早く起こして話がしたい気もした。


結局私は水の入ったグラスを持って、もといた場所に戻ることにした。音を立てないようにグラスをテーブルに置いて、さっきまで自分に掛けられていた布団をそっとあのひとに掛けると、あのひとが身じろぎをした。私は思わずびくっとしてその場で固まった。あのひとは頭を掻いて、ぼんやりとした表情で私を見た。


「おはようございます……」


と言ってみたけれど、果たして聞こえているのか定かではなかった。


「あ、お水、飲みます?」


あのひとが気だるげな所作で辺りを見回したので渡してみると、小さな声で「ありがとう」と言われた。


「ちょっと生き返った」


水を飲み干して、首を回しながらあのひとが言った。


「そこで寝ると疲れますよね。ごめんなさい、私がソファを独占してたみたいで……」

「いいよ、それは。俺も寝落ちしてただけだから」


あのひとはうーんっと唸りながら大きく伸びをして、時計をちらりと見た。


「まだ四時だ」

「ほんとですね」

「まだ寝れるね」

「寝るなら今度はちゃんとソファかベッドで寝てくださいね」

「うん、大人しくそうする。背中痛い」

「ほらぁ」


そう言いながらまた二人で小さく笑った。


「俺、もう少し寝ないと動けないから、加奈子ちゃんも好きにしていいからね。遠慮しないで」

「じゃあシャワーお借りしても良いですか?」

「どうぞどうぞ」


あのひとは本当に眠たいようでそのままベッドへと飛び込んでしまった。

反対に完全に眠気が覚めてしまった私は、化粧直し用にポーチに入れていたクレンジングシートで顔を拭き、風呂場に置かれていた男性用の洗顔で顔を洗った。必要な皮脂まで洗い流されてしまいそうなくらいに爽快な洗い上がりだった。


シャンプーを洗い流そうと頭からお湯を浴びていると、急に不安なような惜しいような気持ちになってきた。


二人しかいない部屋で浴びるようにお酒を飲んだのに何も起こらなかったことが、私に魅力が無いことを暗に言われているようで、あのひとに子どもだと見破られているようで悲しい。それとも私が背伸びをし過ぎているのだろうか。


なんだか悔しくなってきて、シャワーの水流に打たれながら泣いた。


私はあのひとのことが完全にすきなのに、二人で出かけて部屋に招かれて、それで期待しないはずがないのに。あのひとにとってはそうじゃなかったのかもしれない。関係を持つことになっても良かった。


そこに私への愛情がなくたって、一晩だけのつもりでもセフレになったとしても良かった。むしろもっと酷いことをして一生消えないような傷を私に残してほしかった。確かにあのひとが私と一緒にいたのだということを、私に触れたのだということの証明を刻み付けてほしかった。


そんな風に思っていたのに、その思考さえ幼いと言われているようで、もう為す術がなかった。


シャワーを終えてすっぴんで鏡に映る私は、十六歳に戻ってしまっていた。せっかく洗ってさっぱりした顔に再び薄い化粧を施して、部屋へ戻った。


だけど眠っているはずのあのひとの姿がベッドに無くて、胃の底が冷えるような心地がした。濡れた髪のまま、部屋を見渡す。キッチンにも姿がない。トイレは脱衣所と繋がっていて、私がシャワーを浴びている間に出入りした気配はなかった。何か急な用事があって出ていったのだろうか。


次にどうすればいいのか策を考えようとして面倒くさくて浸っていた幸福を突然取り上げられたような気分だった。呆然としたまま、動けなくなる。


「加奈子ちゃん」


だからそうやって名前を呼ばれたとき、私はちょっとだけ泣いてしまった。さっきまでの涙が目じりに残っていたのかもしれない。


「どうした?」


不思議そうに首を傾げながらあのひとがベランダから戻ってくる。私の近くまでやってきたときにふわっといつも居酒屋で嗅いでいたあの苦い匂いがして、何をしていたのか悟った。


「どうしたの?」


と顔を覗き込まれながらもう一度聞かれた。いつの間にか着ている服がどこかのバンドのTシャツとスウェットのパンツに変わっている。


あのひとがどこにも行かないように、その胸の部分をぐっと握ってしまいたかった。水とシャワーとでもう醒めたと思っていたけれど、まだ酔っぱらっているのかもしれない。


「寝るんじゃなかったんですか」


乾いてざらついた声は、到底可愛らしいとは言いがたいものだった。


「そのつもりだったんだけど、目が覚めちゃって」

「私に遠慮してるなら、煙草、部屋で吸ってもらっても大丈夫ですよ」

「そういうわけじゃないよ。部屋の中では吸わないようにしてる」

「そうなんですか」

「どうした? 本当に」


だからどうか何も言わずに私の前から姿を消さないで、というのが今一番あのひとに言いたいことばだったけれど、恋人でもないくせにそんな図々しいことは言えない。その歯がゆさで余計に泣けてくる。必死で顔を隠した。飲んで酔っ払って泣くなんてみっともない女だと思っただろうか。


「すきです」


一番大切に取っておいたはずのことばを、気がついたら口にしていた。

策なんてもう考えられなかった。

どうしてこんな最悪のタイミングで言ってしまったんだろうと自分を殴りつけたいような気分だった。


「ヒロキさんのことが、ずっと」


怖くてあのひとの顔を見ることができなかった。こんなファンの女の子は私の他にもいっぱいいるのだろうか。ちょっと部屋に呼んだからってすぐに調子に乗って、こんなことを言うような。自分でも馬鹿だと思うのに。


「加奈子ちゃん」


名前を呼ばれてもまだ顔を上げる勇気はなかった。


「こっち向いて」


首を横に振ると乾ききっていないいつもよりも濃い黒の髪が固く揺れた。


視界に入っていたあのひとの右手がゆっくりと持ち上げられて、私の頬の涙が流れた跡に触れる。その指先の感覚に思わず顔を上げてしまう。


あのひとは笑っていた。少し悲しそうな顔で。目が合う。


そしてキスをした。

それは私の人生で初めてのキスだった。


あのひとの唇や顔が離れていくまで、私は目を瞑ることも息を吸うこともできなかった。ぼんやりとする頭でせめて歯を磨いておくべきだったと思った。どういう意味かと尋ねられるほど私はタフでも向こう見ずでもなくて、ただ今度は本当にあのひとのTシャツの一部を握ってねだるように背伸びをした。


もう一度唇を重ねたとき、私はなにもかもを受け入れてそして諦めた。


裏切られてもいい。他に同じような女の子がいてもいい。

だからその代わりに一度だけでもいいから、あのひとを手に入れたかった。


きっと二十一歳にしては私の反応は幼過ぎたと思う。それでもあのひとは、結局何も言わなかった。

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